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 言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

被災文化財 ⑩

2020年08月26日 | 歴史探偵

 人吉城歴史館に避難していた仏神像を山江村歴史民俗資料館で預かることにしました。人吉市内で被災した仏神像でしたので、私も歴史館に運び入れました。ところが、歴史館も被災しました、展示物もほとんど被災しています。今回、県文化課からも依頼があって受け入れることにして、今日、運び込まれてきました。

   

 

    

 

 (大柿毘沙門堂)(大柿観音堂)(薩摩瀬のお堂)(湯の元観音堂)の仏神像です。大柿毘沙門堂の毘沙門さんがいちばん大きくて重い仏像です。日通の専門家3名によって頑丈にくくられて運び込まれました。私は、大柿から歴史館までは、毛布(布団)にくるんで軽トラで運んだのとは大違いでした。毘沙門さんもビックリだったのではないでしょうか。他の仏神像もきちんと梱包されて運び込まれました。そのうちに、一つずつ紹介します。

 被災していたので泥などを落として(クリ―ニング)ありますが、歴史館も被災した場所だったのでカビ臭さが残っていました。環境は良くなったので徐々に良くなるだろうとは思います。しかし、ダメージは受けています、心配です。

 まだ、見つかっていない仏像もあります。今日も台座だけが避難してきて本体が行方不明のもあります。これから見つかることを期待です。

 今後は、お堂をきちんと整備して、この仏さんたちにきちんと帰ってもらう手はずを作ろうと思っています。取りあえず、お堂の片づけと整備です、今度の土曜日、29日:9時から(昼までの予定)相良村の八田薬師堂の泥出しをします。お手すきの方はご協力をお願いします。

 台風は九州の西海上を北上していきました。今日は雨が降ったり止んだりの一日になりました。風は涼しく吹いてくれました。

 今日の天気( 


被災文化財 ⑨ 奇遇なこと

2020年08月25日 | 歴史探偵

 球磨村渡の山口釈迦堂のことです。私は6月26日に球磨村川島の“数珠回し”を見にいきました。その帰りに山口釈迦堂に初めて立ち寄ったのです。鍵が掛けられていたので、外から拝ませてもらいました。そして写真も撮ったのです。

   

 

        

 その1週間もたたない7月4日の球磨川大水害によってお堂は流されてしまいました。外からでしたが3体の仏像は写真におさめていました。「木造釈迦如来立像」、43㎝・・文政5年(1822年)大円作です。銘が朱書きされていたということです。「不動明王坐像」も同じ時の大円作です。それと石造地蔵坐像。どうにかと見つけたのですが、私の力では残念でした。どこかで見つかってくれるのを祈っています。

   

 熊日の「わたしを語る」に渡出身の今村葦子さんがついこの前まで連載しておられました。児童文学作家の人です、私はそれまでこの人のことを知りませんでした。今村さんが小さい頃のことを語る中で釈迦堂のことを書いておられました。「釈迦堂があるのどかな村」・・ところが“のどかな村”が水害で一変しました。この文章は水害前に書かれたようですが掲載されたのは水害後でした。

 私が撮った写真、今村さんの連載記事・・・そして、水害・・奇遇さを感じました。そして、そのうちにどこからか“奇遇”に仏さまが出て来られることを期待しています。

 今日も台風の影響で?暑かったです。しかし、風があったので夜は涼しさを感じています。

 今日の天気(一時


被災文化財 ⑧

2020年08月23日 | 歴史探偵

   

 昨日いって仏像を預かってきた(人吉伊勢神宮)は紺屋町にあります。預かってきた仏像のひとつは(青面金剛像:しょうめんこんごうぞう)と思われます。たぶん江戸時代頃の作にみえました。“青面金剛”・・・あ!この場所には‘庚申堂’があった・・・だから、この像があるんだ!と息子と喋りながらようやく気付きました。庚申信仰で祀られる仏像です、“みざる、きかざる、いわざる”の三猿がこの仏像の前に座っています。りっぱな仏さまです。持ち物、飾り物が無くなっていますが、人吉球磨には珍しい仏像だろうと思われます。この場所にはむかしの記録に‘庚申堂’があるのです。たぶん(これからは憶測です)山田川の堤防(河川改築)で、お堂は無くなって合祀されていったのではないかということです。

 神社の前に小さな祠が、中に「紺屋町区 恵比寿堂幷稲荷堂建立・・・昭和五年二月廿一日」の棟札がありました。たしかに2つの祠は今もあります。昭和5年には、庚申堂は別に建っていたのか、あるいは既に合祀されていたのかはわかりませんでした。調べて見たくなりました。それにしても仏像だけは残っていてよかったです。今回の水害で水に浸かっていたようです、カビがあったのでその処理だけはして保管しています。

 今日は暑くなりました、南の海には台風が現れました。これからの針路が心配です。

 孫たちは今日で夏休みはお終いです。孫ムスコはまだ宿題をやっています。

 今日の天気(


被災文化財 ⑦ 

2020年08月22日 | 歴史探偵

 今日から(山江村歴史民俗資料館)は休館から解除されました。とはいえ、まだ、人吉球磨在住の方のみ、です。ところが、昨日、決まったことなので周知がままならずに(たぶん)今日の来館者は0・・こういう施設の受難はしばらくは続きそうです。“コロナ対応指針”なるものによって左右されています。いまの指針だと、人吉球磨で感染者が出たら、また(閉館)です、今年はしばらくは“開いたり閉しまったり”を繰り返すものと思われます。

    

 今日は人吉紺屋町の“伊勢神宮”の隣接する小堂から仏像を資料館に運び入れてきました。伊勢神宮がありますが、その近くに幾つかの仏堂もあったようです。いまは合祀されたのか、“稲荷堂”などの小さな祠があります。尊名不詳の仏さまを持ってきました。小堂から出されていたのもあって、どの厨子に座っておられたのかわかりませんでした。水に浸かった形跡があって、1か月以上もそのままだったのでカビが発生していました。もっと早めに気づいて避難させたらよかったです。いちばん、右奥の像は(大円作)です。もうすこし、調べてから、きちんと報告します。

 わが家周辺では昼過ぎに夕立のような雨がありました。おかげで少し涼しくなりました。

 

     

 久しぶりに九日町に行きました。町通りはずいぶんと片付いていました。家の中はまだまだのようでした。

 今日の天気(一時


被災文化財 復旧へ

2020年08月21日 | 歴史探偵

 このところ、猛暑で出かけるのを行きそびれていた被災文化財のことを見にだけ行ってきました。

 ・〇〇祠 南泉田町  小さな祠があります、完全に被災していました、内容のことはぜんぜん把握しておらず、とりあえず、歴史文化課には連絡しました。

 ・伊勢神宮 紺屋町 おおまかに片付けてありました。神社祠の横に、小さな祠(お稲荷さんと〇〇??)があります。仏像がポツンと置いてありました。ちょっと気になったので避難した方がよいなあと思いました。明日にでも動きます。写真の仏像です。

    

 ・えびす神社 九日町 片付けがまだ・・計画しようと思いました。

 ・新町地藏堂 新町 片付けはしてあります、仏像の台座が壊れたので修理する必要あり。

 ・小柿観音堂 仏像がなし(行方不明)

 ・大柿毘沙門堂 周りは片付け済み お堂の中はそのまま、片付ける必要はあるのですが、危険な建物のようにみえるので、立ち入っての作業は専門家の判断が必要な気がしました。

  

 ・湯の元観音堂 もう少し片付ける必要があり・・計画が必要、仏さまは人吉城歴史館に避難。

 ・八坂神社 被災したまま、神像3体も倒れていた、ここは近日中にどうにかすべき。

 予報では昼から(雨)だったので、そんなに暑くならないだろうと思って、出かけ(動き)ましたが、遠くから雷が聞こえただけ。しかし、ところどころで雨があったようです。少しは涼しくなったかもしれません。

 文化財の復旧復興に向けて動き出そうと思っています。これからは、捜索だけではなく、復旧に向けてです。相良 柳瀬の薬師堂も片づけをしようと思います。また、呼びかけします、よろしくお願いします。

 被災した文化財のこと、カテゴリーで(歴史探偵)にすることにしました。

 今日の天気( 眠れない夜が続いています、今夜は眠れるかな)

 


合子俣に

2020年06月24日 | 歴史探偵

   

 今日は合子俣(ごうしまた)の地蔵さんまつりでした。今年の地名歴史サークルのテーマが(まつり)です。各集落等で行われている(まつり)に出かけていって、そのようすを記録しようということです。コロナで動けなかったので、今日が実質的はじめての調査活動になりました。

 合子俣はいま1軒1名しか住んでおられません、Sさんだけです、私と同じ年、男所帯、一人で煮しめを作って待っておられました。私どもはTさんと二人・・Tさんがちょっと作られたものをもって3人でお地蔵さんの前でお祝いしました。Sさんにはいろいろと語ってもらって私どもはメモをしました。

 今年はあちこちの(まつり)に手分けして出かけていって記録に残そうと思っています。それを1冊にまとめて記録集にしようと思っています。今日の合子俣の地蔵まつりも昔は集落の祭でにぎわったはずですが、いまはお地蔵さまも寂しい限りです。そんな限界集落の(まつり)を記録にしておくというのが今年の課題です。あちこちに出かけていこうと思っています。

 今日の天気( ・・・ 今日は梅雨の中休みの最後の日になりそうです、孫ムスメ②はプール開きがあったと喜んで帰ってきました)


万江谷探索

2020年05月23日 | 歴史探偵

    

 午後から万江地区の探索に、‘万江谷探索’と名付けました。熊日のO記者さんが‘隠れ念仏’に興味持たれて、きっかけとして、私の前から気になっていた「仏岩」に一緒に行くことにしました。matumotoさんに案内してもらいました。城内地区の上の竹やぶを抜けたところに「仏岩」と呼ばれているところがありました。昭和40年代にこの場所に石壁に造作されている形跡が残されていました。matumotoさんのお爺さんだったようです、私は「隠れ念仏」の場所だと確信?しました。

 確信の理由は、①集落から山の中を歩いて10分くらいかかる人目に付かない場所、②竹やぶを過ぎた山の中腹に岩場があり、洞が点在、③別称「鬼穴」と呼ばれ、子どもには「鬼」がいるから近づくな!・・そんな場所でした。

 岩場の洞の前には‘手水石’らしきものも見られました。私は勝手に‘隠れ念仏遺跡’と思いました。そして禁教の時代、夜になって村人がこっそりと仏岩に寄り念仏を唱えていた光景を想像しました。子どもたちには竹やぶの上の岩場には「鬼」がでて子どもを連れ去るから近寄るな!と言い含められた場所だったのではないでしょうか。「隠れ」て信仰された場所です、何の証拠も残さずに連綿と伝え継がれてきた場所です。

 おもしろい!と思いました。

 O記者さんはまだ3年目くらいの若い新聞記者さん、私の大好きな「万江」を白嶽、大川内、山口、合子俣まで案内してきました。そのうちに消えゆく集落を見つめていってほしいという願いも込めて案内しました。

 私もついでに今後とも「万江谷」にどっぷりと浸かって調査してみたいです。

 今日の天気(

 

 

 


万江阿蘇神社に

2020年05月11日 | 歴史探偵
    

 今日は前から気になっていた(万江阿蘇神社)を総代さんに開けてもらって‘調査’させてもらいました。朝9時に約束させてもらってmatumotoさん、nishiさんに対応してもらいました。この神社は建物と、扉1基、棟札3枚が村指定になっています。村誌にはいちおうの記録はあるのですが、きちんとしてまとめてありませんでした。そこで、写真と寸法(大きさ)を調査せてもらったのです。
 縦113㎝、横44.5㎝の左扉が保存されていて(たぶん本殿の中にあったもの?)そこに「欽奉再興相良宮内少輔御代/明応六年丁巳八月吉祥日/万江次郎左衛門、同縫殿佐、小野公慶」と陰刻されています。明応6年:1497年のことです。棟札も残っていましたが、記録としてはこの(明応6年)がいちばん古い記録のようでした。

   
 残りの棟札も記録にとらせてもらったので、村誌に付け加える形でまとめてみようと思っています。もう一つ興味があったのは写真の三十六歌仙の絵馬が掛けられていたことでした。16枚掛けられていましたが、これも写真におさめてきました。これも調べてみたいと思いました。
 山あいの田舎にポツンと神社があります、地元の人たちの信心深さからこれまで大切に守り継がれてきたお宮です。その素晴らしさを後世に伝えるためにも神社のお宝を調べて、先ずは地元の人に知ってもらう⇒もっと大切に、ということが大事だろうと思っています。
 今日は私にとってもいい勉強をさせてもらいました。

 今日は心地よい初夏の一日でした、ところが今日は沖縄で梅雨入りとか、今しばらくが1年のうちでも過ごしやすいトキです。

 今日の天気(
 

古い新聞を

2020年05月10日 | 歴史探偵
      

 どうしてあるのかはハッキリと分からないのですが、明治から昭和までの古い新聞が資料館に保管されていました。たぶん、ずいぶん前に村誌を作るための資料として(どっかのコンサルさん)に依頼して‘山江’に関する記事を集めたのではないかと思われます。“山江”という「語」があるページがコピーしてあります。
 それを綴じて冊子になっているものが保管されていたのです。それをめくりながら見ています。興味深いのは写真のような広告です。記事よりも面白く見ることができました。いまは見れなくなった商品もありますが「仁丹」などは今でも売ってある商品です。この新聞は。(九州新聞)(大正14年2月13日号)です。
 この新聞の2月10日号には、「尾崎電気落成式」という記事が載っています。興味ある記事なので全文を。
「球磨郡山江村廣裏十里の大村にして人吉町の東方山岳重壘の間にあり而して大字山田、城内區の如きは人吉町を距ること里餘にして從て電燈の供給も容易なるも同村大字尾崎區並に万江區は供給不可能にして隔世の観あるより先般來同地の有志発起にて尾崎電気私用組合なる会社を組織し山田川の上流に発電所を設置しこれが需用を達成すべく計画中なりしが此程全く竣成せしを以て來る十一日の紀元節を卜し其開通式を挙行すべく準備を整へ居れり」とあります。100年近く前の文章は読みづらいし、漢字もよくわかりません。新聞のコピーなので画数が多い字はつぶれていてよく読めません。したがって少し間違って読んでいるかもしれません。
 しかし、このことは確かなことで、なぜかしら山江は山田も万江も奥地から電気点灯しているのです。面白い記事を見つけました。コピーしてあって字が小さいので自分の目には悪い作業です。

 今日は一日中雨が降って家の中での“歴史探偵ごっこ”でした。明日は外に出ます。
 
 今日の天気( 一時

 

書かれない郷土史のこと

2020年05月09日 | 歴史探偵
    
      万江の山奥の(合子俣の庚申塔)です、近くのお婆さんが世話していました、105才くらいです、しかし、今は施設入院です。もう、だれもこの庚申さんを祀る人はいなくなりました。

 先日に買い求めた古本「書かれない郷土史」のことの続きです。この本のはしがきに次のように書かれています。
「・・・民俗資料はつぎつぎに失われていく。特に民謡や口承の伝説や年中行事などは、ここ数年で滅亡してしまうのではあるまいか。今のうちに誰かが、せめてそれを記録にでもとめて置かなければ永遠にその姿を没してしまうであろう・・」と警告されているのです。そして蒐集されたものを文章化されて本にまとめられているのです。ところがそれは昭和35年のことなのです。その頃ですら“失われていく”という現象はあったようです、筆者は神奈川県の方ですので、人吉盆地よりもその速度は早かったにしろ60年前のことです。このときと比べたら数段に失われています。
 そんなときに無謀なるチャレンジをしている一人です。(もう間に合わない)(まだ間に合うかもしれない)と思って、“歴史探偵ごっこ”をしています。廻りの人を巻きこみながら、一人でも多くの人と記録の残す作業をしたほうがいいのでは、と思ってです。
 資料館で「写真でみるやまえの130年」の写真集を作りました。写真は見るだけでむかしを語れます。そんな意味合いで編集したつもりです。ひとつでも後世にと思っています。
 「書かれない郷土史」には、「庶民の歴史書は空白」ともは、はしがきに書かれています。だから“書かれていない郷土史”のようです。ひょっとすると(間に合うかもしれない今なら)という気持ちでがんばります。

 今日の天気(