あるタカムラーの墓碑銘

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シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・5

2005-07-04 22:35:12 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
月一回のペースになりつつあるか、 シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記。4月に読了したのに、もう夏ですね・・・(遠い目) 
では、「第三章 自由な社会の理論的展望」 の前半に参りましょう。長くなりそうなので、出来るだけカットします。

毎度おなじみ、くどいくらいの断り書きを。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

***

 しかしながら、自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない。断じて、何があろうと、人間は隷従をうけいれられない。 (p81)
第三章は、このような強い調子と断言で始まっている。

 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。 (p82)
ここで思い浮かべたのが、高村作品には「自分を抑えるために仕事をしている」キャラクターが多いということ。生きるための仕事には、憎悪がなければならない。 (『黄金を抱いて翔べ』文庫p21) と言い切った幸田さんや、自己の爆発を、かろうじて「刑事」という仕事に就いていることで抑えてきた合田さんや半田さんなど、枚挙に暇がない。

 可能と不可能、安直と困難、計画と完遂を隔てる労苦ついての明晰な見解のみが、充足を知らぬ欲望と根拠なき恐怖とを拭いさる。ほかならぬこの明晰な見解こそが、節制と勇気の徳を生むのであり、これらの徳をそなえていない生など、恥ずべき錯乱でしかない。あらゆる徳は、種類の別なく、人間の思考と物質との衝突から生じる邂逅のうちに源泉をみいだす。物質は人間にたいして宥恕を示すこともないかわりに、背信を働くこともないからだ。 (以下略) (p86)
この辺りは第二章で私が取り上げて部分と重複しているかな。

 思考はまず自己の流儀にのっとって理論上の問題を解決せねばならない。その後に解決策が適応されうる。これでは行動が本来的な意味で方法にもとづくとはいえない。方法に合致してはいるが、似て非なるものである。相違は根本にかかわる。方法を適応する者は、適応の瞬間に方法を構想する必要がないからである。 (p93)
平たく言えば、「見切り発車で決めて、実行に移されれば、後は野となれ山となれ」ということか?(苦笑) 議論が不十分なままに執行される某国(←日本と言えよ)の制度や法律に、後から欠陥や盲点が出てくるのも、それに当てはまるね。しかし「やってみないとわからない」んだよね、政治屋の思考レベルは・・・。(あえて「政治家」とは書かない)


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