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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

アメイジング・グレイス

2011年12月11日 | 説教要旨・クリスマス
エペソ2・1~10/アドヴェント待降節3/クリスマス伝道礼拝

お歳暮は歳末の贈物で 〝今年お世話になったあの人〟 に届けます。同じ年末でもクリスマス・プレゼントは歳暮とは意味が違っています。親が懸命に世話したわが子に贈ったりします。クリスマス・プレゼントって何なのでしょうか。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(8)。この神からの賜物・贈物とは「救い」のことです。そして、この救いは 〝キリスト・イエスにおいて私たちに賜わった慈しみによって示された、すぐれて豊かな御恵み〟(7)です。このことをヨハネの福音書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして裁かれることなく、永遠のいのちを持つためである」(3・16)と記し、これこそアメイジング・グレイスであると言っているのです。天地を創造された神のみもとから来られた「ことば(キリスト)は、人となって、私たちの間に住まわれた」(1・14)と記したヨハネは、主イエスがご自分の十字架の死に言及された(3・14)直後の所に、聖書の中で最も重要大切なこの聖句を認 (したた)めたのです。自分の過ちと罪の中に死んでいた私たち、サタンに従い、自分の欲の中に生き、神の怒りを受けるべき私たちの「救い」は、一方的な愛の神の独子キリストの受肉と十字架において示された恵みによるのです。神は、私たちが御子を信じ、滅びることなく、永遠のいのちを持つために、その独子を失われたのです。

イエス・キリストにある永遠のいのち・救いという神の賜物を受け取る手が「信仰」です。この恵みの賜物は自分の力、行いによって獲得することはできません。自分の働き、努力によって得るものは当然の報酬であり、自分を誇ってもよいでしょう。しかし、悪を憎み、善を欲しつつも、悪を行なっている死んだも同然の惨めな私たち罪人の救いは、私たちと同じ人間となり、罪なき聖き生涯を送り、十字架の上に私たちの身代わりとして死んでくださった主イエス・キリストを信じ、仰ぐほかありません。イエス・キリストにある神の愛、恵みの賜物を真実であるとの信仰をもって、感謝して受けるとき、あなたは救われるのです。

クリスマスとはキリストの降誕を祝うことです。未曾有の災害を受けた日本、また、それぞれに他人には言えない重くつらい事もあった二〇一一年でした。そのような中で、真実にクリスマスを祝うために、私たちは自分の罪・弱さに気付かされるとともに、神の愛と恵みを知り、信じ、イエス・キリストを心の内に宿す者となりたいと祈り、願います。神が差し出してくださっているイエス・キリストによる救いという恵み・賜物を、信仰をもって、感謝してお受けいたしましょう。




主はあなたがたのために

2011年12月04日 | 説教要旨・クリスマス
Ⅱコリント8・9/ルカ22・19~20/アドヴェント・待降節2/聖餐式

アドヴェント第二主日の今朝の聖餐礼拝では、右記の聖書箇所を中心にみことばの説き明かしの後、主の晩餐(聖餐)に与ります。

パウロは、すべての異邦人教会が彼らの信仰的な母教会とも言うべきエルサレム教会の貧しい人々を援助するよう訴え、願っていました。ここではマケドニアの諸教会を模範として、コリント(アカヤ)教会がエルサレム教会への献金という「恵みの業にも富むようになってください」と奨励します(照8・1~15、Ⅰコリント16・1~4、ローマ15・25~32)。そのときパウロは「あなたがたは知っています」と書き出し、「私たちの主イエス・キリストの恵み」を指差します。

この主イエス・キリストの恵みとは何でしょうか。それは「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」ことです。何のためにでしょうか。「それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです」。献金についての文脈の中ですが、本節が主イエスの財布について語っているのでないことは明らかです。本節の主旨をより明確に語っているのがピリピ2・6~11です。そこより「主が富んでおられた」とは「キリストは神の御姿であられる方」であることです。「貧しくなられた」とは「神のあり方を捨て」「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ、人としての性質を持って現われ」、さらに「自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた」ことです。

主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたことを、ヨハネはその福音書第一章に記しています。世界を創造した神のことば・先在の御子は、人となって私たちの間に住まわれた。この方は恵みと真実に満ちておられた、と(ヨハネ1・1、3、11~12、14)。私たちは先聖日、罪のゆえに神の国より遠く隔てられた私たち人間の世界に、聖なる神が永遠の愛と誠実をもって、飼葉桶(ルカ2・7)と枕する所なき人生(ルカ9・58)と十字架(ヨハネ19・30)の主イエス・キリストによって現われてくださったことを学びました(ギリシャ語クリネー)。

神キリストが私たちのために貧しくなり、私たちが富む者となるとは、私たちが物質的に富む者となることでないことは明らかです。この聖句は、キリストが貧しくなる、仕える者・僕となって、私たちの身代わりとなり、私たちの罪咎を背負ってくださったことにより、私たちの罪は赦されること、罪なき神の御子の十字架の死による贖いを信じる人は、必ず救われることを語っているのです(イザヤ53章)。即ち「富む者となる」とは「救われた者となる」ことです。

十字架の前夜、過越の食事・最後の晩餐のとき、主イエスは「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい』。杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です』」(ルカ22・19~20)と仰言り、主の晩餐・聖餐式を定められました。私たちのために人となり、罪なき生涯を送り、十字架に死んでくださった神の御子キリストを想い起こしつつ、感謝して主の食卓に列しましょう。




主は遠くから現れた

2011年11月27日 | 説教要旨・クリスマス
エレミヤ31・3/ルカ15・20/アドヴェント(待降節)1

聖なる栄光の神が、私たち罪人の間に人となり、住まわれた(照ヨハネ1・14)。その出来事を記念するクリスマス(降誕祭)に備えるアドヴェント(待降節)第一主日を迎え、礼拝を捧げます(週報報告照)。

エレミヤ31章は、神の民の希望は神の恵み(ヘセド)(「忠節」「確実な配慮」「慈しみの真実」)に基づいていることを語っている。神の民としてのイスラエルは、この神の恵みの選びによって始まった。民の父祖アブラハムは、突然に神により召し出された(創世記12章)。そして、エジプトで奴隷であった烏合の衆、「すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」ヤコブの子孫たちが、神の民イスラエルとされたのも、神が彼らを恋い慕い、選び、贖ってくださったことによった(照申命記7・6~8)。しかし、その民は神に反逆し、契約を破り、神の裁きを招き、遠くアッシリアに、バビロンに捕え移された。それにも拘らず「主は遠くから」その民に「現われ」、「おとめイスラエルよ」と呼びかけ、「永遠の愛をもって愛し、誠実を尽くし続けられた」。そして、「彼らの時代の後」、神がその捕われの民を帰らせる「その日」、「主は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言われる。主が彼らの神となり、彼らは神の民となる「その日」、主はその民と「新しい契約を結ぶ」と語られる(27~34)。

私たち人類の始祖アダムは、神のみことばを蔑し、罪に堕ちた。その直後、神である主は蛇(サタン)に宣告された。「わたしは、お前と女の間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は、彼の踵に噛みつく」(創世記3・15/原福音)。罪が始まった遥か遠い、遠い昔から、私たち人間の救いを約束された神は、「時が満ちると、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子とするためでした」(ガラテヤ4・4~5共)。またパウロは記しています。〝私たちがまだ弱かったとき、私たちがまだ罪人であったとき、不敬虔で、神の敵であった私たちのために、キリストは定められた時に、死んでくださいました。このキリストの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、、神との平和を持ち、神を大いに喜んでいます〟(ローマ5・1~11)。

罪のゆえに、神の国より遠く隔てられた私たち人間の世界に、主なる神は、永遠の愛と誠実をもって、飼葉桶(ルカ2・7)と十字架(ヨハネ19・30)の主イエス・キリストによって現われ、〝まだ家までは遠かったのに、私たちを見つけ、かわいそうに思い、走り寄って私たちを抱き、口づけして、子として迎え入れ〟(照ルカ15・20~24)、私たちの咎を赦し、罪を二度と思い出さず、私たちを新しく創造し、神のイスラエルとしてくださったのです(照ガラテヤ6・15~16)。

遠くから現われた主イエス・キリストの恵みの神を心から讃美いたしましょう。




クリスマスとは

2010年12月19日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ2・1~14/クリスマス主日礼拝

BC30年、遂にローマ全領土を掌中にしたオクタヴィアヌスは、BC27年、35歳の時、元老院からアウグスト(尊厳なる者)との称号を受けた。内戦に終止符を打ち、権力を一手に握り、常設の軍隊を設け、統治を安定させ、交易を盛んにし、謂る「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」を実現し、〝全世界の救い主〟と称され、神格化された初代「皇帝アウグスト」は全領土に住民登録を命令した。「それで」否応なく全領民は登録のため故郷に向かった。ダビデの家系で、血統であったヨセフは、身重になっていた許婚の妻マリヤを伴い、先祖の地ユダヤのベツレヘムに行った。そこでマリヤは月が満ち、男の初子を産み、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである(1~7)。 

遠く移動し、羊を飼わなければならないために、異邦人とも接触し、安息日も守れず、神殿に詣でることもできない羊飼いたちは、ユダヤ社会においては汚れた罪人と蔑視されていた。そのような羊飼いたちが、野宿しながら羊を見守っていた夜、突然、主の栄光が彼らを照らした。夜の暗闇に象徴される「暗黒と死の陰」(1・79/マタイ4・16、イザヤ9・2)に座っていた彼らは「ひどく恐れた」。その彼らに御使いは言った。「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」。このことを聞き、急ぎベツレヘムに行った彼らは「飼葉桶に寝ておられるみどりご捜し当て」、神をあがめ、讃美した(8~20)。

クリスマスとは何か。それは天地万物の創造者・永遠の神のことばなる方が、小さく低く人となって、罪と汚れの中にある私たちの間に住んでくださったことを記念し、祝う祭です(照ヨハネ1・3、14)。それは「世の光・人の光」(ヨハネ1・4、8・12)であるこのお方が、罪の暗黒の中で、死に怯える私たちの所に「救い主」として来てくださったことを喜び、感謝する祭りです(考・チリ鉱山落盤事故)。そのことを表わすために、私たちのために「お生まれになり」、飼葉桶に「寝かせられた」(7、12、16)幼子は、長じても私たちのために「枕する所のない」(9・58)日々を送り、いや果てに、私たちのために、十字架に「頭をたれられた」(ヨハネ9・30)「救い主」でした。この「飼葉桶に寝ておられるみどり子」が「あなたがたのための救い主、主キリスト」の「あなたがたのためのしるし」でした。

クリスマスは神がこの世界を愛し、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、その独子を賜った(ヨハネ3・16)日です。神の御子キリストは神のあり方を捨て、小さく貧しく人となり、飼葉桶に寝かせられ、インマヌエルの主として私たちの間に住み、共に歩み、そして十字架の死までも従うことによって、私たちの「救い主」となってくださいました。この神、このキリストが私たちに目を留め、共に生きてくださることを知るとき、「暗黒と死の陰」にあっても、夜空に照った光の中で、歌われた讃美を聞くことができましょう。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。




エッサイの切り株から出る芽

2010年12月12日 | 説教要旨・クリスマス
イザヤ11・1~10/アドヴェント(待降節)(3)

アドヴェント第三週の今週水曜日の聖書研究会は、イザヤのメシア預言の中の到来・誕生を学ぶ(7・14~15、9・2~7、11・1~10)。

BC734年、隣国アラムと北王国イスラエルが同盟して、南王国ユダに攻めてくることを知ったダビデの子孫アハズ王は、「木々が風で揺らぐように動揺した」。「落ちついて、静かにしていなさい」とのイザヤの忠告に聞き従わず、アハズはアッシリアの軍事的援助を受け、危機を脱したが、結局南王国ユダはアッシリアの属国となった。その時、イザヤは「ダビデの家」に「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」と預言した(7・1~15)。9章においては、この男の子は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、「ダビデの王座に着いて、その王国を治め・・・・・・その平和は限りなく・・・・・・」(9・6~7)とイザヤは預言する。

アッシリアの脅威に対し、エジプトの軍事力に頼ろうとするダビデの子孫ユダの王ヒゼキヤに、イザヤは「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ちついて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30、15)と預言する。しかし、ヒゼキヤはエジプトの馬に頼った(31・1~3)。これを知ったアッシリアは大軍をもってエルサレムを包囲した。ところが一夜のうちに18万5千人が死んだアッシリア軍は帰国した(BC701年/36~37章、Ⅱ列王記18~19章)。これは「わたしの怒りの杖」である「アッシリア王の高慢」の結果(10・5、12)であった。しかし、この奇跡的勝利と救済をユダ・エルサレムは誤解し、誇った。それゆえ主はそびえ立つ木、高い木、レバノンの大木を切り倒す、とダビデ王朝への裁きを宣告される(10・33~34)。

この時、現実にはエルサレムは陥落をまぬがれ、ダビデ王朝のヒゼキヤは国を治めている。しかし、イザヤはエッサイの木(ダビデ王朝)が切り倒され、その切株から出る新しい芽、若枝を見ている。「エッサイの切株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。この若枝こそ来るべきメシアである(照エレミヤ23・5、ゼカリヤ3・8、6・12)。その上に「主の霊がとどまる」。それは「主を知り、主を畏れる霊」である。それゆえ、その裁きは公正であり、正義と真実に満ちている(1~5)。このメシアの支配する終末のときには、アダムの罪(原罪)によって始まった人間と蛇との敵対関係も解消され、いかなる動物も殺し合うことなく草を食し、平和に共存し、虚無に服した全被造物が、天地創造の最初の秩序に回復される(6~8/創世記3・15、9・3、ローマ8・18~23、創世記1・30)。

このメシアこそ「肉によればダビデの子孫として生まれ(十字架に死に)死者の中からの復活により、神の子として示された」(ローマ1・3~4)イエス・キリストです。〝アッシリアの平和〟の時代のイザヤの預言は、七百年後の〝ローマの平和〟の時代に成就し、最終的には平和の「主が再び来りたもう時」に完成するのです。




定めの時がきたので

2010年12月05日 | 説教要旨・クリスマス
ガラテヤ4・1~11/アドヴェント(待降節)2/聖餐式

西暦のカレンダーは神の御子キリストがこの世界に来られたこと、そして何をなさったかを物語っています(BC/AD、「週の初めの日」日曜日)。パウロは「定めの時が来たので/時が満ちたので」と記し、神は歴史を導き、支配されていること(照イザヤ10・5、エレミヤ51・20/アウグスト、ヘロデ)を教え、また、古い時代が完了し、新しい時代の黎明を告げる出来事が起こったことに注目させます。それは〝神がご自分の御子を女から、律法の下に生まれさせ、お遣わしになった〟ことです。

アダムとエバは神の言葉(創世記2・16、17)に背いて、蛇(悪魔)の誘惑に負け、禁断の木の実(同2・16~17)を取って食べ、罪を犯した(原罪)。そして、自分たちが裸であることを知った二人はいちぢくの葉で腰の覆いを作った。その時、神は蛇に「わたしは、お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとに咬みつく」と言われた(原福音)。罪に堕ちながら、その責任を転嫁する二人に神は懲罰を宣せられます。そうして、そのような「アダムとその妻のために、神は皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(同3・15、21 考ルカ15・21~22/詩篇8・4)。

最初の罪が犯され、最初の福音が語られて以後、神は預言者たちを通して、多くの形で、多くの方法で語ってこられた(旧約時代)が、この終わりの時には、御子によって語られた(ヘブル書1・1~2)。時が満ち、神の定めた新しい時代が到来したのです。

パリサイ人で律法については落度がないと豪語していたパウロは、律法は聖なるもの、良いものであることを知っていた。それを行ないたいと願った。しかし、したい善は行なわず、反ってしたくない悪を行なっている自分を発見した。それは自分の内に自分の努力ではどうすることもできない罪があるからであると知ったパウロは、「私は本当に惨めな人間、神の前に死んだも同然の人間です」と叫びます。御自身の聖なる御意思を、誰ひとりとして守り行なえない(ロマ3・23)のに、神はどうして律法を与えられたのか。パウロは一転して「私たちの主イエス・キリストのゆえに神に感謝します」(ロマ7章)。律法は私たちを罪に定め、そうしてキリストに導く守り役となったのです(ガラテヤ3・24)。

このことは、後見人や管理者の下にある未成年の相続人が、父の定めた日が来ると子として全財産を所有するのに似ています(1~3)。創造主であるキリストは「女から生まれた者」、真実の人、それも「律法の下にある者」となられました(照ヨハネ1・3、14)。このために御子キリストはマリヤから生まれ、罪なき30年余の生涯の終わりに、律法を守り行なえず、その呪いの下にある罪人(照ロマ3・20)である私たちの身代わりとなって、呪いの木・十字架にかかり私たちを律法の呪いから贖い出し(3・20)、神の子としてくださいました(4~5)。そして、神を「アバ、父」「天にいます父なる神」とお呼びする「御子の御霊」を私たちの心に送られたのです。

今、私たちが神の子どもであるのは、御子キリストの受肉(誕生)と十字架のゆえです。このことを記念しつつ、クリスマスの月の聖餐式に信仰と感謝をもって臨み、裂かれた体を表わすパンに、流された血を表わす杯に与り、キリストの義の衣を着せられた(3・27)神の子であることを確信しましょう。




闇の中に輝く光

2009年12月20日 | 説教要旨・クリスマス
ヨハネ1・1~14/クリスマス主日礼拝

さまざまなことのありました二〇〇九年のクリスマス主日朝の礼拝の時を迎えました。クリスマスは夜の出来事であり、小さな存在(もの)の祝いです(救主の誕生、羊飼いたちの礼拝、東方の博士たちの礼拝、聖家族のエジプト逃避行)。教会は古くローマ時代から、夜の最も長くなる冬至祭の時に、クリスマスを祝ってきました。そこには教会の信仰の思いがあったのかもしれません。神に似せて創造されながら堕落し、神を崇めず、己を神とする暗愚な人間世界に、永遠の神のことば、救主キリストが来られたこと、「光は闇の中に輝いた」こと、「義の太陽が昇った」(マラキ4・2)ことを思いめぐらせたのかもしれません。

現代も夜であると感じている方々は少なくはないでしょう。リーマンショックに代表される行き過ぎた金融資本主義の背後には、人間の利己主義・自己中心性・自己正当化という根源的な罪はないのでしょうか。それが拝金主義を生み、多くの人を傷つけ、不安に突き落とし、苦しめてはいないでしょうか(照「あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」ルカ16・13)。そして、そのような罪の闇は私の内にない、とだれが言い得るでしょうか。

「すべての人を照らすまことの光」が世に来られた。「すべてのもの」をお造りになった「ことば・人の光」は「ご自分の所」に来られた(照コロサイ1・16)のに、「ご自分の者たちは受け入れなかった」(照ルカ2・7、同20・9~15)。「この方」はご自分の者たちを、厳しく裁き、支配し、強奪するために来られたのではない。「すべての人を照らす」ため、罪を悲しみ、暗い淵で苦しみもがく人々を救うために来られたのである。

来られただけではない。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(14)。「父のふところにおられるひとり子の神」(18)が、栄光の父のみもとを離れ、この罪の世に貧しく人となり、飼葉桶に寝かせられ(ルカ2・7)、十字架に枕された(ヨハネ19・30)。このように救主はご自分の所なのに、自己主張せず、ひっそりと誕生され、宿屋を供せず、迎え入れることを拒む私たちの間に、豪邸ではなく天幕に、慎ましく住まわれた。

「この方」に「恵みとまことに満ちておられる」「ひとり子としての栄光を見た」人々、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって」「この方を受け入れた人々、即ちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

クリスマスは飼葉桶と十字架に象徴される慎ましい人生に、人となられた神を見、恵みとまことに満ちておられるひとり子としての栄光を見る時です。このことは私たちが神により、自分の罪の深淵に気付かされ、戦(おのの)くとき、私たちの魂の内に起こるのです。どうか魂の内に、「闇の中に輝く光」であるキリストを宿し、お住まいいただく真実のクリスマスとなりますように。




その日、エッサイの切株から

2009年12月06日 | 説教要旨・クリスマス
イザヤ11・1~10/アドヴェント2/聖餐式/交読文(5)

前734年、アラム・エフライムがユダに侵攻してきた時、イザヤはダビデの家のアハズ王に主を信頼して「落ち着いて静かにしていなさい」と忠告した。」しかし、王はアッシリヤに頼った。その時、イザヤは「インマヌエル」と呼ばれる男の子の誕生を預言した(7・14)。その後「ひとりのみどりご」の誕生をも預言した(9・6)。前701年、アッシリヤが大軍をもってエルサレムを包囲した時、イザヤはヒゼキア王に「立ち返って、信頼すれば、救われる」と神の言葉を伝えたが、王はエジプトの軍事力に頼った(30・15)。

こうした荒廃した世界・状況の中で、イザヤは根元で無惨に切られた「エッサイの切株から生え出る新芽」を見ている。「若枝」はメシアを表わす(照エレミヤ23・5)。それゆえ、1節はエッサイの子ダビデ(Ⅰサムエル16・1)の家系からメシア・王が到来すること、新しい王はダビデ王朝とは根本的に断絶していることを語っている。この王の上に「主の霊がとどまる」(照マタイ3・16)。それは王が民を裁くのに必要な「知恵と悟りの霊」、正しい識別能力(照Ⅰ列王3・12)、「はかりごとと能力の霊」即ち政策と統治能力、「主を知る知識と主を恐れる霊」とは、主を単に知的に知るのではなく、主と人格的な交わりを持ち、畏れ、主を信頼し喜んで従うことである(3a)。この方は「人の見るところ」即ち人のうわべで裁かず、「耳の聞くところ」即ち耳に入る偏ったうわさで判決を下さず、正義と真実を最も大切なこととして身に帯び、寄る辺ない人や貧しい人、社会的弱者を裁判において敢然を守り、救ってくださる。それも軍事力などによらず(考「アッシリヤの平和)「ローマの平和」」「平和の君」として「口の咎、唇の息」をもって支配されるのである。

主の霊に満ちたメシアの支配により、人間社会だけでなく、自然界にも平和が実現する(5~9)。「初めに」神が創造された世界は、「非常に良かった」(創世記1・29、30)。それが弱肉強食の世界になったのは、人間の罪の結果であった(照創世記9・3)。しかし「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」「その日」には、「狼は子羊と共に伏す(共ののんびりと身を横たえる)」。初めの創造の時のように獅子がわらを食い、人間と蛇(創世記3・15)に象徴される罪による人間界と自然界に存在する不調和(恨み、恐怖)が解消される。

新約聖書はイザヤが預言した「インマヌエル」「ひとりのみどりご」こそ「ダビデの子孫」(マタイ1・1)「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人が望みをかける(ロマ15・12)イエス・キリストであると記す。私たちの「平和」である主キリストは、十字架により敵意を葬り去り、神との和解と平和をもたらし、神を喜ぶ者としてくださった。今、私たちはその恵みの中にある(照エペソ2・14~17、ロマ4・21~5・11)。

イザヤの預言は700年後の救主の誕生と十字架において一部実現し、「彼のいこう所は栄光に輝いた」。キリストが再臨される「その日」には、「主を知ることが地を満たし」全てに神の創造の秩序が回復される。イザヤを通して、主が語られたことは必ず実現すると信じる幸いな者となりましょう(照ルカ1・45)。

救い主を待ち望む

2009年11月29日 | 説教要旨・クリスマス
詩篇130・1~8/アドヴェント・待降節/交読文(4)

今日はアドヴェント(「来る」の意)第一主日、教会暦の新年初日です。七つの懺悔詩(11/22説教要旨照)の一つであり、十五の都上りの歌の十一番目の詩である130篇は、「深い淵」にあってひたすら神の赦しにすがり、救いを待ち望むことを歌う信頼の詩篇です。ルターが「パウロの詩篇。聖書の正しい先生」と呼んだのは、本詩が福音の基本的真理を教えているからでしょう。この詩を通して、救主の御降誕を祝うクリスマスを迎える心の準備をしたいと願います。

自分の罪ゆえに、「深い淵の底」(共)にある詩人は「もし不義に目を留められるなら、だれも御前に立ち得ない」(照イザヤ6・5、ルカ5・8)聖なる主に「わたしの願いの声に耳を傾けてください」と「呼び求めます」。詩人だけでなく、ダビデもヨナも私たちも「深い泥沼にはまり込み、足がかりもなく、大水の底にまで沈み、奔流に押し流される」(詩69・1~3)ような、また「主によって深い海に投げ込まれ、潮の流れに巻き込まれ、大波に呑まれ、海草にからみつかれ、地の底に沈んでしまい、もう神の御前から追放された」(ヨナ2・1~6)と思うような絶望的な状況に陥ったことはなかったのでしょうか。

詩人は自分(人間)の罪過を認め、神の御前に立ち得ないことを認めつつ、神から遠く離れた深い淵から、主に向かって叫びます。そして「待ち望みます」。この言葉の原意は「巻きつく、からみつく」です。詩人が苦悩のどん底で、神の見えない暗闇の淵で、必死に主にすがりつくのは「あなたと共に赦しがあり」(4)「主と共に恵みがあり、主と共に豊かな贖いがある」(7)ことを知っているからです。聖書の神を人間の罪を監視し、罰する方としてのみ理解することは間違いです。もしそうなら詩人は、いえ、どんな人にも望みはなく深い淵に沈むしかありません。しかし、主と共に赦しがあり、恵みがあり、贖いがあります。

それゆえ、詩人は「夜回りが夜明けを待つにまさり、主を待つ」(6)のです。そして、同じように罪の深淵に陥り、神の見えない苦悩の中にある人々に向かって、あなたの不義に目を留めず、罪を赦してくださる恵み深い贖い主である「主を待つ」ように証しします。

クリスマスとは、詩人が指し示したこの主が、罪の奴隷であった私たちの所に、この世の君が跋扈する暗闇の世に、人としてお生まれになったときです。詩人が待ち望んだ「主のみことば」永遠の神の「ことばが人となって(自ら罪の深い淵に陥り、もがき苦しんでいる)私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1・14)日です。この神こそ「インマヌエル」(我らと共にある神)の主イエスです(マタイ1・21、23)。深い淵にあって、詩人が待ち望んだ救主イエス・キリストは、今も私たちが落ち込んでいる底なしの深みに来てくださり、共に住み、赦し、やがて「そのすべての苦しみから贖い出してくださる」(詩25・22)のです。その日を望みつつ、「主イエスよ、来てください。マラナ・タ」(黙示22・20、Ⅰコリント16・22)と呼び求めつつ、アドヴェントを過ごし、クリスマスを待ち望みましょう。




救い主のしるし

2008年12月24日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ2・1~20(特に7、12、16)/聖夜燭火讃美礼拝にて

暗く冷たい夜、ベツレヘムの野原で、羊を見守っていた羊飼いたちに、突如として光が照りました。驚き恐れる羊飼いたちに、御使いは語り告げました。「私は民全体に与えられるすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ておられるみどり子を見つけます。これがあなたがたのためのしるしです」と。私たち人類を罪の滅びから救うために生まれた救主キリストは「布にくるまって飼葉桶に寝ておられる」と言い、「これが(キリストの)しるしである」と告げたのです。

通常、誕生した赤ちゃんは産湯を使い、産衣にくるみ、大きな布で全身を巻き、羊毛の揺りかごに入れられたという。しかし、神でありながら人となられた、それもみどり子として誕生されたキリストは、「布にくるまって、飼葉桶に寝かせられた」のです。「飼葉桶に寝ている」ことこそ、「救い主キリストのしるし」なのです。その幼な子がやわらかい布団でもなく、ふわふわした羊毛の揺りかごでもなく、固い「飼葉桶に寝ている」ことこそ「キリストのしるし」であると、天使は羊飼いたちに告げたのです。

「飼葉桶に寝かせ(クリノー)た」(7)という言葉と同じ語源の言葉が、イエス・キリストがその救いの御業を「完了した」と仰言り、そして十字架に「頭を垂れた(・横たえた)」と使われています(ヨハネ19・30)。また主イエスご自身が同じ言葉を使い、次のように語られています。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ8・20=ルカ9・58)。私たちの救いのために、生涯「枕する」所のない日々を旅された主イエスは、ただその誕生の時に「飼葉桶に」、その死の時に「十字架に」「枕された」のでした。即ち「布にくるまって、飼葉桶に寝ているみどり子」は「十字架に付けられ、死なれた」救主キリストを予め示していたのです。

クリスマス・イヴ、この聖夜に、私たちは何を見つけるために教会に来たのでしょうか。最初のクリスマスの夜、天使の御告げに促されて嶮しい夜道をベツレヘムへと急いだ羊飼いたちは「マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ておられるみどり子を捜し当てた」のでした。私たちも今、「飼葉桶に寝ておられるみどり子」、人となられた神、救主イエス、キリストを見つめ礼拝しているのです。同時に、十字架上の救主イエス・キリストを仰ぎ、罪の赦しのために死んで下さったことを感謝しているのです。更に復活し、天の御国に在(いま)す王の王、主の主なる方を讃美しているのです。

さあ、「飼葉桶に寝ておられるみどり子」を喜び祝う「聖夜燭火讃美礼拝」を続けて捧げてまいりましょう。




神に栄光、人に平和

2008年12月21日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ2・1~20/降誕祭主日礼拝

日本も世界も重く暗い閉塞感と不安の中に二〇〇八年のクリスマスを迎えることになりました。アメリカ発の世界同時不況の黒雲はグローバル化した世界に瞬く間に拡大しました。中東で、アフリカで戦火は絶えず、人々は安住の地を持ちません。またこの年、日本では理不尽な悲惨な事件が多く起こりました。多くの人が明日の生活を描けなくなり、心身ともに苦しんでいます。今、「地の上に平和」があると言えるのでしょうか。

最初のクリスマスの時も地上に平和はありませんでした。人々から尊厳な方(アウグストゥス)と呼ばれた皇帝(カイサル)オクタヴィアヌスは、ローマ市民にパンとサーカスを提供するために多大な出費を必要としました。そのためローマ全世界の人口調査を命じました。その勅令は帝国の都ローマから遠く離れた辺境の地パレスチナにも届きました。当時パレスチナはシリア州に属していました。総督クレニオは皇帝アウグストゥスの命令をその州民にも厳しく実施しました。ガリラヤのナザレという村に住んでいたダビデの家系に属するヨセフとマリアも否応なくその命令に服従しなければなりませんでした。ヨセフは身重の許婚の妻マリアを伴い、登録のためにユダのベツレヘム・ダビデの町に上って行きました。しかし、ベツレヘムの宿屋には彼らが泊まる空室はありませんでした。ふたりは家畜小屋に泊まることになりました。彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を生み、布にくるんで飼葉槽に寝かせたのでした。

その夜、その地方で,野宿しながら羊の群の番をしていた羊飼いたちがいました。その彼らに主の使いが現われ、すばらしい喜びの知らせ「あなたがたのための救い主」の誕生を伝え、「布にくるまって飼葉槽に寝ておられるみどり子」こそがそのしるしであると言いました。

最初のクリスマスは夜の闇の中での出来事でありました。人々は権力者の思惑と施策に翻弄され、困難と不安の中に生きていました。その彼らに御使いたちは「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌ったのでした。

クリスマスは「神がこの世界を愛し、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、その独子を賜った」(照ヨハネ3・16)日です。また主イエスはご自分の十字架の時が来たとき、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」(ヨハネ13・31)と仰言いました。神は愛する独子を世に送り、飼葉槽に寝かせ、十字架につけることによって、栄光を現わされたのです。キリストは神のあり方を捨て、貧しく人となり、インマヌエルの主として私たちの間に住み、共に歩き、十字架の死までも従うことによって栄光を現わされたのです(照ピリピ2・6~11)。それが神の栄光でした。クリスマスは神が私たち人間を愛し、私たちを救うためにその独子キリストを私たちにお与えになり、ご自分は御子を失われた日であります。

この神・キリストが私たちに目を注ぎ、共に生きてくださることに気付くとき、私たちは闇の中に光を見ることができます。キリストの十字架を指し示す飼葉槽、そこに神の栄光と愛を発見し、真実の平和の中に生きるクリスマスでありますように。



※ 教会2階の食堂に、大きなパネルが掛けられています。





ユダのベツレヘム・ダビデの町です。

今日は、冬至
もともとクリスマス自体、その時期の決め方は、
ローマ帝国における冬至の祭に関係すると言われています。
一年で一番夜が長い日。
闇の中から、希望の光が射し込むことを思う日。
主は、希望をもたらしてくださったのでした。

イエス誕生の告知

2008年12月07日 | 説教要旨・クリスマス
ルカ1・26~38/アドヴェント2/聖餐式

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、主イエスが「あなたがたのうちのひとりが私を裏切ります」と言われた時、弟子たちひとりびとりが怖れと疑いから「まさか私のことではないでしょう」と悲痛な声を発した瞬間を描いたものといわれます(照マタイ26・20~22)。では彼の「受胎告知」はどの場面を描いたのでしょうか。

先に祭司ザカリヤに(バプテストの)ヨハネの誕生を予告した御使いガブリエル(1・5~25)が、「その六ヶ月目に・・・・・・ガリラヤのナザレという町の処女の所に来た。彼女はダビデの家系のヨセフという人の許婚(いいなずけ)で、名をマリヤと言った」。御使い(原語(アンゲロス)は「告知者」の意)はマリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と挨拶し、戸惑う彼女に驚くべきことを告げる。「あなたは身籠って男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」と。そこでマリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言うと、御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ生まれる方は聖なるもの、神の子と呼ばれます」と答えた。そして不妊の女と言われていた親類のエリサベツも子を宿していることを告げ、男の子の誕生を告げられながら、それを信ぜず、笑ったアブラハムの妻サラに言われたのと同じ言葉を語ります。「主に不可能なことがあろうか」(14、創世紀18・14)。マリヤは御使いの言葉を信じた。だから静かに穏やかに「ほんとうに私は主の卑女(はしため)です。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように」と全てを神に委ねて、受け入れたのでした。「受胎告知」の平和で静謐な雰囲気はこの時を美事に描き出しています。

イエスの処女降誕は復活と共に大いなる奇蹟です。そして多くの人が処女にのみ目を留めて、聖書(神の言葉)は信じられないと嘲笑し、結果としてイエスを信じ、受け入れることを拒絶する。しかし、ルカは不可能なことはひとつもないが、聖霊によって処女マリヤを覆い包み、聖なる(罪のない)神の子を誕生させられることに驚き、記している。私たちも卑しいはしため」(48)のマリヤに目を留められる神が、善を願い求めながら、悪を行なってしまう罪人、神の御前に死んだも同然の惨めなに目を留めて下さり、キリストを信じ宿す者、いやキリスト・イエスにある者とし、罪に定められることのない恵まれた者とされた神の奇蹟に驚き、感謝しつつ「ご自分の民をその罪から救ってくださる」ためにお生まれになり(マタイ1・21)、聖き生涯を送り十字架に死んでくださったイエス・キリストを仰ぎながら、信仰の旅を続けていきたい。私共の方へ来て下さるキリストにお会いすることに心ときめかせながら、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と祈り願いつつ、信仰の歩みをつづけていきたい。

エッサイの根株より

2008年11月30日 | 説教要旨・クリスマス
イザヤ11・1~10/アドヴェント・待降節(1)

待降節(アドヴェント)とはアド(・・・・・・の方に・近くに)とヴェニーレ(来る)というラテン語から成る言葉で「何か思いがけないことが自分の前に現われてくる」ことを意味する(考・冒険(アドヴェンチュア)/ハドリアヌス帝凱旋門)。

イザヤはダビデ王家のウジア王が死んだ年735年に預言者として召され(6章)、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言した(1・1)。前734年のシリア・エフライム戦争の時、アハズはイザヤの「落ち着いて静かにしていなさい。畏れてはならない」(7・4)との忠告に従わず、莫大な貢を送り、アッシリア王の援助を受け危機を脱したが、その属国となった。この時、アハズ王に失望したイザヤは「インマヌエル」と呼ばれる男の子(近くはヒゼキヤのこと)の誕生を希望をもって預言した(7・14)。アッシリアの脅威に抗するためエジプトの軍事力に頼ろうとするヒゼキヤに、イザヤは「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る」(30・15)と主に信頼するよう忠告したが、ヒゼキヤはエジプトに使者を送った(31・1~3)。それを知ってアッシリアは大軍をもってエルサレムを包囲した。しかし、主が一夜で18万5千人の兵士を打たれると、アッシリア軍は包囲を解き、急ぎ帰国した(Ⅱ列王18~19章、イザ36~37)。これは「アッシリア王の高ぶり」(10・13)に対する神の裁きであった(10・33~34)。しかし、絶体絶命の危機を脱した王と住民はこの奇蹟的救いを誤解し、誇った。

こうした現実を見すえイザヤはダビデ王家が切り倒される時を予見しつつ「エッサイの根株から新芽・若枝が出て実を結ぶ」こと、即ちやがて「主を知り、主を畏れる」「主の霊のとどまる」真実の王(メシア)が到来し、救いをもたらすことを希望をもって預言する(照エレ23・5、ゼカ6・12、ロマ1・3、15・12)。正しい識別能力と統治能力をもつ「その方は人の上べを見て裁かず、耳にいる噂だけで咎めず、正義をもって社会の弱者を擁護し、公正をもって国の貧しい者を守る」(左近淑)。またこの方は軍事力を使わず、唇の息吹きをもって悪者を殺し、正義と誠実をもって支配する「平和の君」である。最初の創造の時、人間も動物も与えられた食物は植物だけであった(創1・29~30)。しかし、人間の堕落は人間界と自然界との間に「恨み」と「恐怖」をもたらし、弱肉強食の世界を出現させ、人間社会と自然世界との調和は破壊された(創3章、9・2~3)。しかし、この方が来られるとき、人間社会だけでなく、動物界にも及ぶ平和な世界が実現し、秩序が回復される。

夜、ベツレヘムの荒野に野宿していた羊飼いたちに「恐れることはない」と救い主イエスの誕生という喜びを知らせた御使いたちは「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が御心にかなう人々にあるように」と歌った(ルカ2・8~14)。この平和、秩序の回復はイザヤの時代の「アッシリアの平和」、主イエスの時代の「ローマの平和」、即ち軍事力による平和とは異なる。主を知り、主を畏れる主の霊に満ちた「エッサイの根株から」生え出た「新芽・若枝」・救主イエスが人となり、十字架に死ぬことによって実現してくださった真実の平和、「神との平和である」(エペ2・14~17、ロマ5・1)。こうしてイザヤが望見した「その日」は七百年後に救主イエス・キリストの誕生によって実現した。さらにキリスト再臨の「その日」には自然界全体に創造の秩序と平和がもたらされる預言も実現するのである。このようなクリスマスを、また再び来たりたもうキリストを、待ち望みつつアドヴェントの日々を歩もう。