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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

トマスを疑う

2008年09月14日 | 奨励要旨
ヨハネ20・18~29/I兄

トマスは、十二弟子の中でも地味な存在の一人ですが、双子という不思議な名をもっています。ただ、スーパースターの復活の主イエスを描くために十二弟子の役割が軽く見えるヨハネの福音書においてのみ、目立つ発言があります。とくに、復活のイエスに会えなかったことで、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハ20・25)と疑ったために、疑い・不信というレッテルを貼られています。今日はその評価を疑ってみましょう。
 
まず、死んだラザロのもとに行こうとするイエスを、エルサレムに近づくゆえに危険だと悟り、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハ11・16)と仲間に告げます。ラザロの物語はヨハネにとり最後の「しるし」として重要です。ここでトマスはどこかイエスの意図とはズレながらも、イエスに従う意志をはっきりと示しています。
 
次に、イエスは14章で、読者に対しても重要な「愛し合いなさい」という命令を明らかにします。イエスが、自分が行く先を弟子たちは知っているはずだ、と漏らすと、トマスはすかさず「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」(ヨハ14・5)と答えました。このときイエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14・6)と重要なメッセージを返すのです。
 
最後に、復活後のこの物語。復活の主に最初に会ったのは、マグダラのマリヤ。続いて、トマス以外の弟子たち。マリヤは弟子たちに、弟子たちはトマスに、自分は「主を見た」と言いましたが、トマスは、自分がこの目で見て触らなければ信じない、と強く答えます。これは疑ったからとしか考えられないのでしょうか。トマスは科学的人間で不信仰なのでしょうか。いえ、私は、トマスがイエスを大好きだった、と仮定してみました。イエスと死を共にしようとする思い、イエスの行くところを知りたいという思い、そしてこんなにイエスを好きな自分をさしおいて復活して現れたことなど信じたくないという思いをもつトマス。
 
八日後、ついにイエスがトマスの前に現れます。イエスは、さあ触って確かめよ、とトマスに迫ります。でもそれは、教育的な発言だと受けとめてみたいのです。トマスが信じない者ではないことなど分かっているが、たとえ悔しくても短気な発言をするものではない、と優しくイエスは諭しているのではないか、というように。ヨハネはトマスに、他の弟子たちとは決定的に違う「私の主。私の神」(ヨハネ20・28) という告白を語らせています。もうこれで言い残すことなどないかのように、この言葉で福音書を閉じるのです。
 
イエスを愛する思いの強かったトマスを、不信仰だと蔑むような眼差しを私たちがもつとしたら、それこそ罪です。不信仰です。むしろトマスと共に主を愛したいし、その意味でトマスと、読者である私が、双子でありたいのです。生徒の心を理解し尽くす教師でもあるイエスを愛し従いたいという思いと共に、今私は、主の御前に立っています。

永遠のいのちを受けるためには

2008年08月17日 | 奨励要旨
マルコ10・17~31/S師

 聖書のこの箇所では、イエス様は永遠のいのちについて、ひとりの立派な青年と対話を行いました。この記事はマタイ福音書とルカ福音書の中にもあり、非常に重要なことが私たちに啓示されております。この立派な青年は真剣に永遠のいのちについて尋ねましたが、イエス様のみことばを聞いたあと、「彼は、このことばに顔を雲らせ、悲しみながら立ち去った」(22節)。彼はなぜ永遠のいのちを受けることができなかったのでしょうか。そして、永遠のいのちを受けるためには何が必要でしょうか。今日、私達は主イエスのみことばによって、永遠のいのちを受けるための真理をいっしょに考えてみましょう。

一、尊い方は神おひとり
 18節で、主イエスは「尊い先生」という呼び方の間違いをこの人に指摘しました。
 背 景:20節
 御言葉:尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません
 真 理:永遠のいのちを受けるためには、主イエスこそ救い主であることを信じるべきです。
 参 照:①マルコ8章29節 ②コリントⅠ1:12、13 ③テモテⅠ2:5

二、欠けたことが一つあり
 21節で、主イエスは自分を完全だと思っているこの人の欠点を提示しました。
 背 景:20節
 御言葉:あなたには、欠けたことが一つあります
 真 理:永遠のいのちを受けるためには、私が罪人であることを認めるべきです。
 参 照:①ローマ3:10 ②ヨハネⅠ1:10
     ③ヨハネ4:16 ④テモテⅠ1:15

三、どんなことでも、神にはできる
 23、25節で、主イエスは自分の努力により完全というこの人の間違いを示しました。
 背 景:18、20節
 御言葉:それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです
 真 理:永遠のいのちを受けるためには、ただ主イエスの恵みを感謝するべきです。
 参 照:①マルコ10:32~34 ②コリントⅡ8:9
     ③イザヤ1:18 ④コリントⅠ2:8、9
         
四、自分を捨て、主について従い
 29~30節で、主イエスは十字架にかけられる前に、福音の使命を弟子たちに託しました。
 背 景:32~34節、21節
 御言葉:わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません
 真 理:豊かないのちを受けるためには、主について従い、完全な道を歩くべきです。
 参 照:①マルコ8:34 ②コリントⅡ8:9 ③ヨハネ10:10
     ④ピリピ3:7、8 ⑤べテロⅠ4:10 ⑥マタイ22:37~40
     ⑦マタイ5:46~48 ⑧テサロニケⅠ5:19 ⑨マタイ6:33

わたしは主である

2008年07月20日 | 奨励要旨
レビ記19・1~18, 32~37 / O兄

レビ記19章は、イスラエル人の生活、とくに共同体での社会生活と行い全般にわたる種々の定めが記されている。この章の特徴は「わたしは主である」という主なる神の宣言の15回ものしつこい繰り返しにある。冒頭に「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(2)と生活と行いの模範が与えられている。

「社会的弱者への配慮についての定め」9~10節では、土地の収穫の一部についての弱者への配慮、14節では聾唖者、盲人への配慮、32節では高齢者への配慮が、「あなたの神を恐れなさい。わたしは主である」という言葉が付記され、記される。

「社会・経済倫理についての定め」11節で経済事件の主要原因「盗み、欺き、偽り」の禁止、13節の弱者・日雇人への配慮、15~16節では「不正な裁判」、「弱者へのおもねり、強者へのへつらい」、「他人の中傷」等の禁止、35~36節で、度量衡の正しさのように商取引の公正さの要求に、「わたしは、あなたがたの神、主である」が付加され記される。

「隣人愛についての定め」18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」という隣人愛は、34節「あなたがたといっしょの在留異国人をあなた自身のように愛しなさい。・・・わたしはあなたがたの神、主である。」と、さらに在留異国人にも拡げられている(照ルカ10・25~37「良いサマリヤ人のたとえ」)。

モーセ五書はへブル語で「トーラー(Torah)」と呼ばれ、「神の民として生きるための教え」を意味する。イエスによれば、律法トーラーの核心の第一は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」であり、第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」である(マタイ22・35~39)。この第一は「主が聖であるから、主が愛されるから、それに倣いなさい」という2節の戒めに関係し、19章は、律法の核心、すなわち中心となる律法の心、に関わっている。また日常生活でも「神が主である」ということを忘れるな、と何度も19章では繰り返されている。

「神の民として生きる」とは全人格的・全生活的な事柄で、生活や仕事のすべてにおいて「神の民として生きる」ことが要求されている。そうした生き様を私たちの証しとしたい。隣人愛の難しさを、パウロと同じように「私は、ほんとうにみじめな人間です」と日々嘆き、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と日々感謝し、イエスとともに歩んでいることを実感する日々としたい。信仰とは、こうした日々繰り返される体験である。

かなしみさりて なぐさめあり

2008年05月18日 | 奨励要旨
ローマ書 5章1節~21節/M兄

最初の人アダムが罪を犯したことにより(創3:6)すべての人は死ぬようになりました(ローマ5:12)。人々は神の前に立つとき、自らの罪深さのために恐れを持つようになりました。聖いお方の前に立つためにスケープゴート(他人の行為の、あるいは自分が引き起こしたのではない出来事の責めを負わされた人)が必要でした。

旧約時代の人々は2頭の雄やぎを生け贄に捧げました(レビ16:20~22)。2頭の雄やぎについてくじを引き、一頭を主のために、もう一頭はアザゼル(荒野の汚れた霊の一つ)のために用意されました。主のための一頭の雄やぎは贖罪のために屠られ、アザゼルのための一頭はイスラエルの人々すべての罪責とそむきの罪を雄やぎに移し生きたまま荒野に追いやっていました。

いまの私たちはやぎを身代わりに捧げることはありません。イエス・キリストが私たちのスケープゴートとなってすべての責めを負ってくださったのです(イザヤ53:2~5)。アダムの失敗によってすべての人が死ぬようになったように、イエスさまの正しい行為によってすべての人が生きるようになったのです(ローマ5:8・9)。

人生は多くの哀しみに満ちています。私が働く書店ではいろいろな出会いがあります。

ある日、リュウマチで痛み苦しんでいる女性が何も出来ない事を嘆いておられました。私はホイベルス神父の祈りについてお話ししました。「何も出来なくてもお祈りは出来る事ではありませんか?」と。その女性は私に言いました。「あなたは人の痛みというものがおわかりではないのですね。痛いときは祈ることもできないのです。ただ、いたい!痛い!と、うめくしかできないのですよ」と言われて、自分がとても恥ずかしくなりました。

今年度の成人科のテキストの著者、ヘンリー・ナウエンの新刊で「嘆きは踊りに変わる」という本のなかで、ナウエンが傷ついた信者を抱きしめて話した言葉が心に残りました。

「わたしはあなたを抱きしめていますが、これは神が抱きしめているのです。そして神はこうおっしゃっています。『あなたはわたしの愛する子です』。この言葉に信頼し、その内に生きなさい」

イエスさまはかなしみ嘆くひとの側にいてくださる。その方の近くに降りて来てくださる。そして抱きしめてくださる。イエスさまはそのようなお方なのです。

書店には若いお母さんも乳母車にあかちゃんを乗せてご来店くださいます。あかちゃんはお母さんと一緒だと安心です。でも、お母さんが見えなくなると泣きます。お母さんの姿が見えないと、いないと思うからです。不安になるのです。

私たちは人生で不安や大変な時、私たちの信仰はあかちゃんや子どものようではありませんか? 神が見えないからいないのではなく、見えないけれどいる。神は私と共にいてくださる。

あなたは神の愛する子どもです。そのことを知って生きるとき、イエスさまとの個人的な関係があなたの人生に深い慰めと生きる意味を教えてくださいます。