あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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『リリーちゃん』と香港で付き合ったことのある好色なビジネスマン (p26)

2009-03-26 00:29:30 | リヴィエラを撃て 再読日記
本日3月25日(水)より、単行本版『リヴィエラを撃て』 (新潮社) の再読を始めました。
文庫版の再読日記をざっと眺めたのですが、2006年のほぼ同時期(3/27)に読み始めてたんですね。月日の経つのは早いもんだ。

今回は単行本での再読です。前に単行本を読んだのは・・・えっと・・・(過去の読書記録をチェック中)・・・2003年の春!? 6年ぶりですか!? ひょえー。

『リヴィエラを撃て』の単行本と文庫に関しては、「あまり違いはない(らしい)」というのが、一般的な見解のようです。
が! 裏を返せば「細かいところでやっぱり相違はある」ということです。それらを逐一挙げるのは、キリがないのでやりませんけどね。




今回読む単行本の写真。付箋紙貼ってない状態は昨夜限りと思い、撮影しました。




前回読んだ単行本と並べて撮影。ちなみに一番大きなところで広さを測ってみましたら、今回の本は約3センチ5ミリ、前回の本は約7センチ5ミリありました・・・。
今回はこれ以上広がらないように気をつけて、付箋紙を貼るつもり。

再読日記ですが、今回はあまり気張らずに、楽にやっていこうかと。重厚な物語ですが、久しぶりの単行本の再読ですし、初めて読むかのような気持ちで読んでいきたいんです。
(いずれ作成予定の「キャラクター考察」の下調べも兼ねて)

それではいつものように、注意事項。
最低限のネタバレありとしますので、未読の方はご注意下さい。よっぽどの場合、 の印のある部分で隠し字にします。

***

2009年3月25日(水)の『リヴィエラを撃て』 は、1992年1月――東京のp34まで読了。このペースだと、2週間以上は確実にかかりますね。

そうそう今回のタイトルは、キム・バーキンが手島修三さんの台本で一芝居演じたキャラクター設定です(意味不明?)


【マニアックなたわごと】
つまり他人がどう思おうが、私はここが気になるの! という部分です。

●レディ・アンの身長・・・おおよそ170センチとありましたが、これってヒールを履いて? それともプレーンな靴? 雪の降っている東京だったから、ブーツ?
今の時代こそ170センチの女性なんてざらにおりますが、1949年生まれのレディ・アンがこの身長って、かなり目立ちません?

●手島時子さんの「翻訳」の仕事・・・何を訳しているんだろうかと。学術書や専門書? 小説などの文芸書? 論文? 海外の雑誌の日本版? 意外なところでハーレクイン・ロマンス?(笑)
いや、手島さんの仕事が仕事だから、夫婦で過ごす夜の時間があまりに少ないと思われるので、ハーレクイン・ロマンスのようなラヴ・ストーリーでストレス発散してるのかな・・・と。ヒロインになりきって、ヒーローに恋したり、ときめいたりしてるかも知れない。


【今回の名文・名台詞・名場面】
文庫版と重複する部分が多いのは、これうもう、どうしようもありません。そこにどうしても「惹かれる」ということなのですから。ご了承下さい。私のコメントも最小限に抑えます(本当はなくてもいいんだけど ← 手抜きしたい下心が見え見え)


★私の四十年間の警察勤めの経験では、事件の大小は必ずしも犯意の大小には比例しない。厳粛に比例するのは、犠牲者の数だ。 (p4)

★手島は最後にもう一度遺体の顔を目に刻んだ。生前この緑色の眼球の見ていた世界がどんなものであったのかは知るすべもないが、すべての死はそれぞれの苦しみを表し、生きているものにその苦しみを移してくる。手島はいつもそう感じた。こうして自分の目で見つめた死者の顔はもはや、数日たてば忘れてしまう顔の一つには、なりそうになかった。死者の苦しみのために自分に何か出来ることはあるのか、ないのか。最低限、それを確かめるまでは忘れるわけにはいかない。 (p15)

★こうした生活に不満はなくても、それは個人の魂のレベルでは、充足とは別語だった。あえて言えば、自分の心身すべてにわたって、この二十年何か欠けていると思い続けてきた。大したものではない。単に靴下の片方のようなもの。二つ揃わなければ用はなさないが、別に片方でも死にはしない。そして、仮に二つ揃っても、色違いの、決して一緒に履けない靴下。二つの土地、二つの言葉、二つの文化は手島の中では、大人になってからの二十年、そういうものだった。
いや。そういうことを言い始めると、今履いている片方の靴下も、履いているという実感はなかった。それでもこの十三年、一応は国家公務員を務めてきたのだが。
 (p22~23)

★そのとき、日本の公務員住宅では標準的な、狭く薄暗い廊下にぽつんと立っていた男の第一印象を、どう言えばいいか。肉親の死に目に間に合わず、慌てて駆けつけた火葬場で、間違えて他人の骨を拾っている粗忽者の素朴な当惑。一方で、それに気づいた後も、悠然と演技を続けることの出来る冷徹な素質を、隠そうともしない、あるいは隠せないことによる当惑。二つの当惑が、完璧無比に訓練された情報部員の石の表情と、不安げな、未だ若さの名残りのある端正な顔にそれぞれ同居していた。とはいえ、男は実際、手島と同年代だったろう。 (p23~24)

★こういう笑みが現すのは、そのときの状況判断でも感情でもない。男の生まれ育った池から湧き出す水泡のように、自動的に現れるものだった。男の国にはいろいろな池があり、それぞれ発する水泡の形が違い、臭いが違う。男は、堅実な資産と教養と、中庸な社会感覚を身につけた保守的な中産富裕階級の出身と思われた。ただし、本人はそういうことには無頓着な方かも知れない。もちろん情報部ならば、左でもアナーキーでもあるはずはないが、育ちの良い木もさまざまな風雪でかなり傷ついているように見えた。 (p24)

★男は終始無言だった。縫合の跡も生々しい遺体を見つめる清涼なブルーの瞳には、長年ずっとそうだったのだろうと思わせる深い翳りがかかっていた。個人的な感情とは違う、はるかな祖先の記憶や、春夏秋冬の森や野の記憶がもたらす翳り。 (p26)

前後しますが、上記3つは手島さんから見たキムの描写。どうにもこうにも、くたびれた30代後半の男性(苦笑) でも、不思議な魅力も垣間見れますよね。それは高村さんの紡ぎ出される男性キャラクターの魅力だから・・・でしょうか。
実際キムがくたびれたように感じるのは、疲労度が増してたでしょうし、時差ボケもあったからでしょう。

★外事警察のガードの固さは一般市民に対してだけのもので、内部では猿の毛繕いよろしく機密を漏らし合うことで、結束を確認し合うような奇妙な風潮がある。 (p26)

キムに便宜を図ったことで、後に叱責受ける手島さん。自分の所属している組織だから、いやでも長所も短所も見えるんでしょうね。

★東京は、皇居の森と堀が象徴する不可視の都だ。一千万の民の知らないエイリアンが潜み、それを知っている一部の者どもの密かな目配せが霞ヶ関に飛び交っている。その目配せの一つを、計らずも課長の顔に見たように思った。
手島はそのとき、自分の受けた侮辱について考えた時間はほんとうに少なかった。負け惜しみではない。個人の領域に土足で踏み込まれるのに慣れなければ、この国では男は生きていけない。
 (p30)

このような高村さんの「男」の描写に、惹かれるよね。

★手島は七八年春のアルスターの景色を瞼に浮かべた。爆弾や投石やデモで騒然としていたベルファストを出てしばらく車で走ると、もうどちらを向いても無人の大地ととてつもない緑と驟雨だった。春の色には未だ遠かったが、なだらかな丘陵を覆う雨と霧の下に、滲み出すような緑が浮かんでいた。その色が、永遠の緑に思われた。
荒廃とは違う、歴史も人も死に絶えたような、ある種の絶対的な静寂というものを、そのとき初めて感じたのを覚えている。
 (p34)



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