マタイ20:1~16 イザヤ30:15~18/I兄
現代は、じっと待つことが難しくなりつつあるようにも見えます。
この「待つ」ということの基本は、「何かが起こることを待つ」ことです。まず、起こりそうなことを待つことがあります。他方、本当に起こるのかどうか分からないことを待つこともあります。「希望」は、後者の場合が元来の意味でした。
マタイの福音書の「労働者のたとえ」は、天の御国すなわち神の国についての譬えとして語られました。朝早くに職を得た労働者たちが結んだ契約の一デナリは、むしろ高額であったとすると心情が理解しやすくなります。昼まで待っていた労働者たちは、相応のものという約束でした。これも悪くありません。日暮れ前に雇われた労働者たちは、報酬の約束はなく、とにかく来いと言われてついていきました。一日中仕事を待つなど、現実にはありえない風景です。放蕩息子の譬えの息子のように、絶望の中にいたのかもしれません。
すべての労働者たちは、朝早くから、仕事に呼ばれるのを待っていました。先頭に並んでいた者たちは、期待どおりに仕事をもらうことができました。金持ちとラザロの話を思い起こすと、待つしかなかった惨めなラザロに対して、金持ちが自分の金で何でも自由になると思い、何かを待つということをしない様子が伝わってきます。ユダヤ民族はバビロン捕囚によってエリート意識を挫かれ、メシアの救いを待つ信仰に至りました。自分ではどうしようもないことを待つ、そこに信仰が生まれるのです。
ところでこの譬えには、実に奇妙な人物が登場します。神であることを暗示する主人です。監督または管理人がいるのに、どうして主人が駆け回って労働者を集めているのでしょうか。そして、わざとトラブルを起こすような仕方で、給料を支払うように命じています。神の国のルールは、人間世界のルールとは違うものであると示したいかのようです。
他の譬えでは、失敗した者たちを激しく主人が糾弾し、神の国から追い出すようなことがよくあります。けれどもこの譬えでは、そこまできつい仕打ちはないようです。契約違反ではない報酬に対して不平を口にする最初の労働者たちは、私たちありがちなクリスチャンのことなのでしょうか。この譬えは、放蕩息子の譬えが父の愛の物語であったように、ぶどう園の主人の物語なのです。この主人は、与える愛、探してまわる愛を示しています。何よりも、この主人が、働き手を、日暮れの寸前にまで、待っていたのです。
かつてイスラエルは、自ら神に「立ち返る」べきだと考えていました。しかしバビロン捕囚以後、自ら自分を救うことはできないと気づきます。ひたすら神の憐れみにすがる考えが、イザヤ書の後半では支配的になります。そして新約聖書では「悔い改める」ことで神との関係を正すようになります。そのとき、実は神が先に立って待っています。放蕩息子の父のように、ぶどう園の主人のように。三つの「待つ」を、逆向きに辿りましょう。すでに待っている神に応える私たちの信仰を、神を待ち望むという形で表したいと願います。

現代は、じっと待つことが難しくなりつつあるようにも見えます。
この「待つ」ということの基本は、「何かが起こることを待つ」ことです。まず、起こりそうなことを待つことがあります。他方、本当に起こるのかどうか分からないことを待つこともあります。「希望」は、後者の場合が元来の意味でした。
マタイの福音書の「労働者のたとえ」は、天の御国すなわち神の国についての譬えとして語られました。朝早くに職を得た労働者たちが結んだ契約の一デナリは、むしろ高額であったとすると心情が理解しやすくなります。昼まで待っていた労働者たちは、相応のものという約束でした。これも悪くありません。日暮れ前に雇われた労働者たちは、報酬の約束はなく、とにかく来いと言われてついていきました。一日中仕事を待つなど、現実にはありえない風景です。放蕩息子の譬えの息子のように、絶望の中にいたのかもしれません。
すべての労働者たちは、朝早くから、仕事に呼ばれるのを待っていました。先頭に並んでいた者たちは、期待どおりに仕事をもらうことができました。金持ちとラザロの話を思い起こすと、待つしかなかった惨めなラザロに対して、金持ちが自分の金で何でも自由になると思い、何かを待つということをしない様子が伝わってきます。ユダヤ民族はバビロン捕囚によってエリート意識を挫かれ、メシアの救いを待つ信仰に至りました。自分ではどうしようもないことを待つ、そこに信仰が生まれるのです。
ところでこの譬えには、実に奇妙な人物が登場します。神であることを暗示する主人です。監督または管理人がいるのに、どうして主人が駆け回って労働者を集めているのでしょうか。そして、わざとトラブルを起こすような仕方で、給料を支払うように命じています。神の国のルールは、人間世界のルールとは違うものであると示したいかのようです。
他の譬えでは、失敗した者たちを激しく主人が糾弾し、神の国から追い出すようなことがよくあります。けれどもこの譬えでは、そこまできつい仕打ちはないようです。契約違反ではない報酬に対して不平を口にする最初の労働者たちは、私たちありがちなクリスチャンのことなのでしょうか。この譬えは、放蕩息子の譬えが父の愛の物語であったように、ぶどう園の主人の物語なのです。この主人は、与える愛、探してまわる愛を示しています。何よりも、この主人が、働き手を、日暮れの寸前にまで、待っていたのです。
かつてイスラエルは、自ら神に「立ち返る」べきだと考えていました。しかしバビロン捕囚以後、自ら自分を救うことはできないと気づきます。ひたすら神の憐れみにすがる考えが、イザヤ書の後半では支配的になります。そして新約聖書では「悔い改める」ことで神との関係を正すようになります。そのとき、実は神が先に立って待っています。放蕩息子の父のように、ぶどう園の主人のように。三つの「待つ」を、逆向きに辿りましょう。すでに待っている神に応える私たちの信仰を、神を待ち望むという形で表したいと願います。
