最近、毒母という言葉は
もう、頻繁に見かけるようになった
カサンドラとかもそうか
私が、これらをやはりすぐに認識してしまうのは
RASがフィルターをかけてしまっているからだとわかる
確かに、思考に動かされるというのは正しい
カサンドラも、毒母も、きっと今に始まったことではない
そうして悩み苦しんできた人は
たくさんいることと思う
そして、そんな経験もない人にとっては
これらの言葉はいくら発信されても、
引っかかることなどはなにのだろうと思う
私だけ・・・という閉鎖的な考えを止めなくてはならない
カサンドラにしろ毒母にしろ
その経験というのは、その人ならではのものであって
誰も彼も同一ではないのだ
だからといって、嘆き悲しむことでもない
一般的に有り得る
ということなのだ
おそらく、昔からあったんだろうなって思う
そこにたまたま出くわした
今はそんな風に思う
そして、この経験は、マイナスとは捉えない
もちろん、否定されて育てられた暁が今の思考だとすると
それは残念な結果だが
脳は、学ぶので大丈夫とみた
RASの働きがあれば
今からでも充分にシフトチェンジは可能になるのだ
苦しいと、どうしても
恨んだりしてしまう
これは当たり前のコトだ
悔しい想い、哀しい想い、全ての記憶は
それで構成されている
誰にもこの辛さなんか
わかるまい
いやいや、わからんよ
当事者じゃないのだから
母が毒でも、母だったしね
カサンドラにせよ、人間の欠陥なんて
誰にでもある
いい人ばかりに恵まれる場合もあるが
そうでない場合は、多くある
どうしてこんなにも・・・・と
そう思いたくもなるし、実際にそう思う
でも、きっと
これだけ苦しんできた人間は、再生可能能力も半端ないと
思うんだよね
きっとね、苦しみの中で育ってきた人は
誰かに頼るとかさえできなかったと思う
だって、どうしたって無理だよね
家庭内で幼いころから、北じゃないけど、ほぼほぼその状況だ
それが当たり前の世界でいたのだから無理もない
ただ、
自由になれることも確かだ
自由に、希望通りになるなんて、申し訳ないとも思いがちだ
そう、
自分は幸せにはなれないというより、なってはいけない
の感覚の方が強いのだ
贅沢はしてはいけない
勉強はできない
容姿は悪い
性格も陰険・・・・
ありとあらゆることを母が言うのだから仕方ない
大人になって、誰からも
自己否定が過ぎると言われ続けてきても・・・・
払拭はできなかった
味方はいないと思った
いいのだ
誰もいなくとも
ただ、自分の思考が
自分を否定することは、どこかで止めなければならない
これは、きっと止められる
そして、止まると・・・・
自己肯定の世界が必ず広がってくる
必ずだ
まだ、私も、なんにも手ごたえなどないが
ちょっと気持ちは違う
でも、それだけでもいいと思うんだよね
本当の自分が
やっとわかってくれたって
魂は感じると思うんだ
どこかで、また挫折するかもしれないが
それでも
なんでも
やってみようと思うのは
自分を取り戻したいから
だけなんだと思う