マルコ5・21~24,35~43/イエスの生涯(15)/父の日
ユダヤ人の礼拝の場であり、地域社会のセンターであった会堂(シナゴーグ)はパリサイ派律法学者が指導する一般のユダヤ教徒の組織でした。その会堂の長老の中から選ばれた数名の管理者は礼拝や建物を監督、管理しました。そのようなユダヤ社会の要職にあったヤイロは、重篤な病状の娘の癒しのために、パリサイ人の目をも恐れずイエスの許に出向き、その足もとにひれ伏して懸命に娘が直って、生きるようにして下さいと願った。きょう父の日です。子どもにとって父親とはどんな存在なのでしょうか。ヤイロのように必死の思いで子どもがキリストの恵みにより救われ、生きるように祈る父親でありたいと願います。
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。するとそこに十二年間も出血の止まらない不浄の女(レビ15・25~27)が、群集に紛れ込み、イエスの服に触った。すると、すぐに出血が全く止まり病気が直ったことを体に感じた。イエスも十分の内から力が出て行ったことを感じ、誰が自分に触れたか周りの群集に問われると、女は震えながら全てありのまゝに話した。そこでイエスは女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直した(救った)。安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」と言われた。
この間、ヤイロは気が気でなく、心中は穏やかでなかったであろう。はたしてイエスがまだ女と話しておられるとき、家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げた。その話しを聞いて、そしてヤイロの心中の思いを察して、イエスは彼に「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。
そして三人の愛弟子だけを連れ、ヤイロの家に着かれた。泣き喚く人々に「子供は死んだのではない。眠っているのです」と言われた(照ヨハ11・11/Ⅰテサ4・13~14)。イエスにとり死は終りではなく、新たな生命、新しい世界に目覚める朝までの眠りなのです。
イエスは両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行き、その手をとって「タリタ・クミ(少女よ立て)」と言われた。すると少女はすぐに起き上がり、歩きだした。人々は非常な驚きに包まれた。
人の手立てではもはや如何ともしがたい状況の中で、ヤイロは一縷の望みをイエスに託した。しかし、その希望が潰え去ったと思われ、絶望の淵に沈みかけたヤイロに、イエスは「恐れないで、ただ信じ続けよ」と言われた。その主イエスが死んだ娘に「タリタ・クミ」と言われると娘は生き返った。神のことばであるイエス・キリストの約束(ことば)は真実であり、必ず果たされる。信仰とは語られたように事を実現される神が、罪に翻弄され、死に脅かされている《私》に目を留めていて下さることを知り、恐れと絶望の中でこのイエス・キリストに助け・救いを願い求め、受け取ることです。「タリタ・クミ(少女よ立て)」と響き渡ったイエスの力強い御声を今日、私たちも聞くことができますように、そして生きることができますように。
ユダヤ人の礼拝の場であり、地域社会のセンターであった会堂(シナゴーグ)はパリサイ派律法学者が指導する一般のユダヤ教徒の組織でした。その会堂の長老の中から選ばれた数名の管理者は礼拝や建物を監督、管理しました。そのようなユダヤ社会の要職にあったヤイロは、重篤な病状の娘の癒しのために、パリサイ人の目をも恐れずイエスの許に出向き、その足もとにひれ伏して懸命に娘が直って、生きるようにして下さいと願った。きょう父の日です。子どもにとって父親とはどんな存在なのでしょうか。ヤイロのように必死の思いで子どもがキリストの恵みにより救われ、生きるように祈る父親でありたいと願います。
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。するとそこに十二年間も出血の止まらない不浄の女(レビ15・25~27)が、群集に紛れ込み、イエスの服に触った。すると、すぐに出血が全く止まり病気が直ったことを体に感じた。イエスも十分の内から力が出て行ったことを感じ、誰が自分に触れたか周りの群集に問われると、女は震えながら全てありのまゝに話した。そこでイエスは女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直した(救った)。安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」と言われた。
この間、ヤイロは気が気でなく、心中は穏やかでなかったであろう。はたしてイエスがまだ女と話しておられるとき、家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げた。その話しを聞いて、そしてヤイロの心中の思いを察して、イエスは彼に「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。
そして三人の愛弟子だけを連れ、ヤイロの家に着かれた。泣き喚く人々に「子供は死んだのではない。眠っているのです」と言われた(照ヨハ11・11/Ⅰテサ4・13~14)。イエスにとり死は終りではなく、新たな生命、新しい世界に目覚める朝までの眠りなのです。
イエスは両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行き、その手をとって「タリタ・クミ(少女よ立て)」と言われた。すると少女はすぐに起き上がり、歩きだした。人々は非常な驚きに包まれた。
人の手立てではもはや如何ともしがたい状況の中で、ヤイロは一縷の望みをイエスに託した。しかし、その希望が潰え去ったと思われ、絶望の淵に沈みかけたヤイロに、イエスは「恐れないで、ただ信じ続けよ」と言われた。その主イエスが死んだ娘に「タリタ・クミ」と言われると娘は生き返った。神のことばであるイエス・キリストの約束(ことば)は真実であり、必ず果たされる。信仰とは語られたように事を実現される神が、罪に翻弄され、死に脅かされている《私》に目を留めていて下さることを知り、恐れと絶望の中でこのイエス・キリストに助け・救いを願い求め、受け取ることです。「タリタ・クミ(少女よ立て)」と響き渡ったイエスの力強い御声を今日、私たちも聞くことができますように、そして生きることができますように。