>■思想は身体訓練で伝承される
>日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承され、言語化されないわけです。>実は思想の在り方としてはこちらが一般的です。
そうでしょうね。しかし、英米人は、’全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない’ と考えています。アニマルなどは、言語化されていませんね。
>太古から民族はそうして思想を伝承してきたわけです。
そうですね。思想と言うのかどうかは、知りませんけれども、これが我々の伝統ですね。
>まず理解しないといけないことは、言葉は思想伝達法としてほぼ使いものにならないということです。
そういうことも、考えられますね。日本語のような曖昧な言語では、思想の伝達はできないですね。
日本人の精神活動は、文章・言動では表すことが出来ません。我々の活動は心から心へと直接伝えられています。以心伝心・不立文字ということです。日本人には、これは当たり前の事柄で、西洋人には理解不可解なことになります。
>たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるでしょうか。>実際に一緒に生活してみないとなにもわかりません。
心のこもった音声は、国際間の言語障壁を乗り越えて外国人に伝えられています。非言語による国際交流は可能です。学会は無理。
>言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。まさに「馬鹿の壁」が目の前にある。
アニマルには忖度・推察できるが、現代人にはできない。日本人には、英米流の高等教育は難しいようです。
>たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。>日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧めます。
そうですね。よくあることですね。食品の宣伝文句ですね。
>西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝えるわけです。>それは実際に食べるより素晴らしくみなを魅了するわけですが、正確な伝達とは別です。
そうですね。同感です。哲学 (非現実) は感覚 (現実) とは違いますね。現実の内容は頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。内容の所在が違います。
>■言語思想の暴力性
>言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況です。>その状況とは多民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論述です。
英米などの低文脈文化においては、正確性が必要とされる言語を使用する。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています。
>日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからです。>島国日本では思想は、わざ、習慣、身体訓練であり、他者に自らの思想を訴えた経験もなく、当然、うまく言語化できない。
日本の高文脈文化においては、曖昧な言語を使用する。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。これでは、雄弁になれない。
>それが近代日本知識人の劣等感だったわけです。
‘上とみるか、下とみるか’ の上下判断によれば、下は恥になりますね。
>いまでもよく、日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないといいますが、本当でしょうか。>言語思想を語りあえばわかりあえるのでしょうか。
相互の理解は難しいでしょうね。それは日本人が、英米流の高等教育を受けるようなものでしょうね。第二言語を習得して、大同を得るように努力しなければなれませんね。さすれば、大同団結による国際協調が可能となり、未来社会の建設が加速されます。
>そもそも西洋の近代思想はいかに発展したか。>世界の資本主義化と密接な関係があるわけです。>すなわち西洋の貿易先(資本主義)を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためです。
広い市場が欲しかったのですね。今でも、植民地が消滅しても、市場は広いほうが良いですね。
>たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその思想を懸命にしゃべりましたね。
我が国も外国に市場を閉ざされては、食べていけませんからね。これは哲学ではなくて、処世術です。大義名分はその口実になります。
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>日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承され、言語化されないわけです。>実は思想の在り方としてはこちらが一般的です。
そうでしょうね。しかし、英米人は、’全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない’ と考えています。アニマルなどは、言語化されていませんね。
>太古から民族はそうして思想を伝承してきたわけです。
そうですね。思想と言うのかどうかは、知りませんけれども、これが我々の伝統ですね。
>まず理解しないといけないことは、言葉は思想伝達法としてほぼ使いものにならないということです。
そういうことも、考えられますね。日本語のような曖昧な言語では、思想の伝達はできないですね。
日本人の精神活動は、文章・言動では表すことが出来ません。我々の活動は心から心へと直接伝えられています。以心伝心・不立文字ということです。日本人には、これは当たり前の事柄で、西洋人には理解不可解なことになります。
>たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるでしょうか。>実際に一緒に生活してみないとなにもわかりません。
心のこもった音声は、国際間の言語障壁を乗り越えて外国人に伝えられています。非言語による国際交流は可能です。学会は無理。
>言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。まさに「馬鹿の壁」が目の前にある。
アニマルには忖度・推察できるが、現代人にはできない。日本人には、英米流の高等教育は難しいようです。
>たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。>日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧めます。
そうですね。よくあることですね。食品の宣伝文句ですね。
>西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝えるわけです。>それは実際に食べるより素晴らしくみなを魅了するわけですが、正確な伝達とは別です。
そうですね。同感です。哲学 (非現実) は感覚 (現実) とは違いますね。現実の内容は頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。内容の所在が違います。
>■言語思想の暴力性
>言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況です。>その状況とは多民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論述です。
英米などの低文脈文化においては、正確性が必要とされる言語を使用する。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています。
>日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからです。>島国日本では思想は、わざ、習慣、身体訓練であり、他者に自らの思想を訴えた経験もなく、当然、うまく言語化できない。
日本の高文脈文化においては、曖昧な言語を使用する。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。これでは、雄弁になれない。
>それが近代日本知識人の劣等感だったわけです。
‘上とみるか、下とみるか’ の上下判断によれば、下は恥になりますね。
>いまでもよく、日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないといいますが、本当でしょうか。>言語思想を語りあえばわかりあえるのでしょうか。
相互の理解は難しいでしょうね。それは日本人が、英米流の高等教育を受けるようなものでしょうね。第二言語を習得して、大同を得るように努力しなければなれませんね。さすれば、大同団結による国際協調が可能となり、未来社会の建設が加速されます。
>そもそも西洋の近代思想はいかに発展したか。>世界の資本主義化と密接な関係があるわけです。>すなわち西洋の貿易先(資本主義)を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためです。
広い市場が欲しかったのですね。今でも、植民地が消滅しても、市場は広いほうが良いですね。
>たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその思想を懸命にしゃべりましたね。
我が国も外国に市場を閉ざされては、食べていけませんからね。これは哲学ではなくて、処世術です。大義名分はその口実になります。
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