gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

コンプライアンス

2018-09-13 14:39:42 | 文化


>多くの企業が内部監査などを強化するなどコンプライアンス対応に力を入れているが、不祥事はなくならない。>それは、マニュアルで決められた形だけのチェックしかしていないからだ。

コンプライアンス (compliance) とは、法令遵守のことですね。法令遵守と不祥事の鼬ごっこですね。

>常識的に正しいと判断して行動を起こそうとしても、マニュアルでいちいちチェックするので、余計な仕事が増える。

そうですね。不安が増大しますね。気分・雰囲気の問題ですね。

>そしてマニュアルで決められていない事態が起こると、思考停止に陥ってしまう。

そうですね。道徳教育により教えられる徳目と事態の関係に似ていますね。

>コンプライアンス強化によって、ヌードが掲載されている週刊誌やスポーツ新聞まで会社に持ち込み禁止の通達が出ている会社も増えていると聞くから、驚くばかりである。

益々強化ですね。

>過度なコンプライアンス対応によって、企業から「自由度」がなくなり、それが商品開発面などにおける斬新な発想を奪っている面も否定できない。

自由 (freedom) とは、意思の自由のことですね。日本人には、意思 (will) がない。だが、恣意 (self-will) がある。だから、自由は ‘恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由’ と誤って解釈されやすい。リーズン (理性・理由・適当) がなくて、アンリーズナブル (理不尽) な行動に出てこられては困ります。だから、この世は難しい。

>こうしたことはおかしいと気づいて組織内で声を出す人材は異端者と見なされ、いずれ組織から追い出されることになる。

そうですね。組織人でなければ、よそ者・外人・非国民でしょうね。

>企業はよくダイバーシティ強化を謳う。

個人の考えは、それぞれ内容が違っていますからね。個性を生かすべきですね。

>この狙いは多様な価値観を受け入れることで、組織を生き生きとさせ、環境の変化が激しい時代に柔軟に対応していこうというものである。

そうですね。多様な価値観の育成ですね。わが国は、目下人手不足である。だが、頭脳不足という話は聞いたことがない。わが国の仕事には、頭脳は必要ないのでしょうかね。柔軟な対応は可能であるか。

>しかし、「忖度病」と「コンプライアンス病」の蔓延で、組織は生き生きどころか活力が低下し、自らアイデアを出して動く社員が減っている。

そうでしょうね。上司に対する忖度 (推察) と法令遵守で、社員は政府の高級官僚のようになっているのでしょうかね。

>非創造的な仕事も増え、内心では「やってられないぜ」と思いながら仕事をしており、こうした環境下ではパフォーマンスが上がるはずもない。

そうですね。社員は、‘官庁病’ に感染しているのでしょうね。自主性がないところには、創造性も生まれませんね。


.



公文書管理

2018-09-04 20:46:55 | 政治



>毎日新聞2018年9月1日 >社説:発言記さぬ経産省文書 理念をねじ曲げる運用だ >----森友・加計学園問題を受けて、公文書管理の指針は昨年12月に改正された。>政策立案や事業方針に影響する打ち合わせは記録を文書に残す。>他の省庁や政治家とのやり取りや発言は、相手の確認を取り、正確に記録する。>そう求めている。

正確に記録するのですね。

>----ところが、経産省の内部文書は、発言そのものを記録させないような指示だ。

意思疎通 (相互理解) は必要ですね。しかし、恣意疎通 (阿吽の呼吸) は許してはなりませんね。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は、忖度 (推察) を呼んでいる。忖度は、聞き手の勝手な解釈で、話し手には何の責任もありませんね。だから、議論の対象にはなりません。とかく、この世は無責任。これから先は、闇の世界に入る。何が何だかわからない。無意味の時間が経過する。

>同省の職員は毎日新聞の取材に「誰が何と言ったのか分からないよう議事録を残してはいけない」とまで言われたと証言している。

政治家の発言は、当人の人格 (character) そのものの表れですからね。末永く記録に残すべきです。

>----この通りに運用されれば、すべての発言を公文書から消し去ることになる。>残すべき文書の中身が骨抜きにされかねない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
意思は、文章になる。恣意は、文章にならない。ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在する。
意思の内容は文章になって拡散し、広く世間の理解が得られる。ばらばらな単語は身近な聞き手の忖度 (推察) に拾われて、恣意疎通を通じて超権力を持つにいたる。文章と理解の営みを超えている。非言語の世界では、文章の中身は骨抜きになる。

>公文書管理の理念をねじ曲げる指示であり「文書隠し」よりも悪質だ。

そうですね。文章内容を軽視する国民には、文書管理はできませんね。

>朝日新聞デジタル2018年9月2日05時00分 >(社説)公文書管理 経産省の「骨抜き」指導 >----この1年余り、社会から厳しい批判を受けながら、公文書管理のあり方は改善されるどころか、懸念された道をたどっていると言わざるを得ない。

政治家及び官僚の政治に対する問題意識が足りないようですね。だから、公文書も管理できない。

----公文書の中身を充実させるのではなく、自らが関与した文書が後で政治問題になるのを避けることを、何より優先させる。>そのために文書そのものを作成しない。>やむなく作らなければならない場合は、情報公開請求の対象にならないように「個人メモ」扱いとする――。

‘民は、知らしむべからず。よらしむべし’ か。政治問題はなし。昔風ですね。

>いま霞が関に漂うのは、そんな空気だ。>未来に対する責任や自覚に欠けること甚だしい。

わが国の政治家の官僚に対する監督が不行き届きなのでしょうね。日本語文法には、時制というものがない。だから、未来時制を使った未来社会の展開は脳裏にはない。それで、日本人は、未来に対する責任や自覚に欠けています。

>中日新聞 2018年9月3日 >社説:経産省の公文書 国民に目隠しの発想だ >---- 「政治家発言の記録は残すな」-経済産業省が公文書管理でこう指示していた。>驚くべき事態だ。

そうですね。昔から続いている驚くべき事態ですね。わが国は、雄弁な政治家の出ない国柄ですね。

>---- 現在や将来の国民に説明する責務を全うする-。>それが公文書管理法の意義であり、公文書は「国民共有の知的資源」でもある。

そうですね。公文書は、我らの共有する歴史・財産ですね。記録を残さないのは、知的なものを排除する習慣によるものか。

>政治家の発言は記録に残さないという同省の運用は、この法の理念に真っ向から背いている。

日本人の老人は過去のない人間になるのか。

>「記録は残すな」という発想には主権者たる国民を置き去りにし、重要な情報を隠蔽(いんぺい)する意図さえうかがえる。>論外である。

そうですね。政治家個人の意見を隠ぺいしますね。個人主義の危機ですね。

>----こんなでたらめを直す改正が骨抜きになれば、また同じことが繰り返されよう。

そうですね。‘歴史は繰り返す’ ですね。わが国民の無哲学・能天気は治らない。でたらめの国民性は、温存されてゆきますね。

>経産省は四月以降の文書について、どの政策について、どの政治家が何と言ったのか、正確に文書を作り直すべきである。>発言まで記録しなければ事実の検証が十分にできない。

そうですね。政治家の発言は、政治家の人格そのものですからね。貴重な記録ですね。’文は人なり’ ですね。

>行政のブラックボックス化はただちにやめよ。

See through で行きましょう。言論の可視化を進めましょう。


.








謝罪文化

2018-09-03 02:39:08 | 政治



>アメリカに行くと「I'm sorry.」をなかなか聞くことはないとされます。>状況次第ですが、カナダと比べると確かに聞かないかもしれません。

私は、’父親が戦死した’ と話した時には、アメリカ人に「I'm sorry.」といわれました。

>先日、弊社のクルマを借りているお客様がアメリカで接触事故を起こしました。>事故は大したことはなかったのですが、状況を聞いたところ、相手の運転手は名前や連絡先は言うものの事故に関する一切のコメントを拒絶したそうです。>それは保険屋がやることで俺が何かしゃべるとそれが問題になる、という理由のようです。>どちらが悪かったかはともかく、謝罪というのはよほどでないとやらないのが文化です。

事故原因の究明が、一番大切ですね。

>かたや日本。>謝罪文化の世界王者と言って過言ではないでしょう。>企業などの不祥事で数名が深々と頭を下げるシーンは嫌というほど見てきました。
>見ている方は溜飲が下がる、という面持ちなのでしょう。

日本人は、感情的な人間ですからね。まず溜飲を下げることが大切です。

>ところが基本的には悪いことをした人が直接謝罪をすることはなく、その個人の名前も特定されず、責任者がそれを代表して謝るのが日本の特徴であります。

そうですね。日本人の社会では、責任の所在が明らかでありませんからね。人々は、意思疎通 (相互理解) で動くのではなく、恣意疎通 (阿吽の呼吸) で動いていますからね。忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈であり、話し手には何の責任もありませんからね。議論にならない。とかく、この世は無責任。

>本人が出てくるケースはそれが明白である日大アメフト事件や芸能関係の不倫騒動のような場合に限ると思います。

アメフト事件や不倫騒動は、個人の問題ですからね。

>村上春樹氏が2015年の慰安婦問題の騒動のさなか、「日本は相手国がもういいというまで謝るしかない」と発言し、話題になりました。>ノーベル賞候補の小説家のそのベースには謝罪による許しを乞うという日本文化の源流をみるようです。

そうですね。彼は、源流を見ているのでしょうね。日本人には意思がない。意思がない人には、加害者意識がない。つまり、罪の意識にさいなまれることはない。深く反省しない。事柄を掘り下げる知力がない。もっぱら頭を下げる以外に手段がない。

>時代劇を見ていても悪いことをした人がお代官様に頭を地面にこすりつけながら謝罪しているシーンはよく見かけます。>そして、罰でむち打ちの刑になっても謝り続けるのが、日本のスタイルであります。

現実的であり、浪花節の題材になりますね。

>日本の文化とは「わからなければやっちゃえ!」という奇妙な軽さと表裏一体の関係にあります。

そうですね。日和見主義 (機会主義) ですね。どさくさ紛れですね。

>これは現代社会にも見事に受け継がれています。>皆さんもそういう経験はあるでしょう。>私にもあります。>そしてそれがばれると「すみません!」を連発し、許しを求めます。

そうですね。我々は、ナウな感じのする人たちですね。

>我々が小学生のころ、悪さをすると先生がその生徒を立たせ、謝罪を述べさせ、教室の後ろや廊下に立たせるのは当たり前でした。>反省を促すためです。>つまり、お前は悪いのだ、という烙印を押し付けるわけです。

‘勝負あった’ というところですね。

>北米ではこのようなシーンは成立しないでしょう。>悪さをしたその背景を延々と語り、相手の同情を誘います。>自分の真意ではないのにあたかも自分に悪い神が乗り移っていつの間にかそんなことになっていた、といったストーリーを述べるのであります。

‘魔が差した’ ということですね。

>再発防止策についても日本は「対策を考えていきます」と述べるにとどまるのに対し、北米は比較的具体案や対策案をその場で提示したり、検討している旨を伝えます。

彼らは、常に ‘考える人’ ですね。

>ここが大事なのですが、日本は謝罪することで許されると考えている節があります。>ところが北米では罪を認めたうえでどう対処するのか、そちらの方が重要なのであります。>ここが最大の違いであります。

そうですね。彼らには、問題解決の姿勢がありますね。謝罪で事を収めると、再発しますね。’過ちは、繰り返しませぬから’ と言っているようなものですね。

>例えば話題のスルガ銀行。>創業者会長、現社長、専務が辞任します。>多分、他の役員もほぼ退任するとみています。>理由は株主訴訟などを控えているからです。>報じられているのは責任者が辞めるということだけ。>ではこの銀行をどうするか、という道筋は一つも説明されていません。>トップは辞めればいいというわけではなく、この銀行をどうするのか説明しなくてはいけないのです。>外部から経営陣を招くべく第三者委員会を設立するぐらいのプランを述べるべきなのです。

そうですね。’銀行をどうするのか’ が、真の目的ですね。’トップが辞任する’ のは、手段ですね。手段が目的化するのが、わが国の特色ですね。無哲学・能天気の国では、これは仕方のないことだと考えられているのでしょう。

>日本で自虐史観について時々話題に上がります。>それが戦後、GHQにより形成されたとする説明は多いと思います。>それを言えばシベリア抑留の帰還者もだいぶ洗脳されてきたし、共産主義が跋扈していた時に学生運動を通じて色がついた方もいるでしょう。>私はそれら対日政策は日本がもともと持つ謝罪文化を更に推し進めたものの戦後政策の特殊性が突然日本人を変革させたとまでは考えていません。

そうですね。わが国に昔からある謝罪文化が戦後政策で増幅されたのですね。

>許しを得られなければ刀でバッサリ斬られるのが所以であり、「どうか、命だけは…」という哀願になるのです。

鬼が涙を流して謝る話ですね。

>世界の中で日本のポジションを強化するならば謝罪のスタイルは変えていく努力はした方がいいと感じています。

国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うのであれば、スタイルを変えた方が良いですね。

>では今日はこのぐらいで。

お疲れ様でした。


.




.