あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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「ぼんはええ子やな」 (略) 「これからは悪い子になるんだ」 (p123)

2007-04-29 23:50:47 | 李歐 再読日記
2007年4月4日(水)の 『李歐』 (講談社文庫) は、守山工場 のp121から李歐 のp183まで読了。

今回のタイトル、守山さんと子供カズぼんの会話。その言葉どおり「悪い子」になったカズぼんは律儀なのか、確信犯なのか、無意識なのか、あるいは愚か者なのか(←こらこら)


【主な登場人物】

房子・・・『李歐』にしか登場しないキャラクター。名字は不明。アルバイトも辞め、大学も自主退学した一彰が、勤め始めたバーの経営者。


【さくら桜】

★頭上の桜は満開で、絶え間なく花びらを散らし、庭に響く音楽と一緒にひらひら、ぶるぶると震えながら一彰の目にピンク色のシミを作り続けた。 (p121)

★姫里を後にした日、守山は警察に行ったまま戻らず、無人の工場の庭には散り始めた桜が渦を巻いて降り注いでいた。早朝、最後に教会の板塀の穴からその庭を眺めたとき、一彰は自分が夢を見ていたような気がしたのだが、たしかにそこはもうずっと時間が止まったまま、桜が降り続いているばかりだったに違いなかった。 (中略) ほんとうは誰もいなかったのだと一彰は納得し、ああそうだ、ぼくはこの桜に化かされたのだと思った。 (p129)


【今回の名文・名台詞・名場面】
( )内は本当は北京語です。ご了承を。『わが手に拳銃を』 (講談社) では、リ・オウはかなり英語を喋ってましたが、『李歐』では出てきませんね~。

★母の男好きは生まれつきだ、おかげでその血を引いた自分も淫乱だ、などと思った。 (p134)

カズぼんの描写・その5。淫乱、ですか・・・苦笑いするしかないですね。

★その中間の、何もない虚空に一彰の身体は浮いており、依然重力はあったが、これまでより随分軽くなっていると感じ続けた末に、かねてからの予感通り、ついに自分の人生は変わったのだなという獏とした実感もやって来た。もっとも、その転機とやらは、自分の足元に転がった五つの射殺死体と不可分のものだったし、とうてい先々の明るさの片鱗も見えないものだったが、それでもなお、この重力の軽さはいくらか感動的だった。一彰はただ単純に慰められ、恐れも不安もどこかでせき止められてしまった分、ひどく冷静にもなれたのだった。 (p140)

カズぼんの描写・その6。「重力の軽さ」・・・母が死んだという事実を知ったこと、母の愛人がナイトゲートで暗殺されたことなどが、繋がっているんだろうか。

★常に、その場の状況に合わせて自分の満足の基準を引下げ、それなりに形ばかり納得し、受け入れる。そうして自分という人間はいつも、周囲の力で変形させられるのを最小限に留めることによって、結果的には、吉田一彰という混迷な固体には何の転回もなく、改善もない。 (p144)

★一彰は、人間にとって心の痛みというやつは自明の理ではないことをぼんやりと思い、そうだとしたら、いったい自分はどこまで行ったら後悔するのだろうと思ってみたりしたが、そんなふうにして自分について考えること自体に漠然と失望し、興味を失う形で考えるのをやめた。代わりになおも息だけをし続け、のたりと横たわる身体一つの、すえた汗の臭いがひどく生々しいと感じながら、いつの間にかまた寝入り、何かの夢を見てもがくように目覚めると、晴れない重力の霧がかかっている。そうして過ぎた時間に、一彰を感動させたのはただ一つ、食い物が絶えて蠕動運動をやめた胃腸の、驚くべき静けさのみだった。 (p145)

★首から上が何者であっても、その下の臓器も骨も筋肉も、とにかくばかばかしいほど厳粛だった。一彰は、今なおなにがしかの輪郭があり質量があるのは、たしかにこの胃袋や痛んでいる背骨の方だと思い、とりあえずこの自分の身体というやつだけは認めてもいいと思った。 (p146)

カズぼんの描写・その7と8と9。警察の事情聴取から解放され、大学を退学し、アルバイトも辞めた後のカズぼん。・・・気持ち悪い怖さとぬるい無気味さを感じます。
余談ながら、この辺りの文章を拒否反応を起こさずすんなりと受け入れ、抵抗なく読めた方なら、『晴子情歌』 『新リア王』 (どちらも新潮社) を読めるはず。

★「そう、それでよろしいんや。本心いうもんは、人に明かすもんやあらしません」 (p159)

カズぼんを探し当てた笹倉さん。ある頼みごとをし、ちょっとしたカズぼんのプライヴェートに突っ込んだ際の笹倉さんの台詞。食えませんな。

それではお待ちかね、李歐登場。
李歐の発言は、読んでいるには耐えられるんですけど、声に出すとのた打ち回るくらい、こっ恥ずかしいですね~。聞かされたカズぼんも、たまったもんじゃなかろう。「声に出すと、危険な磁力と魅力と魔力を感じる日本語(あるいは北京語)」、それが李歐だ(笑)
また李歐の行動も「何でそうなるの」とツッコミ入れたいくらい、唐突・・・。

★やがて、男は手を止めると、ペンキ屋が塗り具合を眺めるように、ちょっと身を引いて塗ったばかりの他人の唇を眺め、せっかく赤くした唇も男の顔には似合わないといったふうに溜め息をついた。自分でやっておきながら徒労だったと言わんばかりにけだるいその表情も、さして何も眼中に入っていそうにない、辺りを浮遊するような眼差しも、すうっと撫でるように動く眼球も、何もかもが精巧な作り物かと思う艶かしさだった。 (p172)

カズぼんの唇に、女から貰った口紅を塗った李歐(苦笑) ホンマに李歐の言動だけは分からんわ・・・。
李歐が初登場した時と同様、ここでも李歐の一挙手一投足に、言葉という技を駆使して、表現し尽くそうという高村さんの意図が感じられます。

★「あんた名前は」と一彰は尋ねてみた。男は顔を上げ、スプーンの手を止めたとたん、一転して艶やかな笑みを滲みださせて、「惚れた?」ときた。 (p174)

ホンマに分からんわ! と無用なツッコミしてみました。・・・今なら分かるけどな(←ホンマかいな)

★「名前を聞いただけだ」
「つまらん返事だな。惚れたから名前を教えろ、って言えよ。言ったら教えてやる」
「あんたの物言いって、めまいがする」
「お互いさまだ。国立大学の学生とこのぼくが出会うような国が、この地球上にあったなんて、想像もしなかった」
「大学はやめた。だから、ぼくが学生だったということは忘れてほしい」
「だったら、ぼくがナイトゲートにいたことも忘れてくれ」
「名前ぐらい、尋ねてもいいだろう」
「(惚れたって言えよ)」
 (p175)

この最後の李歐の言葉を読んだ時の衝撃度は、読んだ回数に関係なく、読むたびに大きいし、今もって新鮮ですね。「出た~!」そして「やったあ~!」という気分を味わいます。
また高村さんは、どのキャラクターにどんな発言をさせればふさわしいのか、いやというほどご存知だ。こんな台詞、李歐にしか言えないし、李歐にしか合わないし、李歐にしかふさわしくない。
私は読みませんが、もしも一般向けの恋愛小説や、某男性向け商業ジャンルの小説や、某女性向け商業ジャンルの小説で、こんな台詞が出てきたら、それを発言するにふさわしいキャラクターなのか、失望しつつも(笑)どんなキャラクターなのか知りたい気もしますが・・・出てこないかも知れませんね。きっとこの作品をすぐさま連想させるだろうし、見事なまでに作家さんは使用できないでしょう。

★そして男が中国人なら、一から十まで感覚が違っていて当然だったが、こんなにも目まぐるしく表情が変わり、物言いが入れ替わると、感覚もくそもない。こいつは生身の上にもう一枚、華やかな色の幕がかかっているに違いないと思いながら、一彰は眼前の男一人に目を奪われ、目を奪われている自分に違和感を覚え続けた。いきなり他人の唇に伸びてくる男の手も、こうして聞こえてくる声も、いったいこれは人間の手か、人間の声かと疑ってみた直後に、もう身じろぎも出来ない。言葉も出ない。目を奪われ、見開いてただ相手を凝視している自分に驚き続けた。 (p175)

カズぼんから見た李歐。もうこの「蛇に睨まれた蛙」のような状態だけで、次のカズぼんの台詞↓が出てくるのも、むべなるかな。

★「ああ、惚れた。惚れたから、名前ぐらい教えろ」と一彰は言ってみた。
すると男は、今度は一転して興ざめするような醒めた目をよこしてこう応えた。「あんた、これが取引だというのは分かってるだろうな」、と。
一彰は首を横に振った。
「この世で、他人の口から身を守る方法は二つある。一つは、殺す。もう一つは、相身互いの共存だ。ぼくはあんたに名前を教えることで、それなりの代償を払う。あんたも、ぼくの名前を知ることで応分の代償を払うことになる。そういうことさ」
 (p176)

「相身互い(あいみたがい)」といえば、『レディ・ジョーカー』 (毎日新聞社) (下巻p348)で、加納さんが久保っちと対面した時に発した台詞を思い出してしまいますね~。しかし李歐とカズぼんの方が、より強固な繋がりになっていますね。

さて、しつこいくらい「名前」にこだわる李歐について、ちょっとした推測とラスト近くのネタバレをしてみてもいいですか? いやな方は、以下の隠し字は読まないで下さいね。
 水樹和佳(子)さんの『イティハーサ』を読まれた方ならご存知でしょうが、母親のお腹にいる赤子に、母親は「真名」を密かに名付け、出産したら改めて名前をつける(「仮名」)というエピソードがありました。
李歐は複数の偽名を利用します。それを「仮名」とし、本名を「真名」としてみましょう。本名の「李歐」を知っているのは、読み手を除けば、吉田一彰ただ一人。
一彰にしか本名を明かさなかったという事実は、とてつもなく重大で重要事項。それがここの台詞「代償」で現れていますし、ラスト近くの再会した時の李歐の台詞 「ぼくは李歐に戻った」 (p518) でも分かるでしょう。李歐として一彰に出会い、別れ、そして再会したということ。
また、一彰が出会い、別れ、再会した男は「李歐」であるし、複数の偽名を使い分けていた頃の李歐では、決してない。信じ、ついて行こうとし、迎えに来てくれる男は、「李歐」という名の男。だからあれほどの年月を経ても、揺らぐことはなかった。「李歐」の名を知った時点で、その名前だけでなく、その命も預かったも同然だから。 
 
・・・あらら、何か上手く表現できなかったなあ。すみません。

★「このぼくが知りたいんだ。あんたの理由はどうでもいい」と応えた。
「それが本当なら素敵だな」というのが、男の返事だった。「でも、嘘なら嘘で、その嘘、突き通してくれ。よし、友だちになろう」
 (p176)

名前を教えることで、「友だち」という関係の第一歩。カズぼんにしてみれば、李歐の屁理屈のような理由なんて無関係だから、そう言ったまでだろう。ところがカズぼんの返答で、李歐は彼を「頑固で一筋縄でいかない、一本筋の通った男」・・・と思ったんではなかろうか。「本当なら素敵」「嘘なら嘘で突き通してくれ」の発言で、納得したように思える。

★李歐という歓喜。暴力や欲望の歓喜。友だちという歓喜。常軌を逸していく歓喜。 (p180)

ちょっと対比するには早いかもしれませんが、『李歐』では、「歓喜=李歐」なのに対し、『わが手に拳銃を』では、「狂気=リ・オウ」のように感じられました。(特にラストシーンで) 『わが手に拳銃を』 のラストでは、このまま破滅してもおかしくない雰囲気も、部分的に感じられなくはなかったんですが、『李歐』 のラストでは、破滅という言葉も雰囲気も皆無でした。もちろんそこに至るまでは、文字通り波瀾万丈、いろんな出来事がありましたけどね・・・。

★一彰はそれ以上深く考えるのを放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない、突発的な歓喜の発熱だと思ったからだ。熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。 (p180~181)

カズぼんの描写・その10。李歐という歓喜に巡りあっても、客観的に、ひいているところはひいているし、冷めているところは冷めている。若いなりに老成している(笑) 浮かれるということを未だ知らないカズぼんがそれを知るのは、もっと後のことです。

★追うのも追われるのも、殺すのも殺されるのも、ゲームに近い無機的な顛末だといったここ二ヵ月の学習効果のほかに、いともさりげなく「二、三日で戻る」と言い残した李歐の一言が唯、それほどの威力を持っていたということだ。李歐は、その言葉通り数日で守山工場に戻り、その暁には、自分は一儲けの計画を李歐から聞かされているに違いないと一彰は思った。金儲け? そんなことはどうでもよかった。感嘆と歓喜さえ溢れ続けておれば。 (p182~183)

李歐の発する言葉は魔法のよう。無気力に生きてきたカズぼんに、生気を吹き込んだんだから。



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