ヨハネ20・18~29/I兄
トマスは、十二弟子の中でも地味な存在の一人ですが、双子という不思議な名をもっています。ただ、スーパースターの復活の主イエスを描くために十二弟子の役割が軽く見えるヨハネの福音書においてのみ、目立つ発言があります。とくに、復活のイエスに会えなかったことで、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハ20・25)と疑ったために、疑い・不信というレッテルを貼られています。今日はその評価を疑ってみましょう。
まず、死んだラザロのもとに行こうとするイエスを、エルサレムに近づくゆえに危険だと悟り、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハ11・16)と仲間に告げます。ラザロの物語はヨハネにとり最後の「しるし」として重要です。ここでトマスはどこかイエスの意図とはズレながらも、イエスに従う意志をはっきりと示しています。
次に、イエスは14章で、読者に対しても重要な「愛し合いなさい」という命令を明らかにします。イエスが、自分が行く先を弟子たちは知っているはずだ、と漏らすと、トマスはすかさず「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」(ヨハ14・5)と答えました。このときイエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14・6)と重要なメッセージを返すのです。
最後に、復活後のこの物語。復活の主に最初に会ったのは、マグダラのマリヤ。続いて、トマス以外の弟子たち。マリヤは弟子たちに、弟子たちはトマスに、自分は「主を見た」と言いましたが、トマスは、自分がこの目で見て触らなければ信じない、と強く答えます。これは疑ったからとしか考えられないのでしょうか。トマスは科学的人間で不信仰なのでしょうか。いえ、私は、トマスがイエスを大好きだった、と仮定してみました。イエスと死を共にしようとする思い、イエスの行くところを知りたいという思い、そしてこんなにイエスを好きな自分をさしおいて復活して現れたことなど信じたくないという思いをもつトマス。
八日後、ついにイエスがトマスの前に現れます。イエスは、さあ触って確かめよ、とトマスに迫ります。でもそれは、教育的な発言だと受けとめてみたいのです。トマスが信じない者ではないことなど分かっているが、たとえ悔しくても短気な発言をするものではない、と優しくイエスは諭しているのではないか、というように。ヨハネはトマスに、他の弟子たちとは決定的に違う「私の主。私の神」(ヨハネ20・28) という告白を語らせています。もうこれで言い残すことなどないかのように、この言葉で福音書を閉じるのです。
イエスを愛する思いの強かったトマスを、不信仰だと蔑むような眼差しを私たちがもつとしたら、それこそ罪です。不信仰です。むしろトマスと共に主を愛したいし、その意味でトマスと、読者である私が、双子でありたいのです。生徒の心を理解し尽くす教師でもあるイエスを愛し従いたいという思いと共に、今私は、主の御前に立っています。
トマスは、十二弟子の中でも地味な存在の一人ですが、双子という不思議な名をもっています。ただ、スーパースターの復活の主イエスを描くために十二弟子の役割が軽く見えるヨハネの福音書においてのみ、目立つ発言があります。とくに、復活のイエスに会えなかったことで、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハ20・25)と疑ったために、疑い・不信というレッテルを貼られています。今日はその評価を疑ってみましょう。
まず、死んだラザロのもとに行こうとするイエスを、エルサレムに近づくゆえに危険だと悟り、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハ11・16)と仲間に告げます。ラザロの物語はヨハネにとり最後の「しるし」として重要です。ここでトマスはどこかイエスの意図とはズレながらも、イエスに従う意志をはっきりと示しています。
次に、イエスは14章で、読者に対しても重要な「愛し合いなさい」という命令を明らかにします。イエスが、自分が行く先を弟子たちは知っているはずだ、と漏らすと、トマスはすかさず「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」(ヨハ14・5)と答えました。このときイエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14・6)と重要なメッセージを返すのです。
最後に、復活後のこの物語。復活の主に最初に会ったのは、マグダラのマリヤ。続いて、トマス以外の弟子たち。マリヤは弟子たちに、弟子たちはトマスに、自分は「主を見た」と言いましたが、トマスは、自分がこの目で見て触らなければ信じない、と強く答えます。これは疑ったからとしか考えられないのでしょうか。トマスは科学的人間で不信仰なのでしょうか。いえ、私は、トマスがイエスを大好きだった、と仮定してみました。イエスと死を共にしようとする思い、イエスの行くところを知りたいという思い、そしてこんなにイエスを好きな自分をさしおいて復活して現れたことなど信じたくないという思いをもつトマス。
八日後、ついにイエスがトマスの前に現れます。イエスは、さあ触って確かめよ、とトマスに迫ります。でもそれは、教育的な発言だと受けとめてみたいのです。トマスが信じない者ではないことなど分かっているが、たとえ悔しくても短気な発言をするものではない、と優しくイエスは諭しているのではないか、というように。ヨハネはトマスに、他の弟子たちとは決定的に違う「私の主。私の神」(ヨハネ20・28) という告白を語らせています。もうこれで言い残すことなどないかのように、この言葉で福音書を閉じるのです。
イエスを愛する思いの強かったトマスを、不信仰だと蔑むような眼差しを私たちがもつとしたら、それこそ罪です。不信仰です。むしろトマスと共に主を愛したいし、その意味でトマスと、読者である私が、双子でありたいのです。生徒の心を理解し尽くす教師でもあるイエスを愛し従いたいという思いと共に、今私は、主の御前に立っています。