犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

いくつ?

2016年04月16日 | おせわがかり日誌


「いくつ?」

いきなり背後に知らないおばさまが立っている
にこにこにこさらに近づいてくる
周囲を見回してみても、私以外誰もいない
疑問符が頭の中を浮遊する




「え?えーと、よ、よ、よ、よ、よんじゅう・・・(なぜ街中でこんなこと言わねばならないのか)・・・ハ!」

口の中でもごもごごもごもしていると、
足元でふむふむふむふむしている犬が目に入る

『ああ なんだ こんちゃんのことか』

ここでやっと理解して、

「えーと、14さいくらいですね」

と答える

「そう!うちにも6歳の(多分柴)子がいるんだけど・・・」

多くを語らなくても、あなたのその目で、以前に見送った子がいることはわかりますよ
どうぞこんちゃんをぞんぶんに眺めてやってください 本人気付いてませんから




そんな不意打ちが近頃しょっちゅうある なぜなんだろう
よく見ると、こんちゃんの自慢の黒いまゆげとおひげが見当たらない みんな白い
老いはゆっくりと、でも確実に進んでいて、道行く他人(ひと)にはそれが、
今はいない懐かしいあの子に見えたり、似ていないけれど思い出したり、するのだろうな




そういえば、こんなこともあった
ゆっくりふむふむの間に信号待ちの車の窓がウィーーーンと開き、
にこにこの老女がじーーーーっとこんちゃんを眺めていたことがある

毎日ツイッターのTLに流れる叫びを見ると、
無暗に老犬を捨てる人も確かにいるんだろう(困ったことにとても多く)
でもそれ以上に、最後まで面倒を見て、見送った人もいるはずだ


少なくとも私は、毎日のように、
そうした人たちに声をかけられたり、声をかけなられなくても、
春の日ざしのような、あたたかいまなざしを受けることがある





もう年だからと、自分が先立つことを案じ、
犬と暮らすことをあきらめて、誰かが連れている犬をじーっと、
いとしく眺める人がいることを知っている


それもまた動物愛護といえるんじゃないかな、ねえ?


いつか社会が今より成熟したら、
彼らのような人たちが、元気なうちはずっと動物と暮らし、
それが難しくなったとき、誰かがあとを引き受けるのが当たり前、
というような認識になるといいなあ


誰もが無理なくそうできるよう、
経済的にも国が、バブル崩壊後、
長く続いているこの『暗夜行路』を抜けているといい。