goo blog サービス終了のお知らせ 

 言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

山田城・・・

2020年02月09日 | 歴史探偵
      

 今夜は「麒麟がくる」の3回めです。今のところ、面白く楽しみにしながら見ています。やはり大河ドラマは戦国か幕末~維新がウケがよいようです。「麒麟がくる」の映像の中でお城が出てきました、まだ、近世のお城ではなくて中世時代の砦風なお城が出てきました。セットとしてきちんと作られていたのにビックリしました。終わったら取り壊されるのでしょうが、もったいないですね、呉れないかな、山田城に移築したいなと思いながら指をくわえました。

 山田城は、一部分はあんな雰囲気であったろうと思っています。今日は昼間に再放送でしたが「日本最強の城SP」があっていました。いまはお城ブームなようです。熊本城や姫路城のような壮大な造りのお城もですが、小さな山城も秘かに人気があります。ハイキングからトレッキング的な歩きが必要ですが、自然の中にどっぷりと浸かってのお城探索は山城ならではです。
 そこで“山田城”をデビューさせたいのです。整備がかなり必要ですが、整備さえすれば日本でも有数な山城になるはずです。スケールも大きいし、「日本最強の城SP」に出演してもおかしくないお城になるはずなのです。

 昨日行った西福寺の川向うに万江城?があるようです、情報をもらったので近いうちに探索しようと思っています。

 今日の天気( &  白髪岳の冠雪がみえました)

1.10 

2020年01月10日 | 歴史探偵
 午前中はパソコンと向き合って(郷土)の人吉球磨の仏堂データの拾い打ち込みをしました、今日に打ち込んだところはまだ昭和51年・・まだまだかかりそうです、面白いことはまだ‘萱葺き’が存在していた時代なのです。お堂の場所や大きさ、屋根の状況、仏像の種別などがその当時のようすとして記録されているのです、徐々に萱葺から瓦葺へ、お堂から公民館のなかへ変わっていく状態を迎えていた時代なようです。

    

 昼から今年の目標の一つ(歴史探偵ごっこ)へ。木上と深田・須恵を廻ってきました。「鰐口」と「毘沙門天像」が主なる目当てです。
荒田観音 ⇒ 目郎地蔵堂は見つけられなかったです、(普通日の昼間は人がいないのです、聞くにも聞けないのです、後日に) ➡ 平川観音・・公民館内に移されています。門松を片付けておられる人がおられたのですが公民館のカギを持っていない、ということで無理にはお願いはしませんでした。 ➡ 須恵村 覚井観音堂へ。(今日の写真のところです)たぶん江戸時代の鰐口です、何回か行ったことはあるのですが鰐口の写真を撮ったのは初めて・・本尊の十一面観音もしっかりと観てきました。立派な仏さまでした。
 須恵釈迦堂・・鍵があったので中は見れず、⇒ 荒茂毘沙門堂・・立派すぎる毘沙門さんです。邪鬼を2匹も踏みつけています。 ➡ 
平野公民館へ・・ここも鍵・・ ⇒ 錦 三条庚申堂・・・ここはたまたま通りかかって・・村史などには書かれていない鰐口がありました。やはり行ってみないと何があるかわからない、というパターンのお堂でした。
 夕方近くに帰ってきました。早速とってきた写真の整理をしました。

 今日の天気(
 

今年もあと2日

2019年12月29日 | 歴史探偵
     

 年賀状が終わって、今日は人吉球磨の郷土研究の会誌「郷土」を読み返しています。昭和47年からの活動スタート、月1回の巡検活動の記録が残されています。特に‘鰐口’と‘毘沙門天像’を中心に読み返しています。忘れないようにパソコンに入力しながらなのでちょっと時間がかかっています。40年ほど前からの記録なので、その当時にしか見れなかったことも多々あります。例えば淡島阿弥陀堂の鰐口は(たぶん)盗られていて現存しません、ところが昭和50年、60年の冊子に記録が残っていて「延徳元年」作(1489年)の銘があったこと、鉄製で径が31.8㎝だったことが記されているのです。他の本に記載されていて、写真は残っているのですが残念なことに鮮明ではありません。他のところの鰐口も‘郷土’には記録されているのですが現存していないものがいくつかあります。

 現存していないことは悲しいことですが、先人の歴史探偵家の人たちが記録には残してもらっていたのは幸いと言ってもいいかもしれません。それにしても何処かに持ち去ってしまった‘罰当たりなヤツ’には、ほんとうにばち当たれ!と言いたいものです。
 すべてを読んでしまうにはもう少し時間がかかりそうです。先人が記録されたものを自分のものとして次のことに役立てればと思っています。

 今日の天気(

今日は‘毘沙門’さん

2019年12月18日 | 歴史探偵
           

 今日は午後から人吉市内の(毘沙門天探検)に出かけました。最近まで知らなかった鬼木町内の毘沙門堂?に。じつはこのお堂は・・・現在はブロック積みの小さな小屋になっています・・つい、最近にさい銭どろがあって、その時にお堂の存在を知ったのです。墓地の中にある高さ1m弱の小屋なので気づきませんでした。小さな毘沙門さんが1体おられました。もう1体あったのだそうですが、いつの日か盗難に遭っていまは台座の邪鬼しか残っていません。
       
          邪鬼です!
     

 中林、牛塚、清莱寺、大柿、下戸越、矢黒のお堂にある毘沙門さんを拝んできました。清莱寺はきちんと施錠してあってみることもできませんでしたが、他のお堂は写真も撮ってきました。もちろん大きさはさまざまですが表情は一つ一つ違っていて、たいへん見ごたえがありました。‘邪鬼’の表情が面白かったです。

 廻っていて意外な発見が・・・中林でも原田でも大根畑で(モンシロチョウ)を見かけたのです。ビックリしました。今日はポカポカ陽気だったので越冬中のモンシロが生き返ったのかもしれません。モンシロはまだまだ寒さに負けずに頑張っていました。

 今日の天気(

今日も毘沙門!

2019年12月14日 | 歴史探偵
      

 昼から(毘沙門天像)の確認と写真撮影を。今日は相良村。‘山本毘沙門堂’に。赤いべべを着ておられました。ずいぶんと朽ちていましたが、きちんと立っておられました。餓鬼もちゃんとびっしゃがれていました。下帯(へこ)がきちんと見れました。古さは伝わってきました。室町?かな?

 相良に記録されている他の毘沙門天がおられる堂に行きました。1つのお堂は施錠・・見ることはできませんでした。あとの2堂は(朽仏化)していました。とても残念に思いました。多くの仏さまが経年劣化と共に管理が不十分で(朽ち)ています。どうにかしなければと、また思いました。今日は初めて行ったお堂もありました、きちんと地域の方で管理されているところもありましたし、ちょっと放りっぱなしかな?というお堂もありました。人吉球磨郡じゅうで大いなる課題なことです。

       
         石に‘ハスの花’
 もう一つの最近の興味関心なこと(転用石)のことです、お墓などを石垣などに転用させていることです。masudaくんからの情報で‘願成寺’にいきました。転用されている例を見てきました、写真に撮ってきました。人吉球磨でも‘信長・秀吉的’なことがあったことが確認できました。その真意は不明ですが多くの例を見つけたいものです。このことも続きです。

 今日の天気(
 

山田城に

2019年12月13日 | 歴史探偵
 今日は‘山田城探索’に出かけました。文化財保護委員のnakyamaさんの案内でです。1年ぶりくらいの山田城でした。大王神社の上の山にある中世城です。大王神社から高速を潜り抜けて、その先から山登りをしました。標高数十mを一気に登るルートでした。ハア、ハア云いながら登りました。この城は石垣がないのでとても分かりづらいお城です。山の尾根を切って(堀切)を、そのときの土を(土塁)にしてあります。(郭)と呼ばれている平坦地がその間にあります。(郭)→(土塁)→(堀切)という順に山の中を歩いてきました。
 夏場は草で生い茂っているので今しか行けません、冬場に整備すると夏場にも行けるようにはなると思いますが、かなり手を入れないといけないと思われます。
 
    

 写真が(堀切)です。4,5mの深さがあります。堀切の右左に(土塁)があります。左から右の方向に歩きました。堀を超えるのはたいへんでした。大小4ヶ所の堀切があります。9時から11時半くらいまで歩いて丸岡までたどり着きました。途中に下の写真:自然が作り出した‘造作物’・・・不思議なる石の組み合わせでした。そして、石切り場の跡、そして(西南の役 砲台跡?)などがあります。
 このルートを整備したいと思っています。観光に使える素材があります。ちょっとの山歩きでしたので2,3日後には足が痛くなると思われます。連絡いただければ案内しますよ。

              奇岩?

 今日の天気(

球磨村へ

2019年12月11日 | 歴史探偵
       
     楮木のお堂
 今日は何をする予定もなかったので、ひょいと思い立って(球磨村へ)(歴史探偵ごっこ)に出かけました。目的は‘毘沙門天’と‘鰐口’です。鵜口、毎床、小長野、楮木、多武除、馬場のお堂を廻ってきました。お参りもしてきました。

 鵜口観音堂はきちんと施錠されていたので本尊の十一面観音像は見れたのですが隣の毘沙門天像は見ることができませんでした。春秋の彼岸開帳の時にしか見ることができないようです。



 写真は毎床の毘沙門天像です。何時ごろかわかりませんが奇麗に塗りなおしてあるのが気になりました。奇麗になることはいいのですがちょっと残念なことでもあります。小長野にははじめて行きました。小さな毘沙門さんが坐しておられました。
 
それからうんと西下して楮木へ。(かじき)と読みます。楮木の5㎞ほど上の集落が川嶋で息子のカミさんの実家があります。何度も楮木は通っているのですが立ち停まったのははじめてでした。集落のいちばん上の方にお堂がありました。立派な大きな、そして彫刻を施してあるお堂でした。なぜかしら、球磨村にはこのようなりっぱなお堂が多いのです。豊かさを感じる村です。
 そして、球磨川をさかのぼって多武除(たぶのき)へ、ここには‘鰐口’があるはずなのですがありませんでした。人がおられたので聞きましたが知っておられませんでした。ひょっとして‘盗難にあったのでは’と心配しました。そして、馬場へ、国道から数百メートル上がった所にありました。むろん、はじめて行きました。6つのお堂を廻ることができました。いい時間が過ごせました。

       

 瀬戸石ダムがゲートを開いて放流されていました。砂利の撤去と点検中なのでしょう。冬場なのに水量が多いことに驚きました。さすが大きな川だなと思いました。

 今日の天気(
 
  ※急流さんへ  今日は楮木まで足を伸ばしました、真下に球磨川が見えていいところでした。お堂もいい建物でした。

霊社のこと

2019年12月10日 | 歴史探偵
     

 興味がアチコチと飛びまくっている話の続きです。
 「霊社」のことも気になっているのです、今日は資料館に出かけたので、資料館にある『熊本県神社誌』を引っ張り出してきて‘霊社’のことを調べてみました。
 私の勝手なる予測で(球磨には‘霊社’が多い)ということを調べてみたかったのです。ところが私が思っている‘霊社’とこの本に書かれている‘霊社’のとらえ方がちょっと違っていました。(県神社誌)では、先人の霊位を祭るという意味合いで‘霊社’のことが捉えられているような気がしました。加藤清正、高橋政重など・・報恩感謝の意を込めた霊を称える神社です。ところが人吉球磨には、その人の死の祟りを鎮める霊社が多いと思うのです。まさしく、‘戦国の世’ならではのことのようです。
 どうして人が死んだ後に、そのことによって祟り等のことがあって、それを鎮めるために神社を作って(霊を鎮める)行為が必要だったのかを調べてみようと思っているのです。なぜかしら、人吉球磨には県内でも‘祟りを恐れた霊社’が多いのです。このことについては(つづき)です。

 モンシロのことです、12月1日が‘終見’とします。この冬空でどこかで、どんな形かで越冬に入ったようです。

 今日の天気

アチコチに

2019年12月09日 | 歴史探偵
       
       この石が転用石?です???詳しくはわかりません。

 性格的に不安定なせいか、私の興味はアチコチと彷徨っています。今にはじまったことではありませんが。このパソコン(持ち運び用モバイル型)のトップ画面にも(霊社)(毘沙門天)(獺野原合戦)(鰐口)(人吉球磨お堂調べ)(霧島神社一覧)などのフォルダーが並んでいます。じつはどれも現在進行形中なのです。取り組みの軽重に差があるくらいです。
 小説:関が原は、ちょっと(かなり)中断中です。多くのやりたいこと(課題)は存在しながら、なかなか前には進みません。次から次へとやりたいことが湧き出てくるからです。困ったものです、私にはそんなに時間は残っていないからです。

 昨日のこと、本(「呪術と占星の戦国史」)を読んで気になったことが出現しました。墓石などの石塔類が石垣に転用されていることです。有名なことの一つは(大和郡山城のさかさ地蔵)です。地蔵さんを石垣の一部に利用しているのです。逆さに利用することが“呪いの効験を強める”というのです。じつは、東小の近くにも逆さに積まれた石の転用例があるのです、人吉球磨にも他にそのような例がないのか、たいへん興味が湧いたのです。
 また、はじまった私のアチコチ病の始まりかもしれません。こんなことだから、ずいぶんと時間はかかりますがアチコッチとつまみ食いをしているうちに何かがひょい!と分かるのではないかと思っています。残された時間はそうはないのですが、ボチボチ、とです。

 最近、このブログにも200名くらいの方にアクセスしてもらって恐縮です。くだらないことに付き合ってもらって感謝です。

 今日の天気( 今日も寒い一日でした)

文化財保護のこと

2019年11月18日 | 歴史探偵
 文化財を案内する‘看板’をこれまでにも建てられてきましたが、去年から計画的に建てはじめました。予算に限りがあるので数年かけて整備しようと思っています。看板屋さんに相談して長持ちするように鉄製の五角形の形です。したがってちょっと高いです。木製にすると10年ほどしか持たないので腐れはしないので長持ちすると思っています。

    

 指定文化財を中心に作成していますが、今年から未指定ですが‘庚申塔’の案内看板も建てました。山江村内には山田地区に12基、万江地区に11基の庚申塔が確認できています。今年は山田5基、万江4基に建てることができました。写真は寺下の青面金剛塔です。字が見えなくなっているので、書かれてある文字を表記しています。「明和九壬辰天 大青面金剛 二月十有五日」です。明和2年は1772年、近くに庚申橋(かないさんばし)があると説明書きしたものです。庚申塔看板が9ヶ所、文化財看板が3ヶ所、矢印案内板3ヶ所が今年分でした、このことは来年に‘つづく’です。

 文化財のことを先ずは地元の人に知ってもらい、他所からの人に来てもらい、活用してもらえることができたらいいなと思っています。(え!こぎゃん、古かとやったとな?)と、すぐ近くに住む方に云われます。先ずは地元の人に知ってもらい、文化財を保護しよう、大切にしようという気持ちを持ってもらうことが大事です。そして、他所から来られた方に自慢気にわが故郷の宝物を紹介してほしいのです。そんな意味からの一歩を踏み出すことができています。

 今日の天気( 🦋未確認)