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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

待つ

2010年11月21日 | 奨励要旨
マタイ20:1~16  イザヤ30:15~18/I兄

現代は、じっと待つことが難しくなりつつあるようにも見えます。

この「待つ」ということの基本は、「何かが起こることを待つ」ことです。まず、起こりそうなことを待つことがあります。他方、本当に起こるのかどうか分からないことを待つこともあります。「希望」は、後者の場合が元来の意味でした。

マタイの福音書の「労働者のたとえ」は、天の御国すなわち神の国についての譬えとして語られました。朝早くに職を得た労働者たちが結んだ契約の一デナリは、むしろ高額であったとすると心情が理解しやすくなります。昼まで待っていた労働者たちは、相応のものという約束でした。これも悪くありません。日暮れ前に雇われた労働者たちは、報酬の約束はなく、とにかく来いと言われてついていきました。一日中仕事を待つなど、現実にはありえない風景です。放蕩息子の譬えの息子のように、絶望の中にいたのかもしれません。

すべての労働者たちは、朝早くから、仕事に呼ばれるのを待っていました。先頭に並んでいた者たちは、期待どおりに仕事をもらうことができました。金持ちとラザロの話を思い起こすと、待つしかなかった惨めなラザロに対して、金持ちが自分の金で何でも自由になると思い、何かを待つということをしない様子が伝わってきます。ユダヤ民族はバビロン捕囚によってエリート意識を挫かれ、メシアの救いを待つ信仰に至りました。自分ではどうしようもないことを待つ、そこに信仰が生まれるのです。

ところでこの譬えには、実に奇妙な人物が登場します。神であることを暗示する主人です。監督または管理人がいるのに、どうして主人が駆け回って労働者を集めているのでしょうか。そして、わざとトラブルを起こすような仕方で、給料を支払うように命じています。神の国のルールは、人間世界のルールとは違うものであると示したいかのようです。

他の譬えでは、失敗した者たちを激しく主人が糾弾し、神の国から追い出すようなことがよくあります。けれどもこの譬えでは、そこまできつい仕打ちはないようです。契約違反ではない報酬に対して不平を口にする最初の労働者たちは、私たちありがちなクリスチャンのことなのでしょうか。この譬えは、放蕩息子の譬えが父の愛の物語であったように、ぶどう園の主人の物語なのです。この主人は、与える愛、探してまわる愛を示しています。何よりも、この主人が、働き手を、日暮れの寸前にまで、待っていたのです。

かつてイスラエルは、自ら神に「立ち返る」べきだと考えていました。しかしバビロン捕囚以後、自ら自分を救うことはできないと気づきます。ひたすら神の憐れみにすがる考えが、イザヤ書の後半では支配的になります。そして新約聖書では「悔い改める」ことで神との関係を正すようになります。そのとき、実は神が先に立って待っています。放蕩息子の父のように、ぶどう園の主人のように。三つの「待つ」を、逆向きに辿りましょう。すでに待っている神に応える私たちの信仰を、神を待ち望むという形で表したいと願います。




パンだけで生きるのではなく

2010年10月10日 | 奨励要旨
マタイ福音書4:1~4/伝道礼拝/S兄

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」(マタイ4:4)イエス様が荒野で悪魔に対し言われた言葉ですが、これは、ご自身の言葉ではなく、旧約聖書からの引用です。申命記8:3には「それで、主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンのみで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きるということを、あなたに分からせるためであった。」とあります。この言葉の背後にあるのは、過酷な出エジプトの体験でしょう。苦難の彷徨の中でイスラエルの民は愚痴をこぼしたのです。水と肉を求めました。主はモーセを用いて水を与え、またマナを降らせました。(出エジプト記16章、17章)パン「だけで」というところが重要です。パンを否定していません。出エジプトの旅も砂漠を歩きたかったのではなく、民族の故郷「乳と蜜の流れる地」への帰還を求めての旅でした。また、「主の祈り」には「日用の糧をお与えください」とあります。長崎で印刷屋さんをしていた竹山広氏に「けふ一日にて稼ぎし銭でけふ一日を生きしかば」という言葉があります。「けふ一日」を生きる切実さをも主は知っておられます。

 では主の御言葉の中で重要なものは何か。「十戒」(出エジプト記20章、交読文34)がその根幹でしょう。その中で1~4までは、神に対する忠誠を、5から10は人間としての普遍的な法道徳を、書いていると思えます。安息日の規定も偶像崇拝の禁止も「ただ神を思え」ということと理解されます。先に神への忠誠が書かれています。モーセ五書を読むならば、十戒を守るとともに過ぎ越しの祭りで生贄を奉げ、苦難の中で民族を救った神に感謝することが重要だとされています。このことは、後に民族を襲ったもう一つの苦難、バビロン捕囚からの帰還後に再興されます。

 パウロはヘブル書の中でこう述べています。「(キリストは)やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)当時の神殿には、聖所がありその奥に垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる幕屋があり、大祭司が過ぎ越しの祭りの前日の贖罪日に年に一度だけ入ったようです。至聖所は聖所の奥にあり20キュビト(約9m)四方でそこに契約の箱が安置されていたそうです。ソロモンの神殿では、至聖所はヒノキ材に金が施されています。

 主イエスの最期の個所はルカ福音書ではこう書かれています。〈そのときすでに12時ごろになっていたが、全地が暗くなって3時まで続いた。太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。イエスは大声で叫んだ。「わが父よ。我が霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られました。〉(ルカ23:44、45)神殿の幕が真二つに裂けるという記述は共観福音書にはみなあります。主の十字架上の死によってユダヤ人だけのものであった至聖所がすべての人に解放されたと考えるかたもいます。

 パウロは「信仰によって」という言葉をヘブル書では多く使っています。またこう書いています「信仰がなくては、神によろこばれることはできません。神に近づくものは神がおられること、神を求めるものには報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)

 主の十字架上の死という贖罪をもってのみ、私たちの罪は清められ、救いはあります。また、パンも主から与えられるものであることを確信し生きて行かなければなりません。





愛、新しく

2010年01月17日 | 奨励要旨
第一ヨハネ3:16~18/K兄

人間は自分の意志の中に、相反する二つの性格がありますが、確かに私たちの内にも相反する自分自身が住んでいることを、誰よりも私たち自身は知っています。

このような自己矛盾を抱えながら、多くの人々はそれに気づかないふりをし、また、正面から取り組もうとする人は回答を得ないままに苦しんでいるのが現状です。

あの白衣の天使と言われた ナイチンゲールでさえ、自分の中に住むもう一人の自分に苦しんだということですから、誰もが感じる、大きな人生の問題といえるのではないでしょうか。愛を求めつつ人を憎む、また安らぎを求めながらも不安を好む、美しさを探究しつつも汚れを求める、このような矛盾を感じたことはないでしょうか。主の弟子であるヨハネは「雷の子」 というあだ名をもらっていました。ヒステリックで短気なヨハネが、キリストの愛に触れ、愛の使徒と変えられた後に書いた手紙が、ヨハネの手紙です。

 私たちを変える愛、私たちはどのような時に知ることができるでしょうか。

 多くの人々は真実な愛を求めています。その私たちの求める、最も素晴らしい愛の形が、キリストの身代わりの十字架なのです。キリストは私たちに本当の愛を示してくださいました。そのためにはご自身が罪人となる必要があったのです。

 私たちの内に住む、私たち自身も嫌悪するもう一人の私の「罪」を赦すため身代わりに十字架にかかって罰を受けてくださったのです。

キリストの人生は清く、何の汚れもありません。しかし、最後に与えられたものは 十字架の苦しみと死です。

矛盾です。なぜキリストはそのような矛盾の中に自らを投じたのでしょう。

それはあなたを愛しているからです。ここに本当のアガペの愛、真実な愛があるのです(第一ヨハネ3:16)。

愛を示すためには、まず自分自身が本当の愛に触れている必要があります。

世界中を愛すると言いながら、隣人を愛することは、なんと難しいことでしょう。だからこそ、私たちは本当の愛に触れ、自分がどれほど愛されている存在であるかということを知り、味わう必要があるのです。

キリストを信じてから自分自身のうちにおこる変化は、人によって異なりますが、何よりも、神の前での立場ははっきりとかわっています。

神は私たちをご自分の子としてくださり、私たちをキリストの花嫁と定めてくださっているのです。そして、今までサタンの奴隷だった者が、サタンや世の様々な惑わしや因習から解放されるのです。そればかりではなく、主は私たちに 永遠のいのちとともに、この世にあっての患難に立ち向かう勇気や希望を与えてくださいました。また、どんな環境にあってもかわらない平安を与えてくださっているのです(ローマ12:2)。

神は私たちをご自分の子として成長させ、養い、愛をもって育ててくださっています。私たちは、救われる以前、あるいは自分の成長の段階を振り返り、そこに、確かに神の愛が働いているということを知るのです。

 あなたは愛を知りたいと望んでいらっしゃいますか。真実な愛はキリストにあります。そしてこの愛に触れるとき、あなたが他の人に愛を注ぐ原動力を得、またあなた自身の内に働く神の愛をみることができるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)。




その名はイエス

2009年12月13日 | 奨励要旨
マタイ1章/S師

クリスマスはイエス・キリストの降誕を記念する日です。歴史の中に偉い人が沢山いましたが、昔からいままで世界中で記念されている方はただイエス・キリストだけです。それはなぜですか。私達はマタイ福音書1章によって、イエスという御名が私たちに対してどんな意味を持っているのか一緒に考えましょう。

1.その名はイエス

イエス・キリストこそ記念されるのは「その名はイエス」、すなわち「主は救い」という意味だからです。1章21節で主の使いが言ったように「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」私達は救われる必要があります。第一、私たちはみな罪の奴隷です。すなわち、自由がない奴隷と同じように罪を犯さない自由を持っていません。第二、それゆえに、私たちは自らの努力によって天国に入ることができません。第三、したがって、イエス・キリストこそ、私たちを「罪から救ってくださる方です」。

2.その名はインマヌエル

救い主の君臨に関する予言と約束

対象/時間/内容/聖書 の順に……。

アダム
罪を犯した時
「女の子孫」が悪魔「の頭を砕き」 
創世記3:15

アブラハム
BC2000頃
あなたの子孫はその敵の門を勝ち取るであろう。
創世記22:17

ダビデ
BC1000頃
わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
サムエルⅡ7:12-13
 
イザヤ
BC740-680頃 
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産みその名を『インマヌエル』と名づける。
イザヤ7:14

インマヌエル」とは「神が私たちと共におられる」という意味です。マタイ福音書の著者は「イエス・キリストの系図」、すなわち、救いの歴史の視点から、神様は自分の民に対して、その弱さ、背信を問わず、ずっと変わらない愛を持つことを示し、預言者たちを通して、尊い神であるイエス・キリストは貧しい人の姿を取って、この世に君臨されること(インマヌエル)が約束されました。

3.その名を信ぜよ

 「自分の民」とは同じ血筋ではなく、信仰による人を指します。キリスト教の信仰は真の神を信じ、みことばに忠実に従うことです。そのためには、イエスの御名を信じるべきです。イエス、その名を信じる者に与えられるのは、偽り、恥、滅びではなく、罪から救ってくださり、主が共におられることに伴う神の愛、栄え、まこと、永遠のいのちなど、様々な豊かな恵みです。




主の道を歩む

2009年11月15日 | 奨励要旨
詩篇119:105~112

1.119篇は聖書の中で最も長い章
  ・ヘブル語のアルファベット22文字を並べ、各8節、(22×8)176節。
  ・「いろは歌」形式.各段落の最初の文字すべてがその文字で始められている。
  ・著者は知恵の教師とか、律法の学者などと考えられている。
  ・著作時期は一般にバビロン捕囚期か、それ以後とされている。
  ・内容は敬虔な信仰者の神のみ教えに対する態度・周囲の人々との間に生じる様々な思い。これらを22の角度から見ている。しかも各段落の8節の中にも人生のドラマがあるようでおもしろい。
  ・神の律法を10のことばで表わす(みことば.義のさばき.み教え.戒め.
    さとし.おきて.あかし.定め.道.仰せ)。神の律法とはモーセの5書(創世記.出エジプト記.レビ記.民数記.申命記)。
  
2.105~112節(ヌーン)
  105 神のみことばを40年前に初めて聞く
  ・人生の目的は? ・クリスマス集会のチラシを手にする ・冬休みのアルバイト
  ・高校3年生の3学期 ・罪人 ・神の計画
  106 決断と実行力の詩人
  ・ルカ11:28「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」
  107 悩む詩人
  ・その理由を119篇全体から(23.36.46.86~87.143.157.158.161)
  ・その相手(21.118.113.150.98~100)
  上記の箇所から、この詩人は王や君主と交わりのある学者で、この国の支配者の中
には二心の人達も居て、詩人の存在をよく思わない者もいる。町の有力者で、影
響力のある師や老人までも支配者におもねって見える。
  ・139 声をあげる詩人
   彼らの攻撃(69) 偽証.信用の失墜を狙う.仲間の裏切.師や老人とのいさかい.
    多い敵.君主達の理不尽な迫害を受ける.
  ・私の8年前
    悪い景気に悩む.次第に追い詰められる.恐怖→怒り→心の離反→?→今
すこし苛立つ詩人
危機に立つ詩人
みことばに踏ん張る詩人
一足飛びの詩人 「いろは歌」の制約?
昇華された詩人 危機→みことばに徹する→?→昇華→解放・讃美
?の足跡  (67)詩人のあやまち  (63)ともがら  
(158~159)相対的義と絶対的義  (11)自己に厳格

3.律法の本質(マタイ22:35~40)
  ・「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
  ・「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」
  ・相対的な律法を越える主の教え
     律法の本質に触れる者はその心に変化をもたらす(130)。

愛がないなら

2009年10月25日 | 奨励要旨
Ⅰコリント12・31~14・1/T兄

この章は「愛の賛歌」と言われ多くの人にも良く知られているところです。

パウロが宣教した当時のコリントは国際商業都市として栄えると同時に、東西の宗教が混在した偶像礼拝の儀式が蔓延した町だったと思われます。パウロは「恐れないで語り続けなさい」(使徒18・9)との主の励ましを受け、一年半にわたり宣教し、コリント教会を立ち上げました。パウロが去った後もアポロやケパ(ペテロ)など恵まれた指導者のもとでコリント教会は急速に成長しましたが、同時にパウロの伝えた福音が十分に理解されず、誤解され、キリスト者の自由を放縦と取り違えたり、キリスト者や教会の本質を見失い形式的な禁欲を主張したり、極端な興奮状態で公同礼拝を混乱させてしまう人々が現れました。このような人々のためにコリント人への手紙第一は書かれたと思われます。
 
パウロは、コリント教会の本質と召された人々の本質について、「神は真実であり、その方の召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」(Ⅰコリント1・9)と、真実なる神の「召し」の事実に立ち、「あなたがたは、神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」と召しの目的に沿って教会の本質を明らかにしています。「主イエス・キリストとの交わり」は、主の晩餐(聖餐式)において目に見える形で確かなものとされます。同時に「キリストが私たちのものとされ、私たちもキリストのからだにつながれる」という「福音の究極」(カルヴァン)を意味するものと思われます。
 
コリント教会では、与えられた賜物について、その優劣を競ったり、対立したりする現実があったと思われますが、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです」(12・7)と御霊の賜物が与えられた目的を語っています。また、教会をキリストのからだに譬え、与えられた賜物ゆえに争ったり、対立したりすることを止め、「より優れた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」(12・31)と言って13章を語るのです。

13章になるとパウロの口調は一変し、1節から3節にかけ、「私が……」と自らの賜物や行いが「愛」を伴わなかったら、無に等しいものになっている、と語ります。4節以下で「愛とは何か」格調高く語られています。パウロが「愛」と言うとき、それは漠然とした一般的なことではなく、キリスト・イエスの十字架に示された、神の人への愛の事実を指し示しています。また、その愛は、この世限りのものではなく、来るべき世まで続く「絶えることのない」ものであることを力強く語っています。いま、4節から7節までの「愛」という言葉を「私」に替えて読んでみると、いかに自分という人間が愛から遠い存在であるか分かります。しかし、愛から遠く離れている私たちであっても、神の愛の現われである主イエス・キリストとの交わりを通して、絶えることのない神の愛に与ることができます。

主イエス・キリストとの交わりの目に見える形である主の晩餐(聖餐式)を守り、聖書を通して主の御言葉を聴き、絶えず祈ることにより主イエス・キリストと対話して、主イエス・キリストとの交わりを深め、「さらにまさる道」である「愛」を追い求める者となりたいものです。

パンと舟

2009年09月27日 | 奨励要旨
マタイ14・13~33/I兄

マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネと四つの福音書には、それぞれの立場や意図があると言われ、掲載された記事も異なることが多いのですが、「五千人の食事」は奇蹟物語の中で唯一、四つの福音書に共通に描かれています。また、それに続く「イエスの水上歩行」も三つにまで共通し、ペテロのキリスト告白も含めると、四つとも似通っていると言うことができます。福音書記者たちがこの二つの記事をセットで重視したのは、なぜでしょうか。

五千人の食事は、イエスを追いかける群衆に対して行われました。日暮れを目の前にしてこれからの食事が懸念された時、五つのパンと二匹の魚だけがそこにありました。祝福されたパンは増え続け、五千人に配付されます。並ぶ野菜のような個性のないこの群衆たちは、このパンに満足します。彼らが望んでいたのは、このパンだったというわけです。だからイエスは、弟子たちでパンを用意してみるようにも促したのでしょう。

しかし、パンは十二のかごを満たすほどに超えていました。十二は人間的な完全性を表すと言われています。イスラエル部族は十二でしたし、イエスの弟子たちは十二である必要がありました。つまり、群衆はパンを求めたが、弟子たちを満たすべきものはそれを超えていたのです。それをヨハネは「いのちのパン」と記しました。

続く水上歩行もまた奇蹟です。弟子たちを乗せた舟は、湖の途中で向かい風のために前進できなくなっていました。そこへイエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来たというのです。それは弟子たちにはファンタジーのように見えました。イエスはペテロに舟を出て歩いて来るように呼びかけ、ペテロは果敢に挑戦しますが沈みかけ、信仰の少なさを指摘されます。

マタイの執筆当時、キリスト者たちは各方面から迫害を受け、困難の中にありました。教会の危機を乗り越える必要を感じていました。波に揺られる「舟」はノアの箱舟の如く、教会を象徴すると受け取られています。食事の記事の時、イエスはまず舟で人のいないところに逃れました。それでもなお人はイエスにパンを求めました。しかしイエスは政治的なメシヤではありません。群衆を憐れみ、パンを与えましたが、救いを完成したわけではありませんでした。群衆はパンを求めたが、イエスの救いはそれを超えたところにあったのです。

弟子たちだけを乗せた舟は前進できなくなり困難に陥りました。しかしイエスは、波の上におり世を超えていました。教会のリーダーたるペテロは、危機の中にある教会たる舟から外へ出ましたが、荒波に負けそうになりました。イエスと二人で舟に乗り移ると、困難は去り、舟は守られました。弟子たちはこうして、イエスが神の子であると告白します。

時は夜明け前でした。闇はいつまでも続きません。やがて必ず光が訪れます。イエスの姿は幻のように見えたかもしれませんが、神の力はたしかに働きました──私の中に、そして皆さまの中に。私たちはイエスの弟子として教会を形成しています。教会を建て上げるために、ここに置かれています。イエスがペテロに呼びかけた言葉を受けましょう。「来なさい。」

ダビデの遺言

2009年08月09日 | 奨励要旨
Ⅱサムエル23:1-7/S師

 聖書のこの箇所では、ダビデの遺言が記録されました。80歳の高齢者として、ダビデは今日の私たちと同じように、人生の中で様々な問題を抱えていました。それなのに、どうして喜んで神様を賛美できたのでしょうか。今日、私たちは一緒に聖書のこの箇所を学んで、ダビデと同じように様々な困難の中にあっても、主の御名を賛美し、伝えていきましょう。


1.あげられた者
(二三1)
  Ⅰペテロの手紙第二章9節から示されるのは、すべてのクリスチャンが祭司だということです。これは、宗教改革においてプロテスタントが強く主張した根本的な教理の一つです。今日、福音のみことばを伝える時、祈り、奉仕を行う時、聖なる生活を守る時、私たちは祭司の役目を負っています。聖霊に従う者はこの尊い身分を心に留め、苦難の中でもあわれみを自分に与えられる神様を賛美し、主の御名を伝えるのです。


2.治める者
(二三3-4)
 私たちは聖霊に従う者として「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者」という役目をひたすら考えなければなりません。すなわち、私たちはみことばに従って明るさ、清さ、柔和さ、あたたかさと生き生きとしたいのちをもって、隣人と新たな関係を築くことを目指しましょう。聖霊に従う者はこの聖なる使命を思い、苦しみの中でもみことばを私たちに与えられる神様を賛美し、主の御名を伝えるのです。


3.救われた者
(二三5)
 「まことにわが家は、このように神とともにある」という日本語について、英語では「Although my house be not so with God」と表します。すなわち、ダビデは「まったくわが家は、このように神とともにはありませんが、とこしえの契約が私に立てられているゆえに、このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる」と、主の驚くばかりの恵みに対して、感謝の気持ちいっぱいで麗しい歌を捧げたのです。聖霊に従う者はこの驚くばかりの恵みを思って、苦しみの中でも、恵みと大使命を私たちに与えられる神様を賛美し、主の御名を伝えるのです。


4.戒めを守る者
(二三6-7)
 死期が迫ったダビデにとって最大の心配は、王権の相続ではなく、信仰の相続でした。ここで、ダビデは「よこしまな者」にならないことを子孫、そして私たちに戒めました。残念なことですが、ダビデの多くの後継者は、とても重要なこの戒めにあまり従いませんでした。彼らは主との関係から絶えず逸脱しました。その中でも最も顕著なものが「偶像崇拝」です。

 歴史の教訓を汲み取るためには、私たちは聖霊に従う者として、自分を「戒めを守る者」と思って、みことばにより互いに戒めるべきです。今この時代には、新たな「偶像崇拝」に注意する必要があります。新たな「偶像」とは、木や石などの材料で刻んだような形ある像ではなく、主に替って私たちの心の中の王座に知らないうちに座っている色々なこと、たとえばお金、知識、仕事、健康、愛情、子供などを指します。

 したがって今日、「鉄や槍の柄でこれを集め、その場」、すなわち戦いの場が私たちの心にあります。私たちは聖霊に従う者として、常に主イエス・キリストが私たちに与えられる尊い身分、聖なる使命、驚くばかりの恵みのことを思い、みことばによって互いに戒め合います。そして、罪と戦っている苦しみの中でも、私たちに罪に勝つ力を与えられる主を賛美し、主の御名を伝えるのです。

油のつぼ一つ

2009年07月12日 | 奨励要旨
第二列王記4:1-7/I兄

聖書に隠れたキリストを見出し、そこから恵みの言葉を聴きましょう。
 
エリシャのもとに預言者の妻が来て訴えます。主に仕えていた夫が死んだあと、負債のために子どもたちが奴隷にされてしまう、と。エリシャは、何をあなたは持っているかと尋ねます。この妻は、家には何もなく、「ただ、油のつぼ一つしかありません」と答えます。おそらくオリーブ油だと理解します。この「つぼ」という語は、旧約聖書の中でここにのみ使われています。その中には油が実はたくさん詰まっていました。キリストつまりメシアとは、油注がれた者であったことを思い起こします。
 
エリシャは、周囲から「からの器」をたくさん借りてくるように命じました。聖書は人間を土の器とたとえることがあります。しかし私たちは、えてしてその器に専ら「自分」ばかりを入れています。神の愛がそこに満ちてほしいと願います。続いてエリシャはさらに、家に閉じこもり後ろの戸を閉じて油を注げと命じます。妻は従順にその通りにしました。器を運ぶ子どもが「器はもうありません」と言うと、油はストップします。この結果を妻がエリシャに報告に行くと、それを売って負債を払うようにと指示されました。
 
妻と子どもたちは救われました。まさに「エリシャ」とは「神は救い」の意味。ところが「イエス」も殆ど同じ意味です。負債が支払われたのは、イエスの十字架の贖いによって罪が赦されることと並行して響きます。罪の負債は自分では支払えません。しかし罪なきイエスが身代わりとなって十字架にかかったことで、罪を示す負債の証文も無効とされました。そればかりか、そこから溢れ出る恵みによって、私たちはまことのいのちに生きる者と変えられたのです。この母子も、増えた油を売って、負債を完済し、なお余る益を得ました。
 
ところで、この母親にとって「子どもたち」とは何だったのでしょう。教会にとっての子どもたちについて考えてみましょう。教会学校のためには、子どもたちへのみならず、その若い親たちへのアプローチが求められます。もちろん若者たちのためにも教会は開かれていく必要があるでしょう。教会にとり、子どもたちは未来であり、いのちです。エリシャの奇蹟物語の中で、奪われたくなかった子どもたちは「いのち」を象徴していたと読んでみます。
 
私たちも断じて「いのち」を失ってはなりません。罪に自分のいのちを奪われないようにしましょう。礼拝は神を礼拝する場であると共に、「いのちのことば」が語られる場です。一期一会の礼拝を大切にしたいものです。神の目には、私のことがはっきり見えています。キリストの瞳には、私が映っています。後ろの戸を閉じて、神に向き合って祈りましょう。私という土の器が、「からの器」でありますように。そこにキリストの愛が注がれます。私が私にとり最大の罪人であることを痛感し、イエスの十字架を仰ぎ、罪の負債が完全に支払われたことを知るとき、神の愛は豊かに注がれます。いのちの恵みをたっぷりと受けると、弱い土の器にそれは満ち、私たちは喜びに輝くのです。

過ぎ越しの生贄

2009年07月05日 | 奨励要旨
出エジプト記12:21~30/S兄

折口信夫によれば、日本語の「にえ」は神様にお供えする食事であるという。「生贄」とは動物など生きたものをお供えする場合に使われる。古代社会では、神や王の生贄としてしばしば捕虜や犬が奉げられたらしい。白川静によれば、「伏す」という漢字が、「人」と「犬」であるのは、敵軍の捕虜や犬がともに捧げものとして王の墓に埋葬されたことに起源をもつという。おそらく、メソポタミアの古代社会では、動物の初子を生贄として神に奉げていたのであろう。実際に人の子を奉げていたことも想像される。アブラハムが主の言葉によりわが子イサクを神に奉げようとする話は、こうしたことが、背景にあると推察される。

過ぎ越しの祭りは、主がエジプトからイスラエル人を救った「出エジプト」を思い起こし神に感謝するための祭りであるが、バビロン捕囚ののち帰還したイスラエル人たちは、この祭りをすぐに再興し神殿を再建したのである。(エゼキエル書)神はイスラエル民族に繁栄と栄光を約束したが、民は神の教えを守ろうとせずに神の怒りを買い、「背信の女イスラエル」と呼ばれ、バビロンによってイスラエル民族の国家は滅ぼされた。危機を予告した預言者エレミヤはユダの王ゼデキアからもイスラエル国民からも受け入れられなかった。預言どおりに神殿は破壊され、異国に人々は連れ去られた。信仰の砦は廃墟となった。しかし、イスラエル民族は神への信仰を捨てなかった。モーセに率いられた先祖たちが、エジプトから救い出された神の力を思い出していたのである。かつて、不信仰で神の怒りを買ったイスラエルが、神殿を壊され、国を追われ、異国に捕囚されたときに、神への真の信仰を蘇らせたのである。

エルサレムに上られた主イエスが過ぎ越しの食事をする。「パンをとり祝福してのちこれを裂き彼らに与えて言われた。『取りなさい。これは私の体です。』また杯を取り感謝を奉げてのち彼らに与えられた。(中略)『これは私の契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」(マルコ14:22~24) 現在の私たちの教会の聖餐式に読まれるこの言葉は、過ぎ越しの食事の際の言葉であることは、よく知られたことではあるが、留意すべきことである。

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちより蘇り、天に上り、全能の神の右に坐し給ふ」(使徒信条)主イエス・キリストはいわば私たちにとっての「過ぎ越しの生贄」であろう。

「しかしキリストは、すでに成就した事柄の大祭司として来られ、手で造ったものとは違った、さらに偉大な完全な幕屋を通り、また、ヤギと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル人への手紙9:12、13)と、パウロは書いている。「ヤギや子牛の血によらない永遠の贖い」こそ、イエス・キリストの十字架である。 苦難の時にもユダヤ人は神を耐え求めたのである。神が、エジプトから救ったことを覚えて、それを忘れまいと過ぎ越しの祭りをしていたのである。神は御一人子を過ぎ越しの生贄のように、罪ある私たちのために奉げたのである。捕囚という苦難の日々に、もし人々に信仰が廃れていたならば、ユダヤ教もユダヤ人のアイデンティティも現在とは違うものになっていたであろう。そして、ユダヤ教を真に発展させたキリスト教の歴史も今とは違ったものになったであろう。

苦難の日々にも神の救済を信じ、神が私たちにして下さったことを覚えて、信仰を深めなければならない。

2009年05月10日 | 奨励要旨
Ⅰコリント13・1~13/I兄

「謎」とは、後で答えを聞くと、「なあんだ」と納得しますが、その謎を解こうと考えているときにはなかなかそれが思いつかないものです。

第一コリント13章は、「愛の章」とも呼ばれています。どんな異言を話しても、預言や奥義や知識に通じても、見事な信仰をもっていても、もし愛がなければ、何の意味もない、と語り始めます。「異言」は「様々な舌」という意味の語です。意味不明の恍惚状態に発せられる声だとも考えられています。コリントの教会によく見られたのでしょう。「奥義」は「ミステリー」です。神の救いはミステリーです。クリスチャンは、そのミステリーを受け止めた者です。ただ、ミステリーの謎、トリックの全貌を知り尽くしているわけではありません。

続いて、愛とは何かというカタログが並べられます。怒るのに遅い「寛容」、他人を自分のことのように感じる「親切」、膨れて大きくなることが「高慢」です。その他、体裁の悪いことをしないとか、挑発されても苛立たないとか、悪を数え上げないとか。真理を喜ぶときには、他人と共に喜ぶ言葉が使われています。そして愛は、屋根のように覆ったり、低いところから支え担ったりするとも描かれています。

愛は廃れることがありません。神から与えられた恵みとしての「賜物」は廃れても、愛は落ちることがありません。神から各人に与えられた贈り物としての能力は、教会を建て上げるためにも貴重です。しかし、それは完全なもの、全体に比べれば、ほんの一部分に過ぎません。私たちは今まるで子どものようです。大人の世界のことが分からないのです。

昔の鏡ははっきりと映るものではありませんでした。今私たちは、鏡でぼんやりと映っているようにしか見えていないのです。それが、「その時」には私もすっかり知り体験することができるとパウロは言います。「その時」とは、イエスが再び来て神の審きが成し遂げられる終末です。パウロの眼差しは、ここからブレることはありません。

聖書は、今私たちはまだ「謎」の中にいる、と言っています。ただ、神の側が全部知っているだけの状態です。しかし、「その時」には、私たちもその謎の答えをはっきり知ることになります。私たちは、「その時」が来ることを「信じ」ています。「期待」しています。この「期待」をパウロは「希望」と表しています。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13・13)とはつまり、そうしたすべてに血が通うように流れているのが「愛」だと言って、この章を締めくくるのです。

キリストの愛はミステリーです。愛はたんなる賜物ではありません。賜物は一部分に過ぎず、不完全なものです。完全な人間は、ただひとり、イエスさまだけでした。私たちには、神の救いの秘密がすべて分かっているわけではありません。「なぜ?」と神に尋ねたいことがたくさんあります。でも、これは「謎」なのです。いつか「その時」、その答えを教えてもらえます。もしかすると、ちょっといたずらっぽい顔をしたイエスさまに……。

信仰によって見る

2009年05月03日 | 奨励要旨
へブル11・23-24/聖餐式/S師

諺によると、「すべての偉大な人物の背後に必ず優れた母がいる」。中国人はみな孟母三遷という物語を知っています。聖書の中では、もっと多くの優れた母を記しています。モーセの母はその中の一人です。今日、母の日を前に、私達は聖書によって、モーセの両親から信仰を学びましょう。

へブル人への手紙11章23節の後半で、「彼らはその子の美しいのを見たからです」と記しています。彼らはいったい何を見ましたか。聖書が伝えるのは、へブル人への手紙11章23節の初め、「信仰によって」ということです。言い換えれば、モーセの両親は信仰によって幼子モーセを見たのです。

信仰とは現実の生活の中で、実現された神様の一部の約束を聞いた、あるいは見たゆえに、これを根拠として、神様のすべての約束の真実を心にとめ、望んでいるまだ実現していない約束を確信させることです。「美しい」というへブル語は創世記1章4節で、「神は光を見て良しとされた」の「良し」です。言い換えれば、信仰によって見たことは結局、苦難の中で信仰を持たない人には見えなくても、神様は見て良しとされたのです。

出エジプト1章5-7節によると、モーセの両親は、ヨセフと「その時代の人々もみな死んだ」にもかかわらず、「イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」ことを信仰の目によって見ました。この信仰によって、モーセの両親は、時代がかわっても、ヨセフが亡きあとも、選ばれた民に対する神様の約束がとこしえに変わらないことを見たのです。

また、モーセの両親は信仰によって、一つの信仰の働き、すなわちモーセを隠しました。隠すことは保護することでしょう。今日、人々はみな、さまざまなやり方で自分を保護しています。しかし、次のような事実が多くのことによって証明されています。すなわち、人間は全力をあげて自分を隠れ、あるいは保護されることを図っています。すべての方法は少し効果があると思いますが、頼りにならないでしょう。私たちはさまざまな保護、「文明」を求めれば求めるほど、幸せが私たちから遠くなることを認めなければならないでしょう。

聖書は次のような真理を私たちに教えています。すなわち、頼りになる唯一のことはモーセの両親と同じように、神様の約束の中に隠されることです。モーセの両親はどうして神様の約束の中に隠されることができたでしょうか。出エジプト1章17節と20節によると、彼らは苦難の中で神様の守りを見ました。それでは今日、私たちは、どのようにして神様の約束と守りを見ることができるでしょうか。

その約束がモーセの先祖アブラハムに与えられたものですが、モーセの両親はなぜそれをよく知っていましたか。出エジプト2章7-8節と6章14-25節でのモーセの系図によって、神様は次の真理をモーセと私たちに教えています。約束を伝えることができるのは人の話上手次第ではなく、神の力です。すなわち、神様は選んだ者に信仰を与えました。この信仰によって、約束が代々伝えられているのです。

また、神様のおかげで、イスラエル人は教育を非常に重視しています。父、母は子供の小さい時から神様の約束を彼らに教えています。今日、私たちはどのようにして神様の私たちに対しての約束が分かるでしょうか。すなわちこれは信仰によって御言葉、聖書を学ぶことです。クリスチャンは毎週日曜日に教会へ行き、神様を礼拝しています。この一つの重要な内容は御言葉を聴くことです。したがって、あなたは神様の約束を知ったならば、どうぞ教会においで下さい。また、中国人のため聖書を勉強する集会も用意しています。時間は毎週土曜日の午前11時と日曜日の午後4時です。どうぞ、ご出席ください。

さらに御言葉の真実を体験することが大切です。創世記22章18節によると、誰でも信仰によって神様の御言葉に従えば、誰でも神様の前に祝福を受けることができるのです。この例が、出エジプト2章6-9節で記されています。

今日、神様が私たちに与えた最大な約束、守りと祝福はいったい何でしょうか。それはヨハネ福音書3章16節の御言葉です。すなわち、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。愛する友よ、あなたは今、神様があなたに対してこの大いなる約束、守りと祝福を見ていますか。あなたは信仰によって神様の前に悔改め、イエス・キリストをあなたの唯一の救い主として受け入れませんか。

すばらしい喜びの知らせ

2008年12月14日 | 奨励要旨
ルカ2・1~20/S師
                
 あと11日で、クリスマスを迎えます。私たちはみな、クリスマスとはイエス・キリストの降誕を祝う記念日であることをよく知っています。しかし、どうして全世界の人々は、皇帝アウグストのような歴史の中で権力を一手に収めた偉人(1節)を記念せず、イエス・キリスト、すなわちこの飼葉おけに生まれた赤ん坊(7節)の方を祝うのでしょうか。ルカ福音二章10節では、御使いは告げました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」つまり、イエス・キリストの降誕は、その他のいかなる人ももたらすことができない恵みを私達のいのちにもたらす、というすばらしい喜びを知らせているのです。今日、ルカ福音第二章1節から20節までを通して、イエス・キリストの降誕により私達のいのちにもたらされた3つのすばらしい喜びの知らせをいっしょに考えましょう。

一、救いの知らせ(10-11節)
 私達はいま、情報ビッグ・バンの時代に暮らしていますが、毎日、聞いているニュースは悪いニュースばかりですね。この世の中で、どのような二ュースがすばらしい喜びの知らせと呼べますか。言い換えると、どのような二ュースが私達のいのちにとってとこしえの益になるのでしょうか。それは二千年余り前のイブに御使いが告げた知らせでしょう(10-11節)。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受け、罪の束縛から救われるのです。
 参 照:①ヨハネ1・16-17節 ②マルコ9・23 ③ローマ1・17

二、平安の知らせ(10、14節)
 御使いは「恐れることはありません」と告げました。こんにち、あなたは何を恐れていますか。それは物価が上がることですか。失業ですか。振り込め詐欺ですか。インフルエンザの流行ですか。福岡にまた大地震がくることですか……。この世の中で、どのような二ュースがすばらしい喜びの知らせと呼べますか。言い換えると、どのような二ュースが私達のいのちにとってとこしえの平安をもたらすのでしょうか。
 それは二千年余り前のイブに御使いと多くの天の軍勢が告げた知らせでしょう(14節)。イエス・キリストの降誕および十字架の愛によって、罪人としての私たちは神様(さらに他人)との和解を成り立たせてくださったのです。こうして、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」なるのです。
 参 照:①ヨハネ14・27 ②ローマ5・10-11

三、新生の知らせ(8-9、15-20節)
 このように嘆いていませんか。「あ々、今一度生まれ変ることができるなら、私は今よりもっとよい人生を送るのに」。どのようにしたらよい生き方ができますか。二千年余り前の羊飼いのようにこのすばらしい喜びの知らせを信じて、新生できますように。この世の中で、どのような二ュースがすばらしい喜びの知らせと呼べますか。言い換えると、どのような二ュースによって私達の人生が変わり、新生できるのでしょうか。それは二千年余り前のイブに羊飼いの証しです(20節)。
 イエス・キリストの降誕および復活によって、信者に御霊が与えられるので、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てること、また心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着ること」ができるのです。
 参 照:①ヨハネ3・34 ②ヨハネ14・26 ③エベソ4・21-24         
 今年のクリスマスはあなたのクリスマス、すなわち、あなたが救われるクリスマス、平安のクリスマス、新生のクリスマスとなりますように。それでは、私達も二千年余り前の羊飼いと同じようにイエス・キリストを私達に下さった神をあがめ、賛美しましょう。

地の全面に散らされ

2008年11月23日 | 奨励要旨
創世記11:1~9 / O兄

「バベルの塔」物語は、10章のノアの息子たちの系図と、11章後半のセムからアブラハムに至る系図に挟まれた短い物語である。ノアの洪水の直後、神はノアと、その息子たちを祝福し「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」と仰せられた。この人間が地上に拡がっていく祝福に、人間の傲慢さによる問題が発生し、傲慢さの罪が、言語の混乱によって裁かれたのが「バベルの塔物語」である。この町の名はバベル、すなわちバビロンで、アカデの言葉で「神々の門」を意味する。へブル語でバベルは「混乱」を意味する。聖書で「バビロン」は、神に敵対する傲慢な異教の権力の象徴である。この「バビロン」が混乱の始まりとなったとする物語である。

6節で、主なる神は権力集中の危険性を指摘する。人間の歴史は、権力を集中させた権力者、権力の驕り・濫用に反発する人間、反発する人間を利用する対抗権力の勃興、の繰り返しだ。権力に反発する人間の性質は、自分の好みの独自性を大事にし、自由を求める人間性である。「ことばの混乱」は言語・文化の多様性となり、「地の全面に散らされ」た多様な文化が発展をもたらし、権力の分散・抑止力ともなる。

権力集中の弊害を防ぐ政治の仕組みが民主主義であり、「散らされた民」の経済上の仕組みが市場である。市場は自然発生的であり、禁止しても人々はすぐに闇市で取引を始める。旧約聖書の時代から存続してきた市場はだから実に強靭である。市場は「散らされた民の秩序」なのだ。私たちは作る知識・能力を有しない多くの品物を、当り前のように日々消費している。神は、人間の貪欲を逆手に取り、(一般)恩恵へと変えられる。「地の全面に散らされた」ことが、恵みとして働き、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」という神の恵みの祝福が実現し。裁きが祝福に転じるのだ。

イエスがマタイ5・43~45で説かれたように、私たちの周りにあふれている神さまの無償の恩恵に気づき、日々感謝することが、イエスの十字架で示された神の愛への感謝に導くものである。神の恵みは社会中に満ち溢れている。ところが、私たちの多くは、恵みを恵みと理解しないで、当り前のこと、当然のことと考えてしまう。さらに何が恵みの祝福になるのか、私たち一人ひとりには分からない。気づいていない恵みは、おそらく気づいている恵みよりはるかに多いはずだ。だから謙虚に、私たちができることを、できる範囲内で、忠実にやっていく。謙虚で、忠実に、神を愛し、人を愛し、日々あらゆることに感謝する人生を目指したい。

聖書の中の名句

2008年09月21日 | 奨励要旨
詩編23編/S兄

★旧約聖書から

A. 創世記1:1 [聖書的宇宙観]
初めに、神が天と地を創造した。
 旧約聖書の開巻第1頁、第1行に出てきます。天地の造り主は神であり、その神のはじめの御業が、天と地の創造でありました。

B. 詩編8:4 [聖書的人間観]
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。

 神の造り給う天地万物の中で、人間だけが神から特別な扱いを受けています。なにゆえであろうか、とダビデは神に問いかけています。

C. 申命記6:5, (マタイ22:37, マルコ12:30, ルカ10:27) [聖書的律法観]
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

D. 申命記8:3, (マタイ4:4, ルカ4:4) [聖書的生命観]
人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きる。

E. ハバクク2:4, (ローマ1:17) [聖書的信仰観]
正しい人はその信仰によって生きる。

F. 詩編130:1 [聖書的宗教観]
主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
 この詩人は、人間の罪の深さを自覚し、神に救いを呼びかけています。学ぶべきものがあります。

G. 詩編51:17 [聖書的礼拝観]
神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。

 宗教に礼拝はつきものです。礼拝式が形式だけに流れず、砕けたる霊的なものでありますように。

H. ヨブ記1:21 [聖書的人生観]
私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。

 この句の後、「主、与え、取りたもう、主の御名はほむべきかな」また「我々は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」とヨブは言います。人生の運不運、幸不幸、悲哀と苦難の対処を信仰をもって生きたいものです。

I. 箴言1:7 [聖書的文明観]
主を恐れることは知識の初めである。
 今日のように、文化文明の発展は、神から授かった知恵の宿命でしょうか。核、地球温暖化、公害、あるいは社会の頽廃を見るに、人類は何処へ行こうとしているのでしょうか。過去のキリスト教の反省を忘れず、現在未来の責任を、この箴言の句とともにしっかりと銘記すべきだと思います。

★新約聖書から

J. マタイ5:3
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
 山上の説教の冒頭の一句です。幸いなるかな、と呼びかけられたのは弟子たちでした。呼びかけはイエスの福音であり、聞いたものは神の一方的な救いの声でした。
 キリスト教の福音(よきおとずれ)として、まずこの言葉を覚えたいものです。

K. マタイ5:44
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 この名句は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」に続いて現れます。山上の説教の中核をなしています。敵を憎めというのは本当であって、偽りではありません。人間レベルの問題は難しいものです。それを乗り越えなければなりません。それは、祈ること以外ではできません。イエスの素晴らしい言葉です。

L. マタイ6:20
自分の宝は、天にたくわえなさい。
 権力も富も、何ものでありましょう。文化も文明もいつかは終わるもの。いつまでも続くものではありません。
 伝道の書の著者は、「空の空。すべては空」(1:2)と呼びかけます。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」(第一テモテ6:7-8)とあります。
 しかし、はたして天に宝を積むことなど、できるのでしょうか。私たちは、地に積む宝を、天に積む宝にかえなければなりません。

M. マルコ9:24
信じます。不信仰な私をお助けください。
 イエスの思いがけない奇蹟がありました。息子の病を父親が治してくださいと頼んだとき、「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言ってイエスが癒したのです。その父親の口をついて出たのが、この言葉です感謝以外にありません。

N. マルコ10:21
あなたには、欠けたことが一つあります。
 完全ということは人間にはありえません。自分に欠けたものを忘れるのが人間です。
 イエスの語られたこの言葉は、持ち物をみな売り払いなさい、と続くことを指しています。物欲を絶て、ということです。物でなんでも片づくのではないという警告なのです。

O. ヨハネ8:32
真理はあなたがたを自由にします。
 人は、法律や規則や慣習のもとでのみ自由でありえます。自由放任の社会に自由はありません。真理は、イエスの愛の中に全く信頼し服従することです。ここに、真の信仰があります。

P. ローマ12:15
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
 パウロは福音に生かされた者の愛の精髄としてこの句を掲げます。人間としての不可能をうたうことによって、福音に生きる者の目標を示しているのでしょう。

Q. 第二コリント6:10
何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
 人間には肉体と精神とがあります。この二つを切り離すことはできないとしても、仏教とキリスト教との二つの違いをここに見ておきたいと思います。
 キリスト教は、精神的に何も持たないことに、すなわち懺悔と回心の道に徹します。そうして、むしろ神あるいは天の国への超越を見つめているのです。