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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

アブラハムの歩み

2015年06月18日 | CS (教会学校)
『成長』誌による教会学校のプログラムは、
今月から「族長」の物語に入りました。

旧約聖書のアブラハム・イサク・ヤコブの3世代について
連続して紹介していくことになります。

14日は、
7日の合同礼拝の時の分と合わせて、
2つの内容を学びました。

アブラムとロトとの別れの場面と、
神がアブラムを呼び出して星を見せ、
アブラハムという新しい名を与える場面とです。

六年生の子が、
この話を上手に
一枚の画用紙にまとめました。





味がありますねぇ。
そして、内容を的確に捉え、受け止めています。

何かしら教師の側が聖書を教える、ということに
力が入りそうになりますが、
心に聖書が入っていくのは、人の力によらず、
神の霊の力によるものだと実感しました。

この「まとめ」、
さらに続いていくといいかもしれません。

今日の教会学校・信仰の父

2015年06月14日 | CS (教会学校)
アブラムが75歳のとき、
今住んでいるところを出て行き、
主なる神が示す地に向けて旅をせよ、と
突然命じられました。

アブラムはそれに従いましたが、
神がいくら祝福の言葉を下さっても、
内心不安でいっぱいでした。
アブラムには子どもがいなかったからです。

当時、子どもがいなければ、
神さまに祝福を受けても、
それを伝え受け継いでいく者がいません。
つまりは、祝福とは子どもがいるということなのでした。

主はアブラムに、空の星を見よ、とおっしゃいました。
あの星の数を数え上げることができるか、
あの星のようにアブラムの子孫は多く増えるのだ、と。

アブラムは、これを、信じました。
主はこれを、義とお認めになりました。

難しい言い回しですが、
ここの聖書の言葉は、後に
人類の歴史を大きく変えることになります。





しかし、この後、
アブラムに子どもが生まれる気配はありませんでした。
いまやアブラムは99歳。

神さまは、また同じような言葉をかけます。
あなたは多くの国民の父となる、とも。
そして、その意味を表す「アブラハム」という名を与えました。
当時、名を新しく与えるということは、
全く新しい人間となり、生まれかわるようなことでした。

それで、妻のサライも、サラという名前に変えることになりました。
りっぱな女性、というような意味です。
それにしても、
90歳のサラに、今から子どもが生まれるだなんて!

しかし神さまは、なんでもおできになる方でした。

今日の教会学校・アブラムとロト

2015年06月07日 | CS (教会学校)
ふだんは第二日曜日の合同礼拝が、
今回は教会の都合で、
第一日曜日に変更になります。
ちょうど入れ替わったような格好になります。

そこで今日のお話がお休みになりますが、
ここではちゃんとお話ししますね。
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実は今日から、新しいシリーズです。
旧約聖書の、初めのほうの物語になります。
創世記に、
イスラエル民族の始まりが描かれているのですが、
まずはそのアブラハムという人です。

「油」と「ハム」だと思う人がいますが、ちがいます。
もともとは、アブラムという名でした。
それが、神さまに、その信仰がほめられて、
アブラハムという名前をいただきます。
アブラムという名は、高くされた父、みたいな意味ですが、
アブラハムは、多くの国民の父、というような意味です。

そうです。
アブラハムは、私たちの、ある意味で父なのです。

神さまに呼びかけられたアブラハムは一族とともに、
西の故郷を出て、今のイスラエルのほうへ旅を始めます。
ロトは、アブラハムの甥でした。年下の親戚です。
それぞれ羊などをたくさん飼っています。
よい場所を見つけて住むことにしましたが、
多くの羊を飼うだけの草がありません。

アブラハムは、ロトに、土地を選ばせました。
ロトは、草の豊かな土地を選び、平和に分かれていきました。

ところが、見かけのよいその土地には、
悪い人がたくさん住んでいたのです。
良い土地を欲張らなかったアブラハムは、
神さまに豊かに祝福されてクラスことになりました。

今日の教会学校・キリストのからだ

2015年05月31日 | CS (教会学校)
「キリストのからだ」と聞いて、
びっくりするかもしれませんね。
頭や手、足、心臓なんかを想像しませんか。
「たとえ」というのはむずかしいものです。
これは、理解するための「たとえ」なのです。

先週、ペンテコステという、
不思議な言葉を聞きました。
教会の始まりのことでした。

その後、パウロがイエスと出会い、
この救いを広く世界へ伝えることになります。
パウロは、イエスを信じる人のつながり――教会――を
各地につくりました。





そのパウロが、教会について
こんな説明をしています。

からだの各部分は、
誰が一番偉いか、立派か、など自慢するでしょうか。
目が耳に向かって、「おまえは見えないだろう」と言ったり、
耳が目に向かって、「おまえは聞こえないじゃないか」と言って、
ケンカをするようなことがあるはずがありません。

教会の中には、
いろいろな働きがあります。
また、そこにいる人も、いろいろな人がいます。
どんな人が偉くて、どんな人がつまらない、
そんなことはありません。

それぞれがいないと、教会にならないのです。
そして、それぞれの人ができる小さな役割が、
からだ全体のために、きっと役立つのです。

そのからだが、永遠の命のキリストだなんて、
ステキじゃありませんか。

今日の教会学校・教会の誕生

2015年05月24日 | CS (教会学校)
教会にも誕生日がある、とは不思議ですね。
でも、始まりがある、というのは本当でしょう。
ただ、何事でも昔のことは、
ほんとうの始まりについてはよく分からないものです。

教会のはじめについては、
聖書に記録があります。
現象を見て書かれた記録を読んで、
逆に元の現象を全部理解することは難しく、
私たちは新聞記事を読んだだけで
その様子を絵に描けるか、音を示せるかというと、
そんなことはないでしょう。

でも、大切な点は理解できます。
教会の誕生については、
「聖霊」が関わっていた、ということです。





これを「聖霊降臨」といいます。
イエスさまは、
復活の後に、助け主をつかわす、とおっしゃいました。
人間となられたイエスさまの姿は、
いつまでも地上にはいられませんが、
そのイエスさまの代わりに、
見えない形で神さまが来てくださるというのです。
聖霊という形のその神さまが、
ペテロたち大勢の弟子たちに一度にのぞんだのが、
この使徒の働き2章の事件でした。

先週学んだように、
教会というのは、建物のことではありません。
人々の集まりです。
ただ、人がいればよいというものではありません。
聖霊を受けた(と自分で気づかない場合もありますが)、
神さまの心を宿したような人々の集まりです。

ほんとうの意味で教会の一人であるためには、
・悔い改め
・バプテスマ
が必要です。
このことについては、
教会の先生にくわしく尋ね、相談してください。

今日の教会学校・教会の土台

2015年05月17日 | CS (教会学校)
イエスさまは、人となられた神さまですが、
いつまでも人の姿のままで
いるわけにはいきません。

しかし、それではそれから後、
人間は、どうすればよかったのでしょう。
イエスさまは、弟子たちに、
ちょっとしたテストをしました。

「いったい、わたしは何ものだと言われているんですかね?」

弟子たちは、いろいろな名前を出しました。
バプテスマのヨハネ――エリヤ――エレミヤ――

「では、あなたがたは、わたしのことを?」





ペテロが言いました。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」

みなさんは、この答えを、当たり前だと思いますか。
でも、そのとき、こんなことを言える人は、
たぶんだれもいなかったはずです。
ペテロの発言は、勇気あるものでした。

イエスさまは、ペテロにさいわいだと告げましたが、
このことは神の力で口にできたのだ、と付け加えました。
ただ、その点を大切にすることによって、
これからしっかりとした教会ができていく、と
イエスさまは言ってくださいました。

来週、
その教会が本当に始まったときの話があります。
聖書がどう記録しているか、お楽しみに。

今日の教会学校・マルタとマリヤ

2015年05月10日 | CS (教会学校)
今日は合同礼拝ですので、
このお話は今日はありません。
でも、期待していただければ、
来週お話しするかもしれませんよ。

マリヤさんといっても、
イエスさまのお母さんのことではありません。
たまたま名前が同じですが、
まったく別の女の人です。

マルタとマリヤは、姉妹でした。
たぶん、マルタがお姉さんです。
二人は、イエスさまと親しかったようです。

イエスさまは、弟子たちと旅をしています。
それで、イエスさまが来るというのはうれしいのですが、
弟子たちが大勢来るので、お世話が大変でした。

マルタは、大忙しです。





「マリヤ、手伝っておくれ……あれ?」
マリヤがいません。
さがすと、マリヤは、イエスさまのそばで、
うっとりとお話を聞いているではありませんか。

マルタは、ちょっとムカッときました。
大切なイエスさまではありますが、この時ばかりは、
「妹に、手伝うように言ってくださいませんか」と
マルタはイエスさまに、ぐちをこぼしました。

イエスさまも、マルタががんばっていることは分かっています。
「マリヤは、どうしても必要な、大切なひとつのことを
 いま選んでいるのですから」
と言い、マルタをなだめました。

なまけてよい、という意味ではありませんよ。
イエスさまは、
いちばん大切なことを忘れないように、と
おっしゃったのでしょうか。

忙しいと言いながら、
教会をあとまわしにしているとすると、
イエスさまにこんなふうに言われるかもしれませんね。

こどもの日というわけで

2015年05月05日 | CS (教会学校)
3日、
連休の機会に、
しばらくぶりにちびっ子がやってきました。

小さな子は、
少し見ない間に成長します。
なんだかお姉さんになって、
それから、やんちゃな弟も
しっかりしてきたじゃありませんか。





姦淫の場で捕らえられた女を赦す話。
うーん、四歳や七歳に、どうやって話そう。
でも、大丈夫。
教会学校の教師は、
照れたりごまかしたりせず、
言葉を子どもの目の高さに直して、
ずばりと核心は伝えます。

そのためには、
ちょっとした演技も必要です。
律法学者たちが意地悪そうに言う様子を再現し、
イエスが置かれたアンチノミー状態を想い描かせます。

子どもは、きちんと受け止めてくれます。
その後のワーク作業や会話の中で、
なんとすばらしい理解をしてくれたことかと、
感激する教師でした。

今日の教会学校・罪をゆるされた女の人

2015年05月03日 | CS (教会学校)
イエスさまをおとしいれようとする面々の、
たくらみであったようです。
町なかで、イエスさまの前に、
ひとりの女の人が連れてこられました。

イエスよ、あなたは神のゆるしを説いているようだが、
この女は人の家庭をだいなしにするような、
罪を犯しているところをつかまえられました。
法によると、これは死刑であることはご存じですね。
さあ、どうしますかね?

意地悪な質問でした。
神の法では、死刑とされています。
皆で大きな石を投げつけて殺すという残酷な死刑です。
しかし、イエスさまは、罪を犯した人をゆるして、
立ち直る生き方をこれまでも続けてきました。
死刑にしろと言えば、
イエスさまのこれまでの「ゆるし」の仕事が無意味になります。
もし無罪放免としてしまえば、
今度はイエスさまが法に違反したことになります。
そんなことをすればイエスさまが無法者として逮捕されます。





イエスさまは、黙ってその場に腰を下ろしました。
そして、地面にもじゃもじゃと何か字を書いていました。
人々は、イエスさまが困って迷っているのだと思い、
にやにやと、あるいはまたはらはらと、様子を見守っていました。

イエスさまは、すっくと立ち上がり、こう言いました。
「あなたがたの中で、罪のない者が、
 最初に石を投げなさい」

罪のない者?――人々は、自分の心に問いかけ始めました。
いや……自分はそんな者ではない……。
自分のことを正直に見つめ始めると、人々は恥ずかしくなり、
年上の人がまず、そしてしだいに若い人々も、
皆、その場から去っていなくなってしまいました。

気づけば、その場には、
イエスさまと、その女の人しか残っていませんでした。
イエスさまは、女の人に、
「わたしもあなたを罰しないから、
 もうこれからは罪を犯さないように」と言いました。

あなたは、このお話を聞くとき、
どの人の気持ちになって聞いていましたか。
それが大切なことです。

ところで、イエスさまは、罪のないお方でしたね。
最初に石を投げることができるのは、
イエスさまだけだったはずです。
投げなければならなかったはずです。
そのことを考えながら、さらにいろいろなことに
思いを向けてみてはどうでしょうか。

今日の教会学校・病が癒された女

2015年04月26日 | CS (教会学校)
先生のためのテキストには、
実は書かれていないのですが、
今日登場する女の人の事件は、
ある別の事件にはさまれて起こりました。

それは、会堂管理者のヤイロという人が、
イエスさまに会いに来たことです。
娘が病気で死にそうだから助けてください、と
ひれ伏してお願いしました。

それでその娘を助けに行こうとしているとき、
この女の人が現れたのです。
と言っても、たいへんな人だかりで、
イエスさまは最初女の人に気づいていませんでした。





女の人は、12年間も
だらだらと不意に血が出てくる病気でした。
どこにも安心して行けません。
血が出るので「けがれている」と嫌われます。

イエスさまにさわれば治る、と
女の人は思いました。
しかし、さわることはゆるされません。
イエスさままで「けがして」しまいます。

それでも、どうしても治りたいので、
人混みに紛れて、こっそり手を伸ばしました。

血が……止まりました!

イエスさまは、誰かがさわったことが分かりました。
――誰かね?
女の人は、ばれた、と怖くなって名乗り出ました。

イエスさまは、女の人の、
からだも、心も、癒してくださいました。

ところでこの後、ヤイロの娘が死んだと連絡が入ります。
しかしイエスさまは、その女の子をも
生かしてくださいました。

マルコははっきり記録しています。
「十二歳にもなっていた」と。
二人にとっての12年について、
いろいろと考え合ってみませんか。

今日の教会学校・サマリヤの女

2015年04月19日 | CS (教会学校)
イエスさまと出合った女性の話。
今日は、サマリヤの女性です。
名前は記されておらず、
サマリヤという地名だけがのこされています。

サマリヤというのは、
昔はユダヤ地方と同じイスラエルの一部で、
同じ神さまを信仰していたはずの場所でした。
ところが、ソロモンの後で国が二つに分かれて、
エルサレムとは別の神殿がそこに建てられました。
ユダヤの人々は、それを偶像だと非難しました。

それでユダヤの人々は、サマリヤの人々を
極端に嫌いました。
サマリヤの人々とは話もしないし、
その土地を通ることさえ嫌だと思っていました。

イエスさまは、そのサマリヤを通りました。
そして、サマリヤの女の人と話をしたのです。
男の人が女の人に話しかけるということもまた、
当時は珍しいことでした。





その女の人は、昼の暑い最中に、
ひとりで水のある井戸に来て水汲みをしていました。
イエスさまは、その水を少しくれないかと言いました。
しかし、二度と喉がかわいたりしない水をあげる、と
イエスさまが言ったので、女の人は驚きました。

しかも、女の人が、
よくない生活をしていたので誰とも会わないように、と
わざわざ暑い昼に水を汲みに来ていたことをイエスさまは見抜き、
女の人のその生活を言い当てました。

女の人は、イエスさまが特別な人だと分かりました。
イエスさまは、神さまを礼拝することの大切さを教えました。
女の人は、自分の恥ずかしい気持ちも忘れて、
町の人々に、すばらしい方に出合った、と
話し始めたのでした。

私たちが気にしている、世の中の小さなことも、
イエスさまとの出合いは、忘れさせてくれるのでしょう。
そして、うれしくさせてくれるのでしょう。

いのちの水を、イエスさまはくださるのです。

今日の教会学校・マグダラのマリヤ

2015年04月12日 | CS (教会学校)
新しい学年が始まりました。
新しいクラス、いかがですか。

ごめんなさい。
2週連続で、合同礼拝です。
毎月第2週の、分かりやすいお話だからです。

これから、新しい学びの特集が始まります。
それは、イエスさまと出合った、女の人のお話です。

聖書の時代も、
かつて世界中でそうであったように、
女の人は、男の人よりも
低く見られていました。
社会的・経済的な権利に薄かったのですが、
聖書はその中でも、
比較的女性を大切にしてきたほうだと思います。

とくに新約聖書では、
女性が大切な役割を果たしています。
男の弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げましたが、
女の人たちは、イエスさまに従い続けました。





今日の学びは、
マグダラのマリヤという人です。

聖書では、名前が出されていなくても、
この人がマグダラのマリヤでは、と
考えられている例があります。
はっきり名前が出されているところもいくつもあります。

復活のイエスさまに会ったお話も書かれています。
今回は、その場面を読むのでした。

イエスさまの遺体が消えたので、
このマリヤは泣いていました。
そこへ、イエスさまが現れてくださったのです。

その優しい語りかけに、
マリヤは振り向き、イエスさまと再会できました。

きっとあなたにも、
イエスさまは語りかけてくださっていますよ。

進級式

2015年04月08日 | CS (教会学校)
今年はたまたま、
それが復活祭にあたりました。
四月の最初の日曜日、
子どもたちは、新学年の挨拶をします。

いわゆる「進級式」というものです。
教会の皆さんの前に、
元気よく自己紹介をしてください。





復活祭に定期総会、誕生会その他、
たくさんの予定のあった朝の礼拝。
その中でゆっくりした時ではありませんでしたが、
子どもたちのことを、
大人の皆さん、覚えられたでしょうか。

子どもたちは教会の未来です。
今いる子どもたちのために祈ってください。
また、これから来る子どもたちのためにも祈り、
どうができる協力をお願いします。

春休み、
遠方へお出かけの子どもたちもいました。
ひとりひとりに手渡されたプレゼントと同じものが、
届けられることになります。
お楽しみに。

今日の教会学校・十字架と復活

2015年04月05日 | CS (教会学校)
今日は、復活祭の特別合同礼拝です。
イースターは、
卵を探すというのが、
子どもたちにとり楽しいイベントです。
あるいは、卵を皆さんに配ることもありますね。

しかし、イースターから卵に到着するためには、
いろいろな理解が必要となります。

実は、今日香椎バプテスト教会の大人の礼拝に
皆さんも参加しますが、
そこで取り上げられるローマ書4:25というところは、
今日の教会学校の暗誦聖句そのものでした。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
 私たちが義と認められるために、
 よみがえられたからです」





イエスさまは、裁判で死刑を言い渡されました。
裁判と聞くと、皆さんからは
正しいさばきだとしか思えないことでしょう。
でも、人間のすることに「完全」というものはありません。

ひとは、自分で正しいと考えることは、
何がなんでも正しいとしたがるのです。

イエスさまは十字架におかかりになり、
しかしよみがえったことで、
永遠のいのちを思わせる卵が、
私たちのイースターのお祭りに使われるようになりました。

けれども、その十字架とは、
なんと残酷な死刑だったことでしょう。
そして、それは、ひとごとではなく、
自分とのつながりがあることなのだ、というのが、
今日感じたい、いちばん大切なことであるのでした。

一度、思い切り泣いてください。
その先に、喜びが見つかるとき、
それが最高のイースターの迎え方だと思うのです。

今日の教会学校・岩の上に家を建てる

2015年03月29日 | CS (教会学校)
「砂」というと、どんなイメージですか。
「土」の中でも、遊びやすいと思います。
あまり力もいらず、手の汚れも少ないかも。
かんたんに、さらさらとあつかえます。

お城だって、かんたんに作れます。
海辺で、ぬれた砂で作ったこと、ありませんか。
でも、
それはすぐにこわれます。

かんたんにできるけど、
かんたんにこわれるのです。





イエスさまは、
家を建てるときに、
砂の上に建てるようなことをしていないか、
聞く人に考えさせました。

家を建てているところを見たことがありますか。
一度、地面を掘ります。
そこにしっかりとした土台を作って、
それから初めて、上に建てていくのです。
そうしない、土台がゆるい、危ない家になるからです。

イエスさまも、そのようなことをおっしゃいました。
何が言いたいのでしょう。
実は、イエスさま自身が、その土台だというのです。

不思議な考え方ですね。
でも、このことをよく考えて、意味が分かったとき、
あなたは「かしこい人」になる、ともおっしゃっています。
「かしこい人」に、なりたいですね。