風箱の徒然ブログ

旅の思い出話から、木工、日常の徒然を気ままに

あるキャンパーさんと

2009-08-19 22:57:00 | 1996~97原付日本一周後半編
1997年5月23日

朝はけっこう冷え込む。
割と良く眠れた。
前日から駐車場に止まっていたあやしい2トントラック。
東京ナンバーだし、フェリー待ちの運送屋にしてはどうもおかしいと思っていたら、キャンパーの車だった。

自営業で、運送屋をしていたが、辞めて、その車で旅をしているとのことだった。
幌の中を見させてもらったら、中にはホンダのオフロードバイクのXRバハが入っていた。

幌のおかげで雨風は十分に防げる。
これは一種のキャンピングカーには違いないと思った。

おじさんはとても穏やかでいい人だった。
自分が貧乏旅していると察してか、色々物をくれた。
インスタントラーメンや調味料など食糧援助は何よりもありがたかった。

この人も15年前(1997年当時)にオフ車で日本一周した人だった。
当時35歳。
今は50歳だ。元気だなと思った。
でもダートを走る時は体にこたえるらしい。
歳ってやっぱあるんだなと思った。

お返しする物がなくて困っていたら
「自分にはいいから、次にだれか困った人がいたら、その人を助けてあげなさい。それが私への恩返しですよ。」
と言った。
心にジーンときた。


こうしてこの人と別れて、出発した。

さて、出水(いずみ)と言う所に特攻記念公園というのがあって、ちょっと立ち寄った。
かつて海軍の陸攻基地があったらしい。
公園は基地の入り口だった所らしく、衛兵所があったり、コンクリートの防空壕が残っていた。
壕は自由に入れる。しっかりした作りだ。
その中には、撃墜された1式陸攻の外板の一部が展示されていた。
壕の小山の上には、石碑と海中から引き上げられた航空エンジンとプロペラが2基づつ置かれていた。
ここからは、1式陸攻隊が特攻に出撃、約200名が戦死した。

ここは今は特攻よりも鶴の飛来地として有名らしく、あちこちに鶴の像が設置されていた。

時計を見たら17:00を回っていた。
陽はまだ高かったが、そろそろ宿泊場所を探さなくては。

途中水俣病で有名な水俣市に入った。
この公害病の発生源である化学工場の「チッソ」も堂々と建っていた。
実際に目の前で見るまで、「チッソ」会社がこんな大規模な所だったとは想像をはるかに超えていた。
いかにも化学工場らしく、パイプがごちゃごちゃと入り組んだ塔が幾つも立ち、毒々しいタンク類が広い敷地の中に並んでいた。

ここを通り過ぎるとすぐに街の景色から山に変わっていた。
段々になった水田の石垣が、まるで城のそれのように、キッチリと組まれていた。

さて、川はあるのだが、テントを張れる適当な広さのある河原がなかなか無い。
ようやくテントがギリギリ張れるスペースを見つけそこで今日は終わる。

沖縄から九州に上陸して3日目。
だいぶ疲れてきた。
マットの下の大きな石が背中に当たるが、疲れの方が多くていつの間にか眠ってしまった。