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斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

和の精神について

2024年10月20日 | ザ・日本人の気持ち

さて、今回は、自分が長年考えてきた「和」の精神とは何か?について書きたい。

 

10月11日。今年のノーベル平和賞に日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が選ばれた。受賞理由について「核兵器のない世界を実現するために努力し、核兵器が二度と使われてはならないと証言を行ってきた」と評価している。

 

日本被団協は、広島や長崎で被爆した人たちの全国組織で、およそ70年にわたり被爆の実相を伝え、核兵器廃絶を世界に訴える活動を続けてきました。

 

日本のノーベル平和賞受賞は、非核三原則を表明した佐藤栄作 元総理大臣が1974年に受賞して以来、50年ぶり、2度目です。

《NHK NEWS WEB抜粋》

元記事↓

 

ノーベル平和賞 日本被団協きょう会見 核廃絶など改めて訴えへ | NHK

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“和をもって貴しとなす”

 

この言葉が表すのは、「いさかいを起こさないのが良い。」という事。「和」とは「平和」。「戦争を起こしてはならない。」という聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる。

 

その時代から日本では「平和」について考えられてきた。しかし実際には、更に昔から「平和」が意識されてきた。

 

日本は太古の昔から、国土全体危機に瀕した事は2度しか無かった。一度目は元寇。しかしそれは、壱岐、対馬と九州北部の一部だけであり、日本全土ではない。結果的に失敗に終わった。もう一つの侵攻は第二次世界大戦の米軍による爆撃。原爆の投下。これは日本国土が焦土と化した。それ以外、日本は外敵に晒される事は無かった。この数奇な運命は、世界中の如何なる地域にも見られない。

 

世界中の殆どの島国は、西欧列強の植民地支配に遭い、列強である英国自体が大陸から近い為、太古の昔から侵略されていた。それだけでなく、ヴァイキングという、海からの侵略もあった。大陸にある国は、言うまでもなく、陸続きの為、有事やトラブル続きであった。

 

日本ほど外寇に晒されない平和な国は、他を探してもどこにも存在しない。

 

長い日本の歴史で戦ばっかじゃないか?とも言われるが、日本の戦は、戦場で兵士が戦う事が多かった為、中世ヨーロッパや、中国、中東ほど凄惨な戦争ではなかったと言われる。現地調達。つまり掠奪といっても、現地の農民や漁民が敵味方関係なく自ら食糧を兵士たちに提供していたという。絵に描いたような掠奪は、倭族同士では起こらなかったようだ。

 

倭国の歴史上最も戦争が酷かった時代は、信長、秀吉の2代ぐらいの期間であった。戦場は凄惨だが、戦争に関係のない庶民は自由に暮らしていたといわれる。日本の戦国時代というのは、世界の戦争と比べると、小競り合い程度だと外国人らから言われる。中国やヨーロッパには城塞都市という、都市を壁で包囲した都市が存在するが、日本にはどこを探してもそれが存在しない。それだけ大陸の戦争というのは、外寇が酷かった。日本人は、街に住む一般人を襲撃するという事は歴史上無かった。敵の城を落とす事が目的であって、一般人を襲撃しようという発想は無かったらしい。

 

もう一つ特殊だと言われるのが、川のすぐ近くに定住するという事。外国人の目から見れば、これは不思議な事らしい。川蔦いに敵が船に乗って侵攻する為、近くに定住村などがあると襲撃される危険性が高いので、川の近くには定住しないのが世界の常識だという。

 

それで日本は、世界から「平和ボケ」だの「惑星」だの「日本の常識世界の非常識」だの言われる。

 

 

以前、自分の記事で、「日本は島国で、周辺の大陸や島嶼からの寄せ集め、烏合の衆。元はバラバラだった。それを纏めるたった一つの共通するものが“日本語”と書いたが、それは、大いなると迄は行かなくとも、勘違いであった。

 

日本(倭国)の外国人(非倭族)率については、鎖国直前の江戸初期に於いて、自己が倭人ではないと自認する人が僅か1%にも満たなかったと書かれていた。*但し、琉球王国と蝦夷地を除く。現在と比べると、本当に少ない割合だ。

日本は周辺の大陸や島嶼からの寄せ集めでバラバラだった時代は、飛鳥時代ぐらい迄であった。その時代は、寄せ集めの血統的にバラバラの部族が紛争していた。江戸時代にもなって、それは無かったようだ。

 

過去の自分の記事で、日本人はオールドカマー、ニューカマーなど、いつの時代にも人が渡航して来ていたと書いた。そして、江戸時代の鎖国までは、一日あたりなん人というレベルで常に渡来はあったと書いた。

 

大まかに分けると。

 

アンシェントカマー(太古)

氷河期→石器時代→縄文時代

 

 

オールドカマー(古代)

弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代→平安時代

*奈良・平安は古代か中世か意見が分かれるが、大和朝廷が絶対権力を握っていた時代までを古代とする説が多い。

 

 

ミドルカマー(中世)

鎌倉時代→(南北朝時代)→室町時代→安土桃山時代→江戸時代、鎖国まで

 

 

ニューカマー

開国・明治維新→大正→昭和、戦前まで

 

 

戦後カマー

昭和戦後→昭和が終わるまで

 

 

近現代カマー

平成→令和

 

 

と書いた。

 

しかし、新しい研究結果の文献をネットなどで読むと、日本人の大半は、アンシェント(太古)カマーである。その次に多いのがオールド(古代)カマーで、鎌倉幕府が政権を握るようになってから、大陸や島嶼など外部からは滅多に渡航して来なくなった。遣唐使を辞めてから、大陸や半島や島嶼からの移住者が激減した。日本に移住する理由が無くなった為である。

 

中世、ミドルカマーの時代では、幕府が許可した中国や朝鮮半島から呼び寄せた陶芸技術者か、幕府が許可した貿易商人などは、幕府が定めた土地に居住する事は許されたが、倭人と血を混ぜる事は許されなかった。彼らは国に帰ってしまうか、独身のまま生涯を終えるかしている。

 

もう一つのケースは、大陸などから日本列島に漂着してしまったというのがある。*カナダ人🏹などは、これに該当する。中世倭国は入国管理がガバガバだったから、カナダ人🏹が倭国に入り込んでしまう事も可能だった。

《カナダ人🏹: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、カナダ集落(大元集落)に定住させられている人民の祖先だと考えられる。》

 

学校の日本史は、日本人の由来は縄文人と弥生人だけだと教えるが、新しい文献によれば、大まか合っている。縄文人に該当するのはアンシェントカマー(太古渡航者)。弥生人に該当するのはオールドカマー(古代渡航者)。縄文人も弥生人も単一民族では無かったが、これらを象徴して、縄文、弥生と呼んでいるのかも知れない。

 

日本人は、日本列島の周辺地域から寄せ集まったアンシェントカマーが長い年月を掛けて混ざり合ったグループと、その後の時代、日本に渡航したオールドカマーとが混ざって現在の日本人が遺伝子的に確立した。そして海に護られ、鎌倉幕府成立以降殆ど外から部外者が入って来る事なく純血性が保たれた。「民族」定義は民俗学者も頭を痛める程難しいが、考えようによっては日本は単一民族である。

 

長い年月を掛けて混ざり合い、考え方、生き方が同質、均質になった平和な環境で生きる人民は、平和的になる。しかし、日本人も人間だ。人間としての本能も原始のままである。他者への「警戒心」という本能も、原始時代から殆ど変わっていない。

 

日本人の大半は、アンシェントカマー(太古の渡航者)である。オールドカマー(古代渡航者)との混血も多少あるが、縄文人と言われる太古の人間の血の方が濃い人間の方が圧倒的に多数である。

 

クール・ジャパンと言われる要素のひとつが、日本人の「目つきの悪さ」これは本当で、日本人は、他の東洋人にはない目つきの悪さがある。

東洋人(主に北東アジア人)は切れ長な目が多いが、日本人の目つきは特殊であるという。西洋人から見ると、「サムライ」のようであり「鷹」のようであるという。日本人の目は鋭く、聡明に見えるという。日本人は平和ボケでおっとりして、ただおとなしく見えるが、目つきとのギャップにとても驚くという。日本人女性が西洋人にモテるのは、この目つきの悪さにあると言う人もいる。

 

この、他の東洋人とは違う「目つきの悪さ」も説明がつく。多くのアジア人や、西洋人の目には「蒙古襞」がある。内眼角贅皮(ナイガンカクゼイヒ)とも言う。上まぶたが目頭を覆う部分にある皮膚のひだ。蒙古ひだの形成は、寒冷な気候的要素の、遺伝的要素が原因だと言われる。つまり寒い地域出身の祖先を持つ民族に多く出現する。西洋人の丸っこい目の形は、目頭の蒙古襞に由来する。北東アジア人は、目尻は吊り上がり、切れ長だが、西洋人同様、目頭が丸っこい人が多い。しかし日本人はこの蒙古襞が無い人の方が圧倒的に多く、ある人の方が珍しい。

 

蒙古襞がない人は、キリッとした目の印象になる。日本人が、他のアジア人よりも大人っぽく見えるのは、考え方や生き方の大人っぽさもあるだろうが、このキリッとした印象によるものもある。

 

蒙古襞が無い原因も、縄文人(太古の人類)の要素が濃い事も関係していると言われる。本土の日本人の他に、アイヌ民族、沖縄と、台湾の先住民アミ族、中南米の先住民、北米の一部のネイティブアメリカン、北センチネル島の先住民、アマンダン諸島の先住民アマンダン人、オーストラリアの先住民アボリジニなどの、先住民という人たちと、バスク人、ケルト人には蒙古襞がない。ネイティブアメリカンの目つきの悪さも、米国白人の間で言及されている。

 

 

縄文時代は、戦乱の無い平和な時代が1万5000年続いた。現在では縄文時代の研究も進んで色々分かってきた。縄文時代は稲作もなく、鉄器などの武器も無かった。身分や格差も無かったし、主権や土地所有者も、国民という概念も無かった。

気候も温暖で、飢餓なども無かったという。更に分かった事は、縄文人は定住していた。

 

縄文人の民族性について非常に気になる。これはまゆつばな話だが、これもYouTube動画から得た内容。ある画家がアフリカの集落に、絵の修行に行った時の話。その集落のシャーマンが、生前、日本の縄文人をやっていたという人(霊)と霊通した。

 

覚えている限りを書く。

縄文人というのは、第一に、何でもキッチリと線引きをする民族である。個人主義が発達した社会を築いていた。家族や血縁者を何よりも大切にし、他人に対して忖度などをせず、周りを気にせず自由に生きていたという。

 

上下関係という概念が無かった。喋る事を好み、納得するまで徹底的に互いに話し合う為、戦乱に至る前に解決させていた。集団で動くという事が少なく、個と個の勝負であった。口論も殴り合いの喧嘩もよくする。しかし戦乱に発展する前に解決させていた。とてもタフで、孤独耐性に優れていた。協調性は、あまり高く無かったが、自他の線引きがキッチリ出来ていたので、足並みを揃えない人を非難する事が少なかった。協調性は低いが、喜びをシェアする事を良しとする。ノリだけは良かったようだ。

 

縄文人は何よりも「責任」というものを重要視していた。個人の責任を尊重し、他人に干渉する事を好まなかった。その割案外フレンドリーであった。しかし内心、他人に対する警戒心が強かったという。縄文人は、自分のテリトリー侵害される事を嫌った。

 

親は、子供に対して、歩けるようになり、一通り喋れるようになったら、責任を与え、一人の人間として扱った。その為、自分の頭でモノを考える事を幼少時から強いられるので、早く自立し、大人と対等に話をする。全体が一丸となって助け合いをするというより、人脈ネットワークが充実してしていた為、困った人が助かる仕組みになっていた。

 

らしい….

 

国がないって事は税金も納めなくて良いんでしょ?いいなぁ…

 

まぁ。実際どうだったか知らんけど、現在の日本人に共通する所もあると感じた。現在日本と社会構造が違うから、違う部分も多い。

 

線引きと、話し合いを好む事、他人に干渉しない事、家族を大切にする事、孤独耐性が強い事、「責任」というものを重要視している事、他人に対する警戒心の強さなどは、現代日本人そっくりであると思う。

 

やはり日本人は元々、クール・ジャパンである。

 

戦争を回避する重要な手掛かりが縄文人の生き方の中に見出す事が出来るのだろうか?

縄文時代は土地所有の概念はないし、国や主権などは無いし、喧嘩するにしても個人vs個人では戦争にはならない。では、氏族vs氏族になればどうか?口論や殴り合いで解決出来たのであろうか?鉄器でなく石器でも武器になる。

 

気候が温暖な時期だったというのも、戦争に発展する理由を作らないと思う。気候が温暖という事は食糧の奪い合いをすることもない。分け与えることもない。気候の良さは、個人主義でもいける。互いに干渉し合う事もない。

 

もし気候が寒冷になったり厳しくなってきたら、生きる為に一丸となって協調しなければならなくなる。そうなると、互いの対人距離が縮まり、人口密度も濃くなる。互いに干渉するようになり、諍いが増え、食糧の奪い合いが始まる。が、分け与えるというのも始まる。一丸となった助け合いが始まり、互いのテリトリーの侵害も始まる。

 

自分なりに考えた戦争が起こらない単純な結論。縄文時代にはそもそも国というもの自体が存在しなかった。

 

もう一つは「個人主義」が発達した社会で自給自足。集落などの団体を作っていなかった為、氏族vs氏族の抗争に発展する事はあっても、村vs村という構図が無い為、事が大きくならず、戦争まで至らなかった。

 

部族ほど大きくならなかったのも、徹底した個人主義によるものなのか?そこらへんは謎である。

ひとつ思うのは、縄文人は他に干渉しない民族性の為、他人に関心がない。大勢の血の繋がらない人たちを纏めて、連合を作ろうという発想は無かったのかも知れない。

 

せいぜい、氏族vs氏族の殺し合い止まりだったのかも知れない。これ以上エスカレートのしようがない。

 

経済学的な要因もあると思う。自給自足、個人主義経済。その上人口密度も非常に希薄だ。経済的に他と軋轢にならない事も戦争の火種を作らない。

 

自分は経済学には疎いので詳しい事は言えない。

 

家族や血縁と、他人という線引きをキッチリしていたのだろうと思う。他人とはトラブルがつきもの。下らない事で何かと喧嘩を売られてたのかも知れない。

 

日本人の根底にある「隣人に対する恐怖心」はこの頃から始まってたのかも知れない。隣人や他人に対する非常に強い警戒心ゆえに、隣人に対し、それと真逆の態度をとっていたのかも知れない。縄文人は、フレンドリーだったというが、これは「私は貴方に対して敵意はありません」という意味の態度なのかも知れない。

 

その頃から我々日本人は「和」を意識した行動を心掛けていたのかも。

 

物事にキッチリ線引きをするのは、曖昧にしておくと後々トラブルに発展する危険性があり、トラブル回避の為だとも考えられる。

 

納得するまで互いに話し合うというのは、争いを回避する最善の策。

 

喜びをシェアする事を善しとする。竪穴式住居の近隣住民と食事会とかしていたのでしょうかね。現代日本人と同じ事をやってたのかも知れない。

 

ノリが良い。パリピか?!

 

責任のなすりつけ合いは戦争の火種になる。自分の責任で生きることは争いの芽を摘む。そう思う。

 

他人のテリトリーを尊重し、干渉しない。この場合の干渉は、余計な口出しをしないという事でしょうか。干渉は、縄張り侵犯。縄張りを闇雲に侵犯しない事はトラブルの防止になる。

 

子供に責任を与え、自立させる。人格の肯定。子供の自信や自己肯定感、責任感に繋がり、その後の人生に好い影響を与える。

 

人脈ネットワークが充実してしていた為、困った人が助かる仕組みになっていた。程よい距離感での助け合い。

 

縄文人は、行動原理が「和」。トラブルが起こる事前提に物事を考えて行動している。この考えの礎となるものが、隣人や他人への過剰なまでの警戒心。トラブルが起こると、殺されると考え、最悪、自分の一族が取り返しのつかない事になると考えるのだろうか。ここまで徹底した「和」にこだわるというのは、何があってこうなったのだろう?

 

当時は国がないという事は言うまでもなく、警察もない。自分の身は自分で護らなくてはならない。

 

という事は、勝ち目がない人と闇雲に闘って殺されるよりも初めから勝ち目の無い相手とは闘わないというのが日本人的な考え方だろう。「逃げる勝ち」というのも「和」の精神。

 

初めからトラブルの原因を排除しようという事で、縄文人たちはこのようになったと考えられる。

 

縄文時代の平和は、漫然と与えられた数奇な平和ではない。縄文人は自ら平和を作り出していたのではないかと考えられる。

 

現在日本人の行動原理も「和」。縄文人同様、トラブルが起こる事前提に物事を考えて行動している。日本人の精神の根本には「他人への警戒心」というものがあるように思え、これは縄文の昔から脈脈と受け継がれている。

 

現代日本人の、他人への配慮も警戒心から来ているし、礼儀正しさも、警戒心から来ている。縄文人と形は違えど、根本は同じである。

 

トラブルや犯罪などに巻き込まれることを未然に防止する為に、フレンドリーになる。これが「和」の精神の根本だと考えた。

 

これは外国人には千年経っても万年経っても理解出来ないだろうな。

 

西洋人には人に対する警戒心というものが存在しない。他人に干渉し、自分が殺したければ殺し、奪いたければ奪う。フレンドリーという概念もなく、人を簡単に蹴落とす。そして人を利用する事しか考えない。日本人とは根本的に違う意味での個人主義を持つ。個人主義ではなく、利己主義。それを象徴するのが「銃社会」。拳銃とは、人から掠奪する為の文明の利器として開発された。西欧列強や常任理事国の戦争犯罪を見ていると、こう思わざるを得ない。

 

YouTube動画で、しかもアフリカのシャーマンが縄文霊と交流して得た情報というまゆつばな話なので、実際どうだったのか知りません。でもこれが本当でも嘘でも、凄いことである。

 

自分が縄文系の家系である事に誇りが持てた。私の先代は、日本の大地に元々住んでいた。この日本という天地は私のものであるという歓びが込み上がる。

 

世界には、これを羨ましいと思う人がとてもたくさん存在します。

 

今年のノーベル平和賞の日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、長年、被爆を訴えてきた。

日本は外寇を知らない平和な国だったが、世界唯一の被爆国となってしまった。

 

被爆体験を訴えることによって、被爆の現実が知れ渡り、ノーベル賞によって世界に影響が出て、核兵器廃絶へ向かう事を切に願う。

 

日本人は縄文人同様、自らの手で世界平和を築いて行くべきだと思った。

 

長文のご精読ありがとうございました😭

 

アフリカのシャーマンの話を聞いたという画家の動画は、探しても見当たらなくなりました。消してしまったのでしょうか?

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アリマンタシォン・クシュタールについて

2024年09月22日 | ザ・日本人の気持ち

アリマンタシォン・クシュタール(Alimentation Couche-Tard)は、もみじケベック州に本社を置き、世界29カ国・地域でコンビニエンスストアやガソリンスタンドを展開するグローバル企業。

 

セブン&アイHDは8/19アリマンタシォン・クシュタールから初期的な買収提案を受けた。

 

 

セブン&アイの、アリマンタシォン・クシュタールの買収提案への返答は「買収提案に賛同できない」であった。また、秘密保持契約の締結も拒否。

同社の価値を著しく過小評価している他、規制面での課題について適切に考慮されていないと指摘。一方で、同社に最善をもたらす提案についても真摯に検討する用意があるとした。

 

セブン&アイほどの規模の日本企業が外国企業に買収された例は無い。

 

「もし買収が成功すれば、日本はビジネスのために開かれている、外国からの投資を歓迎していると、示すことになる」とも言われる。

 

そもそも今回は法的拘束力のない「初期段階」の提案にすぎず、セブン&アイ幹部は、この拒否返答をもって買収提案を取り下げることはないだろう。当然、複数のシナリオを持っているはずだ。と警戒する。その上で「次はどのタイミングで投げ返してくるのか注目だ」という。

 

アリマンタシォン・クシュタールは再度、買収提案を掛けている。(服属を求める書簡を送った)

 

《抜粋:時事通信社、BBC NEWS JAPAN、ツギノジダイ》

 

アリマンタシォン・クシュタールについての検索結果は、株価や収益や時価総額など経済的な内容が多く、どういう会社なのか?どういうものを扱っているのかなどの、経済と関係のない情報はあまり出てこない。

 

この企業は、「クシュタール」や「サークルK」(2003年に買収)などのブランドを持ち、米国最大の独立系コンビニエンスストアの1つであり、もみじ国🍁、スカンジナビア、バルト三国では道路輸送燃料小売でもリーダー的な立場にある。欧州だけでなく、香港でも事業展開しており、グループ全体で15万人以上の雇用がある。

《抜粋:ツギノジダイ》

 

 

この企業は、ガソリンスタンドのシェル石油も傘下に置く。

 

もみじ国に留学経験のある人による記事を読む限りでは、同社は買収提案の件に関して「両社の顧客、従業員、フランチャイズ店、株主に利益をもたらす相互に同意できる取引に達すること」にフォーカスしていると述べているという。

 

もみじバンクーバーに留学していたその筆者によると“クシュタール”は聞き覚えのない名前である。バンクーバーにはクシュタールの子会社のサークルKが数店あるものの、クシュタールは見かけません。との事。それもそのはず。クシュタールはケベック州に本社を置き、もみじ国内では同州を中心に展開されている。街中には世界に約8万5千店も店舗を置くセブンイレブンが立ち並んでいる。

 

・もみじ国の、日本とは異なるコンビニの役割

 

⭐︎セブンイレブン

日本のセブンイレブンは日常生活に必要な物が簡単に手に入る場所として利用されている。

 

もみじではガソリンスタンドと併設してるセブンイレブンが多くドライブの休憩時に立ち寄る場所として利用されている。もみじのコンビニには酒類も惣菜も衣類も置いてない。サンドイッチやホットドックやチキンなどのような軽食が並んでいる程度。あと、エンジンオイルも置いてあり、運転中の日差しを防ぐサングラスも多数揃えてある。飲み物の品揃えも充実している。眠気覚ましになるエナジードリンクの品揃えが充実しており、日本では5種類しか扱いのないエナジードリンク“モンスター”が20種類程もあるらしい。

 

⭐︎サークルK

バンクーバー市内にあるサークルKはガソリンスタンド併設店はなく、街中の店舗しかないらしい。セブンイレブンとは違い、店内で作られた温かいハンバーガーとピザがある。それ以外の品揃えはセブンイレブンとほとんど変わりないらしい。

 

クシュタールが買収した際に「日本風」のコンビニ文化が失われるとの懸念も上がっている一方で、日本が作り上げた日本モデルを世界に輸出できるチャンスになるかも知れないという前向きな声も上がっているらしい。

 

《抜粋:新s 朝日・日経・読売3社共同プロジェクト 学生は言いたい!学生がつくる、学生のための News Debate Project 上智大学 松本花音》

 

もみじ国のコンビニは、日本の感覚で言えばまるで「売店」

 

知らんけど。

 

それに比べて日本のコンビニエンスは完成度が高い。

 

クシュタールの店舗についてはこう書かれているものがあった。

 

北欧でひときわ目立っていたのがサークルK(アリマンタシォン・クシュタール)

電気自動車が主流になる現地で、急スピードでガソリンスタンドを、EV用の充電ステーションに猛烈に切り替え、待ち時間にフードやドリンクで稼ぎ出す。店舗デザインも小綺麗。

《抜粋:NEWS PICKS 後藤 直義氏コメント》

 

 

アリマンタシォン・クシュタールとはフランス語で

 

Alimentation(食品)

Couche-Tard(夜更かし)

 

だからロゴのキャラクターが梟

 

1980年にもみじ🍁ケベック州郊外ラヴァルでクシュタールを開店し、企業買収を重ねて北米有数のコンビニエンスストア網を確立した。

 

《ツギノジダイ Q4-24 ACT Investor Presentation》

 

 


《Wikipedia記事》

 

Wikipediaによると、2021年にカルフールというフランスのコンビニを買収することで合意したが、政府が拒否権を行使し、現在は友好的業務提携をしている。

 

Wikipediaの、アリマンタシォン・クシュタールの経緯はどこか既視感のある画だ(←そう感じるのは自分だけかも知れない。)世界史の教科書や参考資料にも、こういう存在(帝国)が出てくる。

 

買収を繰り返し、多数の企業を服属させ(傘下にする)膨大化していく。

 

領土を拡大し、人を取り込む、とある大帝国と酷似しているようにも見えた。この帝国は、領民に対し、屠殺に関する法律を守る事と、納税さえしていれば良しとする帝国である。

 

アリマンタシォン・クシュタールは、企業を服属させるが殆どのブランド名を継続させている。

クシュタール名称で事業をやっているのはもみじ国ケベック州だけである。

 

この企業は、降伏する者には手厚く扱い、抵抗する者を徹底的にぶっ潰す企業かも知れない。あの帝国のように。服属する企業がここまで多いという事はそういうことなのかという懸念もある。

 

この企業は、買収後、どうするのだろう?セブン&アイの上に君臨だけして…..“君臨すれども統治せず”の政策をとるのであろうか?

 

それとも、日産のように君臨して、部長以上の役職のクビ全部切って統治をするのだろうか?そしてセブンイレブンに関係する会社、例えば工場なども全て買収してしまうのだろうか?

 

 

買収で成長を駆け上がってきた会社だ。戦争を勝ち抜いて来た。と言っても過言ではない。

 

 

以下は、7&iが買収されることについて前向きな意見だけを抜粋する。悲観的な意見や、守り体勢の意見や人のせいにする意見が多く見られる中で希少だ。

 

「セブン&アイにとってみれば、買収提案は決して悪いものではないと思います。

国際競争力を付けるためにも、大きい所と組むことは決して悪いことではないと思います。」

《Yahoo記事へのコメント欄:qbi ******》

 

「企業が成長できるなら買収をネガティブに捉えるべきではないかも知れません。」

《Yahoo記事へのコメント欄:unknown 》

 

「落ち目のセブンを買収して改革させるという点については確かに「そうでもない」と言える」

《Yahoo記事へのコメント欄:aou ******》

 

 

クシュタールによる7&i買収についての自分の率直な感想は(←きちっとした意見にはならない)

 

「何故7&i が、同等な力(北米に於いて)のクシュタールなんかに服従せんならんのじゃー!!!」

 

と思う。

 

なんでカナダなんかに隷属せんならんの%#*$<}€♭←-◇∂!?

 

と思う。

 

充分後ろ向きな感想ですよね。でもこう思う日本人が一番多いんじゃないかなー。

 

 

しかし7&i とアリマンタシォン・クシュタール(ATC)との力(北米に留まらず、全世界)の差は歴然。7&iはATCには及ばない。

 

7&iは急成長するグローバル企業から見れば100%買収出来るサイズである。

 

経済は、弱肉強食である。

 

 

 

13世紀、ユーラシア大陸では成吉思汗が築いた大モンゴル帝国が大陸を跨ぐように出現した。帝国支配により東西の世界を結ぶ交易路の治安が一気に確保されたことにより、文化交流が盛んとなり、中国、宋の時代に生まれた三大文明、火薬、羅針盤、印刷術などがヨーロッパへ伝わっていく。

 

モンゴル帝国の出現は、グローバル化のプロローグとも評される。所謂、“掻き回す存在”であった。

 

世界を掻き回す存在は、文化交流を促し、支配下の地域同士を繋げ、支配下の人民の人脈を繋げ、互いの発展に良い影響を及ぼし、支配地域が今まで参入する機会がなかった市場に参入する可能性を与える。

 

アリマンタシォン・クシュタールも“掻き回す存在”だと思う。

 

このように大規模に世界を掻き回す存在は数百年に一度ぐらい現れる。アリマンタシォン・クシュタールはそのひとつだと思う。

 

日本のような孤立した文明と言われる地域も、掻き回される事によって、世界基準に参入出来るかもしれない。海外企業の商習慣を習得する機会が得られる。スキルに留まらず、彼らの考え方、生き方にも触れる機会が得られる。日本という世界から孤立した狭いシステムから脱却できる可能性を見出すことが出来ると信じるべきだと思う。

 

“カナダは天敵”とか言ってる場合ではない。

 

アリマンタシォン・クシュタール(ACT)は傘下となった企業やその企業の財産を、一族で均等に分配。傘下となった企業の分だけ、ACTは潤う事になる。傘下となった企業の人たちを上手に働かせると思う。

 

ヤフー検索で、もみじ国にあるクシュタール店舗の写真サイトを見つけた↓

 

100点のアリマンタシォン・クシュタールの写真と高解像度写真 - Getty Images

 

店員がタコスの具を巻いてくれるようだ。

 

EV用の充電ステーションもあり、菓子も売っているし、休憩スペースもある。

 

長文のご精読ありがとうございます。

 

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移民まみれのカオス(会社)

2024年07月06日 | ザ・日本人の気持ち

自分が今現在働いている職場は、会社というよりカオス屋といった方が適切なのではないかと思います。

 

自分の現在働いている所は国内の食肉会社の子会社。ここには全体の約20%が外国人従業員である。その中でも技能実習生といわれる人が多数を占めている。彼らは、ベトナム人、中国人、インドネシア人、マレーシア人、タイ人、ミャンマー人その他である。彼らは英語を喋れるが、日本語を全く喋れない状態で日本に渡航した。そして彼らは決して高度人材ではない底辺人材である。そして、不法移民並みに質が悪い。例えるなら、大量のクルド人と一緒に出勤し、そこらへんにクルド人がいるのと同じである。これが原因で辞める日本人が多数いる為、とても問題になっている。技能実習生の他にも日雇い外国人も働いている。

 

無法地帯

 

日本語通じない為、社員が注意しても彼らは何で怒られてるのか理解しない。

 

そして日本人はトイレや食堂や更衣室などのあらゆる所で生存競争に負けている。横入り、当たり前。そしてBBAと口論、トラブル多発。実習生に謝罪した日本人のパートが実習生に殴られるなどの暴力事件も多発。調理室にあるバットや四角い金番重などの金物は、定期的に数えると減っている。社内共用スリッパも同じ。エレベーターのボタン🔘の周りにねじ込んであった金属も盗まれていた。会社のあちこちにあるグレーチングという金物も盗まれていた事が多かった。その犯人は全て実習生だった。

 

食堂のテーブルにスマホを置いて席を立ったら秒で無くなっていたと総務に嘆く日本人パートBBAが多数いる。

 

入社当初から懸念していた皮膚感覚は的中していた。外国人が近づいてくると殴られそうで怖いのは入社当初から変わらない。外国人の身体に触れただけでとても面倒臭い事になりそう。因縁付けられそう。この記事を読んで、わたくしカルガリーを差別主義者と決めつけるのは自由だが、これは私の偽らざる皮膚感覚である。実習生はおんなじアジアの仲間。アジアという地域から日本にやって来たおんなじアジア人ということになる。しかし東南アジア人は日本人や中韓などのような平たい顔族とは人種が違う。むしろインド人や白人に似た顔をしている。東南アジア出身でも平たい顔族に似た人もいる。目つきも怖いし、全てにおいて恐ろしい。異人種というだけで恐ろしく思えるのだろうか?人種が違うと身に危険が及ぶかも知れないと思うのは日本人のサガ。しかしそれは日本人だけではなく世界中の人が、異人種に違和感を覚えるのだろうか?

 

 

海外移住して、幸せそうに暮らす日本人に対しても非常に複雑な気持ちになりました。

 

自分だったらこんな事は出来ない。自分にはそんな勇気とか経済力とかがないからしたくないっていうわけではなく、自分が海外移住したら、自分はこのカオス屋にいるこの輩と同類になってしまうのではないか?と考えてしまう。

 

海外移住した日本人家族は、何も悪くない。これだけは始めに言っておく。しかし、彼らは現地人から見れば、輩と同じように見られている可能性がある。海外移住した人は、海外移住を美化するが、あの輩どもと同じではないのか?という疑問が出るようになってしまったし、大変モヤるようになってしまった。

 

彼女らは悪気があって海外移住をしているのではない。もちろん犯罪などはしていない。自分も彼女らの事は好きだ。自分だったら海外移住なんて、移住先の国の人に迷惑をかけるから、極力したくはない。犯罪をしなくても、ただただ不快にさせてしまう。そんな気がしてしまう。

 

現地当国はその何て言うか、移民が踏み込んで人口が増えた国であり、日本と決定的に違うのは、植民地だったのが独立して国になったという事。少数民族以外の現地当国民は、移民である。

自分が言いたい現地人とは200年ほど前に(あってるかどうか分からなくテキトーですまん)西洋が植民地として土地を獲得しその後西洋人が入植し定住した。その西洋人がまさに現地人。

 

入植移民で成り立っている国なので移民をどんどん受け入れているので、現地人は日本人よりも移民に対し寛容であるとされている。しかし、アジア系の移民や、難民などに対してどのように感じているのか?という事を考えれば、輩と似たようなものだったら嫌だなーと思う。

 

ま、当国民は、日本人じゃないんで、日本人とは感覚が違う。一律に移民に対して否定的ではないとは思いますけどね。ま、知らんから何ともいえんけど

 

某ラジオ番組の某パーソナリティも海外移住を経験している。これも、先に挙げた家族の移民先国と同じ国である。この国で父親が家を買い、彼女が高校の時家族で移住し定着したんだが、英語圏で、西岸なので、先に挙げた家族とは全然違った環境であったと思われるが(知らんけど)彼女は“補修校”という所に週に一度だけ通っていた。

 

補習校とは、当国にあっても日本の学校と全く同じ環境で、決まった教室、決まった席などがあり、行事、運動会(体育祭)などが日本と全く同じようにあり、当国のカリキュラムの授業を日本語で行ない、先生も生徒も日本人のみという学校。学校の勉強を補修する所。

 

彼女は補習校を、”日本人だけのユートピア“だと言っていた。

 

補習校の友達とはこの歳になっても家族ぐるみで付き合っているという。

 

東岸寄りのフランス語圏に移住した、先に挙げた家族の子供たちも”補習校“に通っている。日本から家族で移住し、学校の勉強はただでさえ難しいのに、公用語がフランス語の州の、公立の小学校に通って、英語での授業、フランス語での授業を受けさせられていたら授業についていくのが子供のアタマでも難しい。補習校に通わねば到底ついていくのが無理だと思える。子供たちは本当に偉いと思う。

 

 

 

“日本人だけのユートピア”か…..いいなぁ。

 

補習校に通いたい!!

 

日本にいる日本人が補修校に通いたいというのはおかしいが、このカオス屋にいると、日本人の補習校的同志が欲しくなる。

 

自分が補修校に通うのと同じ事をするとなると、日本人だけしかいない職場に副業せえ!という理屈になるのか。

 

本件と関係ない事ををゔぁーっと書いてしまってすみませんでしたz

このブログ文を書いてる途中にインスタ見てたら、海外移住した(当国のフランス語圏)の家族の動画を目にしたので。いきなり始まっちゃってすみません。

 

 

日本に生活しながら、マジョリティである側に属していながら、日本の中では結構激しい外国人率の中に置かれる日本人もいる事を理解して頂けたらと思う。マジョリティにも関わらず、マイノリティの外国人によって隅に追いやられるモヤモヤに共感する人は少ないと思う。日本に住む日本人が苦悩する事自体がおかしい。こんな状況で多様性を是としろと言われて賛同出来る人は偽善者。こんな気持ち解る日本人やってる人間はこの会社に働いてる日本人意外には存在しないのか?

本当に日本人従業員は逃げ場がない。

 

 

実習生は全く日本語が喋れない為、使えない。いくらスキルがあると言っても母国語か英語しか喋れないのではどうしようもない。そして実習生らはよくサボる。トイレに行くと言ったきり30分以上もザラに帰ってこない。その為、いつトイレに行っても輩がいる為安心して用もたせない。輩どもは一人で出来る仕事を2〜3人でやっている。そして常に喋っている。喋る長さは異様で、片時も黙ることはない。男性社員は女の実習生には甘い。日本人には目くじらを立てる事でも女子実習生には目をつむっている。

 

 

男性社員の側から女子実習生を構う。東南アジア系の女性の甘えたような声の出し方が堪らないらしく、構いたくなるそうだ。会社側も実習生様様である。自分が入社した頃は、実習生まみれだが、昔は日本人しかいなかった。しかし日本人が辞めて、応募しても来ない為、実習生を入れるしか無かったらしい。実習生はサボってばかりでロクに働かない。一人で出来る仕事を3人でやるほど余剰人員があるのであれば、余剰な実習生の輩をクビにすればいいのに。治安悪くなるしはっきり言って、会社内が狭くなるばかりだ。

 

自分は女子実習生どもの甘えたような声の出し方が非常に苦手である。私カルガリーを、差別主義者だと決めつけても良いが、東南アジア系全般の言語の声の出し方が非常に苦手である。というより、苦手になってしまった。輩どもの話し声は常時、異様に大きすぎる。うるさい!それは勿論日本人より大きいが、欧米人の話し声よりも、中国人の話し声よりも大きい。東南アジア系の声の出し方は、母音を強調する傾向にある。日本語も人の事笑えないが、日本人のそれよりも更に母音を強調する。日本人女性は甲高い声で喋る傾向があると言われているが、東南アジア系の女性はそれよりも更に高い声で喋る為、異様に映る。これは入社当初から感じていた。

 

 

自分はパーソナルスペースが広大で、不用意に近づかれるのが苦手である。何の断りもなしにぬーっと寄られるのが不快だ。これは相手が外国人であろうが日本人であろうが関係ない。日本人は世界的に見てもパーソナルスペース広大な人が多く、自分と似たような皮膚感覚の人が多いと感じる。しかし、東南アジア系などは我々日本人よりずっとパーソナルスペースが狭く、不用意にヌーっと近づくだけでなく、背中や腕などの身体の一部を何の断り無しに触って来るケースも多い。狭い場所は、他人の身体に接触してゴリゴリ通るケースも多い。これらは非常に不快であり、意気揚々と出勤してもこれをされると朝から萎える。そう感じている日本人は非常に多いのではないかと思う。輩どもの身体の動きや仕草が非常に気持ち悪い。寄るな触るなという感じである。例えるならムカデが戦々恐々と動き回って、自分の側に近寄って来て噛み付くといった行為と同じ事を輩は日本人に対してやっている。

 

輩は妙なところ親切心があって、細かい所を手を出して手伝ってくれる事がある。親切は素直に受け止めなければならないし、細かい気遣いに感謝しなければならないと思う。それは日本人、実習生問わず平等に感謝しなければならない。しかし、それが原因でトラブルになった事があった。言葉が通じない為、意思の疎通が上手く行かなかった為である。それ以来、余計な手を出してくれるなと強く思うようになった。

「手を出すな」と強く言っても、相手には伝わらなかったし、ボディーランゲージも通じなかった。

 

出来ることならこんなバケモノらと関わりたくはない。

 

道徳の授業で「外国人差別はするな」とさんざん教わって来たので、差別はするべきではない。このような考えは差別だから良くない。と頭では理解していて自身に散々言い聞かせているのに、皮膚感覚とか生理的な問題はどうにもならない。

差別的な言動をあからさまにやる日本人はいるが、自分は差別的な言動を故意にしてはいない。

 

“実習生ら”という集団として捉えているから、そういう見方になってしまうのではないかと考えられる。実習生の誰か一人と“個”として付き合っていれば、そんな拒否反応をしなくなると思う。

 

長文のご精読をありがとうございました。今日は感情的にヴァーッと書いてしまい脈絡のない意味が分からない文章だったと思います。

 

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ぼっち活どこまで出来ます?

2024年05月03日 | ザ・日本人の気持ち

前回のイングリッシュ・カネー🌹ディアン🌹について、よくよく考えてみたら

 

イングリッシュ・カネー🌹ディアン🌹とはモンゴル人がイギリス🇬🇧(ブリテン島)をウルス(属領)支配して初めて成立する。

 

イギリスというのも植民地をたくさん持ってる。その植民地はモンゴルの属国の属国という事になる。

 

大英ウルス

 

だからアメリカやオーストラリアはモンゴル帝国の属国の属国。

 

英語を喋るカネ🌹ディアン🌹を量産出来る。

 

モンゴルのウルス(属領)は人民の管理、統制、言語、宗教統制などをせず、納税さえさせていれば良かった。

 

🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧🔱🇬🇧

 

一人ぼっち活動の事を「ぼっち活」というらしい。

自分は常に「ぼっち活」をしている。

 

何故なら自分には友達がいないから。

 

 

何故に自分は友達が出来ないか?とたまに考えるが、その代表的な答えが「察しが悪い」から。でもこれは人間関係の経験値などが左右する。

 

自分は昔から友達が出来なかった為、経験を積む機会が無かった。

 

つまり「察し」を鍛える機会が無かった。

 

友達が出来なかったもう一つの肝心な理由がある。それは、自分から友達を作る努力をして来なかったから。

 

自分は重度の人見知りで、自分からは絶対に人に話しかけられない。

 

人に対してタメ口がきけない。他人と距離が縮まる事に抵抗がある。上司に敬語を使うのは常識だが、同い年、年下、新人にも敬語を使う。

 

敬語とはまさに「和」を持って距離を取る。世界中どこを見廻しても、日本人ほど「距離感」を意識する民族はいない。

 

まさに日本は遠慮・思慮の文化。

 

敬語は相手と一定の距離が保てる為、非常に便利な言葉だ。

 

敬語は、中学の頃からずっと使っている。中学生であれ同期を名前で呼ぶ事は一切無かった。

 

自分の力で人間関係を構築する事が出来ない。しかし、一人で寂しいと感じない。自分は他人の目を全く気にしない方だ。コミュニケーションが出来ない自分にとって独りというのは非常に精神的に楽である。

 

しかし、群れには憧れていた。独りでいるのが一番良いが、群れにいると、何かと依存出来る。初めのうちは群れに金魚のフンみたいについて行くが、いつも村八分にされていた。

 

 

「ぼっち」で外出する事が非常に多い。大半が「ぼっち散歩」

 

年に一度「ぼっちハワリンバヤル」「ぼっちシルクロードバザール」「ぼっちライブ参戦」をする。

来年は「ぼっちライブ参戦」はしないのかも知れない。

 

今年は、ハワリンバヤルに行かれないのかも知れない。

 

 

「ぼっち旅」は、出来る。一人海外バックパッカーなどに憧れる。海外であれば尚良い。海外なので自分に対する見え方は「奇妙な外国人」

 

下手をすれば職質される可能性があるが、ぼっちで撮り鉄とか色々やっても、「日本人だからしょうがない」で片付けられれば良い。

 

日本の観光地レストランと違って、海外では日本人は「レストランという正式な場で、一人ぼっちで食事が出来る」と思われているので、海外での「ぼっちレストラン」は正々堂々とすれば良い。

 

外国人なんて自分にとって全くの他人だから、海外での方が見た目を気にしなくて良い。ただ治安面でぼっち活動が危険という場合もある。

 

*国によっては撮り鉄が見つかり次第、逮捕される場合もあるので要注意⚠️

 

 

「ぼっち映画鑑賞」は、モノによる。ハリウッド映画の話題作や、カップルだらけの恋愛映画は微妙だが、マイナーな映画や、中央アジア映画祭の映画はぼっちで見に行かれる。

 

「ぼっちキャンプ🏕️」

これは出来ない。近年は野生動物が怖い。自分なら多分わざわざ人気のない場所を選ぶだろうから、野生動物との遭遇率高くなる。

 

「ぼっちカラオケ🎤」

これもやった事がある。面白くはなかった。歌の練習をするのには良い。

 

「ぼっち焼肉」

「おひとりさま」専用サービスがあれば出来る。

まだ行った事がない。

 

「ぼっち鍋」

これも上↑と同様。まだ行った事がない。

 

「ぼっちラーメン🍜」

これは出来る。

 

「ぼっち松屋・吉野家・駅そば」

こればっかやっとる。

 

「ぼっち専門店訪問」

むしろぼっちの方が良い。店主と話をしたい。

 

「ぼっち海水浴」

これは出来ない。誰もいない海でポツンと泳ぐのは怖すぎる。

 

「ぼっち登山」

これも出来ない。理由は上↑と同じ。

 

「ぼっちカフェ・喫茶店」は出来る。カフェであろうと喫茶店であろうと関係なく出来る。

稀に、一人客を冷遇する喫茶店などがあるので、冷遇された時点で二度と行かない。今までに3軒、一人客冷遇店に出くわした。

 

一人客(自分)が先に来ても、後から来た4人客を優先的に水を出し、オーダーを取る店があった。その店は経営者が自宅で経営をしている。その客はどうやら常連のようであった。

 

経営者が想定している客は、地元の顔馴染みの人というのがあからさまに分かる。

 

もう一軒は古い純喫茶。この店は自分以外の客は全員集団か、2人連れで入っていた。

この店も上と同じで、後から来た集団客に優先的に対応した。

自分は普段滅多にしないが、この時ばかりは恥を覚悟で大声で店員を呼んだ。その時の店員の態度は考えられないものであった。なんとメニュー表をぶん投げてよこしたのだ。大声で「すいません!」と連呼して、無茶苦茶不愉快だと思われる事は充分承知であった。しかし、店員もこちらをチラ見しながらも無視を決め込んでいた事が見え見えだった。客に対し失礼千万であるのでこちらも、無茶苦茶失礼な事をした迄である。

 

コーヒーは美味しいと評判らしいが、接客態度が糞だったので不味く感じた。床に半分わざとこぼして帰っても良かったと思っている。

 

店員は自分をレジ接客をする気はさらさら無いようだったので、自分は伝票と金をカウンターに置いて店を出た。この際、いっその事タダ喰いしても良かった。本当に自分は良心的である。

 

 

集団客や2人客が多い理由は、一人客を冷遇する店だと分かっているからだろう。例え幼馴染といたとしても、絶対にこの店には入らない。二度と入らない。

 

最後の店も、個人経営の喫茶店だった。

ここは一人客が他にもいた。席には1時間30分以上の滞在は控えて下さいと書かれていた。自分はルールに従って1時間30分以上は滞在するつもりは無かった。しかし、自分が入店して50分ぐらい経過した頃に、店員から「お客様は何時に入店しましたか?」と聞かれたので、愚直に入店時間を申した。すると店員の表情は豹変し、「お客様、ご自身の滞在時間についてどう思われますか?」と聞かれたので、「まだ50分ぐらいしか経っていないんで…..。1時間30分も経過していません。」とまた愚直に答えた。店員は「お客さまは、お一人様が居座ってられる適切な時間を考えたことあります?」と詰めよって来たので、席を立ち、会計に向かった。

 

自分は4人掛け、6人掛けとかに座ったわけではない。2人掛けに座っていた。他の一人客も2人掛けに座っていた。店内は全く混んでなんかいなかった。自分はそこまでKYな行動はしてないはずだと思うが…

 

もう一杯飲み物なり別のものを買えば、言われなかったのだろうか?この店も2度と行かない。

 

自分の考察では、このような待遇をするのは個人経営店。

 

 

チェーン店でこのような待遇に遭った事はない。

 

 

 

「ぼっち国内観光地レストラン」

これも非常に微妙である。喫茶店と同じく、冷遇される可能性もある。その上、観光地レストランという条件では、家族連れやカップルなどが入る事が多く、一人客は自分だけしかいない可能性が高い。ターンテーブルのある中華レストランは場違い感酷い。非常に気まずい。

 

「ぼっちサイゼリヤ」

これは実際にやる。昼間なんかはぼっち客ばかりである。

 

「ぼっち居酒屋」

これは個人経営であろうとチェーンであろうといずれにせよ気まずい。これこそ30分も居られない。

 

「ぼっちディズニー」

これはやろうと思えば出来ると思う。場違いだが、職質はされないと思う。ただし、まだやった事がない。

 

「ぼっち水族館・動物園」

これも出来ると思うが、まだやった事がない。

 

「ぼっち鉄博」

これは出来る。実際にやった事あって、ぼっちライブ参戦と同じぐらいの割合のぼっち客がいる。

 

「ぼっちデパート・イオンモール・ヨーカ堂」

これは出来る

 

「ぼっちプール・ジム」

これも出来る

 

「ぼっち銭湯♨️」

こればっかやってる。

 

「ぼっちスーパー銭湯・サウナ♨️」

こればっかやってる。

 

「ぼっち健康ランド♨️(宿泊施設付き(雑魚寝に近い)温浴施設」

これはたまにやる。もっと頻度を上げたい。

 

 

「ぼっち散歩」

これは出来る

 

「ぼっち西成散歩」

これは出来る自信ある。まだやった事ないけど、是非やってみたい。

 

「ぼっち路線バスの旅」

これは実際にやっていた。

 

「ぼっち国内寝台列車の旅」

これも出来ると思うがまだやった事ない

 

「ぼっち墓参り」

これは怖くて出来ない。必ず誰かと行かなければならない。

 

「ぼっち心霊スポット」

これも怖くて出来ない。

 

「ぼっちお化け屋敷」

これも怖くて出来ない。

 

「ぼっち製鉄所見学」

これはやりたくない。

これはぼっちではなくて誰かと行きたい。喜びをシェアしたい。

 

「ぼっち乗馬クラブ」

これもやりたくない。

これも一人客冷遇乗馬クラブも多数あると言われる。更には一見さま冷遇乗馬クラブも多数あると言われる。

誰かと行って楽しさをシェアしたい。

 

「ぼっちモンゴリアンヴィレッジ・テンゲルでのゲル泊」

これもやりたくない。

喜びをシェアしたい。

 

まとめ。ぼっち冷遇店は、個人経営の飲食店に多数あると思われる。個人経営店でも、一人客に干渉しない良い店もある。

居酒屋は薄利多売の為、オーダー数が命だから一人客は全く歓迎されない。行くなら「一人客歓迎」と書かれている店を選ぶか、値段の高い店を選ぶ事にする。

 

自分が出来るぼっち行動は、「ぼっちライブ参戦」「ぼっちフードイベント・バザールイベント」

「ぼっち散歩」「ぼっち路線バスの旅」「ぼっちデパート・ショッピングモール・スーパー」

「ぼっち専門店訪問」「ぼっちマイナーな映画鑑賞」

「ぼっちラーメン」「ぼっち牛丼チェーン・駅そば」

「ぼっちサイゼリヤ」「ぼっちコーヒーチェーン店」「ぼっち鉄博」「ぼっちプール・ジム」「ぼっち銭湯・サウナ・健康ランドで宿泊」

 

基本自分は他人の目を全く気にしない為、結構なぼっち活動は出来る方だと思う。誰もいない海で泳げるようになる領域に達するまで、あと少し。

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

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遊牧民 🌹住吉美紀🌹爆誕

2024年04月26日 | ザ・日本人の気持ち

本日4月26日はタタールを代表する詩人トゥカイの誕生日であることにちなみ、タタール世界では母語の日として祝われる🐆

自分が名乗っている、カルガリーという名前はタタール語である。

 

トゥガン・テルという歌についての解説と歌詞

【音楽】Туган тел (母語):タタールなら誰もが知る歌

それにしてもいい曲ですね。タタールの旋律も大好き。

 

 

朝青龍関が4/12から都内の病院で入院している。4/23に手術したそうです。手術は成功し、快方に向かっている。一時はどうなるかと思ったが無事で良かった🦩

 

🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩🦩

 

前回の記事で、あの部落🎪を示す名称が、メルキト部族の言語のようで抵抗感があるという、ナンセンスな事を言ってしまいましたが、後日読み返したらあまりにくだらな過ぎたので撤回します。

 

実際にこの部落🎪は、メルキト部族と何の関係もない。強いて言えば、偶然、予期せずにこんなワードが出来てしまった。メルキト部族の事など眼中に入れず、今まで通りの表記をさせて頂きます。

 

(メルキト部族に対する凶悪なヘイトを貫こうとしたが、無理だった。もう限界。“カナダ”などというワードを糞のように撒き散らしておきながら、「メルキト部族」については敢えて完全に触れない。ニアミスしながら完全に眼中に入れない徹底無視。初めからメルキト部族などこの世に存在していないかのように扱う凶悪ヘイトがしたかった。

ニアミスしたいがためにカナダという語を濫用したわけでも、メルキト部族を意識してこうなったわけでもない。カネダ(金田)という元の地名とモンゴル語の性質のせいでこんな語がこの世に爆誕(メルキト部族完全無視)してしまった。)

 

ルソフォビアみたいに周囲やネットに嫌い嫌い言うヘイトは可愛い。「嫌いな国」なんて言ってるうちはまだ可愛い。国というのは最大単位だ。

 

キライ キライ言ってるうちは、まだ本当に嫌いじゃない。

 

ガチめなヘイトは、“初めから存在していないモノ”として扱う事

 

憎たらしい奴の名前なんて、口にしたくないでしょう。

 

自分は、ルソフォビア(嫌露)など特定の国を嫌い、ボルシチや*イクラの件でワーワー言ってる輩と同じだと反省した。

 

「メルキトフォビア」は嫌いな国どころか、“嫌いな部族”とかいって自分ヤバ過ぎると思った。最小単位の部族ヘイトは血みどろ。歴史上にかつて存在した部族をヘイトするとは、自分でも頭がどうかしていると思う。

 

倭国ではない方の、ロシアのカナダの存在のせいでメルキト部族の現存の可能性が出てきた。(以降ロシアのカナダをもう一つのカナダと呼ぶ)

 

*イクラ: ロシア語で魚卵を意味する。ルソフォビア達は「イクラ」というワードにもイキってて、これを「鮭子」などと言う。本当にしょうもない。日本語もぶっ壊すつもりか…

 

カナダはロシア領内にある……

ルソフォビアにとっては、ロシア領内というだけでこれもアレルギー反応の対象だ。

 

「カナダ!キャー!これロシアやんけ嫌や。」そして蕁麻疹。

 

メルキト部族としてこれをヘイトするのではなく、最大単位の国であるロシアとしてカナダをヘイトする方がマジョリティになってしまうだろう。それを言ったら同じ沿海州に「ネリマ」という村もある。これもネット情報だが、ネリマ川という川の名前から取ったらしい。

練馬区の人どうなる?

嫌いな国ならまだしも、”嫌いな区“にされてしまっては困る。メルキト部族はロシアの属国だが、ロシアのネリマに際しても「もう一つの練馬」というべき?

 

フォビアになると名前だけでアレルギー反応を起こす人が一定数おるので、自分はフォビア属性にならない様に気をつける。

 

東京都魯西亜区なんてあったら、袋叩きにされてしまっていたのか?

 

(それを云ったら「カルガリー」だってロシアにある。ロシア・オレンブルク州・カルガリー市。先日、洪水に見舞われた所である。

カルガリーまでロシア支配下🪆どこからどこまでもロシア支配下💧ロシアから逃れることは出来ない。ロシアおそろしや🇷🇺ヒーッ😱

自分はルソフォビアから忌み嫌われてしまう!*カルガリーは、ロシア語ではなくタタール語である。)

 

ロシア人は、ボルシチだけ食ってるわけじゃない。ロシアでは多種多様なものが食べられている。西側由来の食べ物も食べる。スラヴ由来だけではなく中央アジア由来の料理もある。湖で釣れた魚も食べる。ムース🫎(ヘラジカ)も食べる。

 

ヘラジカ🫎出して「ロシア料理」だと名乗る飲食店があったら、どう叩かれるのだろうか?

 

自分の記事内ではメルキト部族とカナダ🎪は一切関係ない。 おわり。

 

🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹

 

住吉美紀がTokyo FM Blue Oceanで自称「カネディアン🔱」を連呼した。「カネーディアン🔱」

「英語を喋るイングリッシュ・カネーディアン🔱」と連呼していた。何故だか「ネ」を強調していた。

 

一瞬、耳を疑った。住吉さんに「カネディアン🔱牧民」が憑依、降臨したのではないか?と思った。怖かった。憑依現象は本当にあるのか😱

本当に恐怖だった。

 

聴衆はこれを聴いてどう思ったのだろう?

カネディアン🔱という意味不明な名称が聞こえて、放送事故ではないか?と思ったに違いない。自分は、これは完全なる放送事故だと思った。

 

カネディアン🔱とはこんな所にも現れるのか?

探してる時に現れない人たちであり、神出鬼没だ。

 

*カネディアン🔱とは自分が勝手に造語した言葉である。いやいや、そんなワケはなくて、元々ある地名(村の名前)をイジって和製英語のようにしてしまった。

 

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》

 

チバリアン(千葉・地層)というネーミング方式と同じである。だからもし、これが例えば、黒田(クロダ)や赤田(アカダ)村などの名称であれば、クロディアンやアカディアンになる。

オバタリアン(今でいうBBA)やジベタリアンなどという言葉が昔流行ったが、それと同じでカネディアン🔱という名称は少々ダサさを感じる。

 

ここ最近カネディアン🔱出現事例が多い。

 

 

問題の放送は火曜日。3月26日、勿論2024年。メッセージテーマは「ピュアすぎたはなし」

 

住吉美紀氏は、自分とは根本的に真反対の人である。

 

住吉さんが大学卒業してすぐにNHKに就職した時のエピソードを語った時に事が起きた。

 

住吉さんは、お父さんの仕事の関係で海外に転勤し、それに伴い海外に住んでいた事もある。小学生の時、それから高校の時。

 

大学は日本だった。家族が家を海外に購入してしまい、実家が海外にある。

 

そしてNHKに就職。海外と言っても英語圏である。

 

NHKの職場内で頻発する会議。会議の為の会議など意味の分からない会議が横行していた。それが、海外には存在しない日本独自の風習であった。

住吉さんにはそれが到底理解出来ず、この珍妙な出来事について、「何についての会議をするの?」「何故会議をするの?」「Why?」「Why?」「Why?」と都度、先輩に質問していたら、上司に「そんな事を聞く必要はない」と叱られたらしい。

学生を卒業したばかりの住吉さんにはまだNHKの官僚的な企業文化が理解出来ておらず、見境なく質問していた頃の自分に「ピュアすぎた」と回顧していた。

 

 

それのどこがカネーディアン🔱なのか、自分としてはよくわからなかったが、住吉さんが強調したいのは、海外英語圏育ちの頭の中身にとって、意味の分からない会議というモノを知らなかった事と、官僚的な文化の中での空気が読めなかった事に、自称カネーディアン🔱だと言っていたのだと思う。

 

これがもし、ラフな企業文化の会社だったら、質問攻めにしても「空気読めない人間」として叱られなかったのだろう。

 

要するにカネーディアン🔱とは倭人ではない異人を表す物のひとつとして解釈出来る。

 

そこは確かに蒙古出身の牧民、カネディアン🔱とも共通する。

 

イングリッシュ・カネーディアン🔱というのは、英語を話す、倭人ではない異人を表すのではないか?と思う。

 

英語で言うエイリアンと同じ意味なのではないか?とおもうが何故カネ……….🔱???

イングリッシュ・エイリアン👽で良いのではないか?

 

 

モンゴル帝国はかつての世界一の強国。

自称カネディアン🔱と言うからには….

 

 

「イングリッシュカネーディアン🇬🇧🌹🔱🌹」

 

それを文字通り解釈すると、英語が堪能で騎射が得意な400年前日本に渡航した蒙古系牧民。住吉美紀。という事になる。そんなものがこの放送により、爆誕してしまった。

 

流鏑馬カネーディアン🔱

しかし彼はカネーディアン🔱ではなく、モンゴル人🇲🇳である。

 

 

以前はカネディアン🔱=モンゴル人🇲🇳だと考えていた。朝青龍や*The Huがいかにもカネディアン🔱らしい容姿だと思う。

 

カネディアン🔱という呼称は、遊牧民族の呼称にしては特異である。

遊牧民は通常、民族名で〜人と呼ばれる。SUM41でお馴染みのトゥヴァ共和国は、トゥヴァ人(族)という民族名が由来だ。ロシアの属国(構成共和国)にはブリヤート共和国やサハ共和国というのもあるが、ブリヤート人(族)やサハ人(族)が由来。

 

旧ソ連のウズベキスタンやカザフスタンも、ウズベク人、カザフ人が由来である。

 

ブリヤート人もサハ人もトゥバ人も、ウズベク人もカザフ人も元々は遊牧民族である。

 

カネディアン🔱は、冒頭で書いたように、金田(カネダ)という村の名称である。遊牧民の名前が地名由来というのはほとんどと言って良い程ないに等しい。

 

カネディアン🔱は何故地名由来なのか?それは、金田(カネダ)村に定住させられている為である。カネディアン🔱は蒙古系民族だという所迄は分かっているが、それ以上細かい民族名は分からない。この村の人民及びその祖先をカネディアン🔱と呼ぶ。

 

カネディアン🔱は蒙古系だが、モンゴル人とは違う。カネディアン🔱は大陸を離れて400年以上も経つ。その間両者は別々の道を歩んで来た。

 

カネディアン🔱は清帝国支配下も知らなければ、社会主義政権下も知らない。社会主義崩壊後の混乱も知らない。モンゴル人と血を分けたが、途中から別々に生きた為、感覚的に遠くなってしまっている所が多いのではないかと思う。

 

蒙古族の血はあるが、全く違う世界に生きているので、現代のモンゴル国🇲🇳を祖国だと言い切れないのである。時が経ち、モンゴル語も喋れなくなってしまい、別物になってしまった彼らは、モンゴル国と関係があるとは言えないのである。

 

だからカネディアン🔱=モンゴル人とは言えない。

 

カネディアン🔱が400年前のまま止まっているのか?モンゴル国が進んでしまったのか。彼らの望郷の想いはどうなってしまうのか。

 

モンゴル国のモンゴル人に対して、カネディアン🔱というつもりも無い。

 

広義の意味ではカネディアン🔱もモンゴル人と言えるのではないか?という見方もある🇲🇳

ロシアのブリヤート人やカルムイク人や中国の内蒙古人も広義の意味ではモンゴル人と言える。

彼らはモンゴル族のディアスポラである。

カネディアン🔱も日本にいるモンゴル族のディアスポラである。

 

カネディアン🔱は、和製英語みたいなもの。敢えてモンゴル語読みの発音に変える必要がない。

 

《モンゴル語の母音の法則によれば、男性母音(a,o)と女性母音(e,u)は同じ語に共存出来ない。中性母音(i)はどちらとも共存出来るという。島村一平先生が文春の記事で教えてくれた。》

 

和製英語とは、倭人が勝手に造語した英語である。代表作はガソリンスタンドである。ネイティブが絶対言わんだろという英語。

英語圏ネイティブがカネディアン🔱という言葉を口にする用は一生ないだろう。

 

カネディアン🔱が英語なんて喋るわけない筈だが、住吉美紀氏が「イングリッシュ・カネーディアン🔱(英語を喋る牧民)」と言う言葉を造語した。

 

意味分からん……..

 

そもそも住吉美紀氏にとってカネディアン🔱とは何なのか?

 

全っ然意味分からん。やっぱ憑依としか思えん

 

 

カナダホト🎪やカナダオボー☸️🕉️は、カネディアン🔱とは違い、「オボー」も「ホト」もモンゴル語な為、モンゴル語と合わせる時はこれもモンゴル語読みの発音に直すべきだと思った。そしてカネダをカナダにした。

 

 

NHKは風紀に関しては五月蝿くないらしい。住吉美紀氏は夏、ビーチサンダル🩴🩴で毎日出勤していたと本人が言う。

 

官僚文化でありながら、ビーサン🩴出社は認める不思議な会社🏢

 

住吉氏は依然住吉氏である。ビーサン出勤をし、見境なく質問する。

 

SUM41と住吉美紀氏が、今まで頭の中で繋がる事は決してなかった。両者は全く接点がない。

しかし、「英語」というものを介して両者は繋がった。イングリッシュ・カネーディアン🔱(英語を喋る蒙古牧民)の住吉氏と、イングリッシュ・トゥバン(英語を喋るトゥヴァ人)のSUM41

 

両者とも母国語ではない英語が堪能な為、英語で難なく会話が出来るはずである。

 

住吉美紀氏もSUM41もおんなじアジアの仲間。

 

やっぱりアジアが一番!住吉カネー🌹ディアン🌹の爆誕によって、英語というものは、英米ネイティブと喋る為ではなく、アジアのみんなと喋る為に勉強するべきだと思わされた。

 

自分もベトナム人もおんなじアジアの仲間。しかし日本人側からそれを言って実習生に嫌われてしまった社員がいた。

 

住吉美紀氏の自称遊牧民=カネーディアン🔱は意味不明だが、住吉氏が、倭国=日本の集団主義(意味の分からない会議、根回し、春闘など)が無駄だと感じる所が、遊牧民と共通するところなのではないか?と考えられる。

 

集団主義がダサいと思える心が格好いい。で、彼女は実際にフリーランスとして独立して生きている。

 

ちなみに、自分は集団主義をさほど悪い事だとは思わない。人間は一人では生きられない。だから同志などで集まり、手を取り合って生きることは決して無駄だとは思わない。

 

自分には独立して生きていける自信はない。それ故、会社に依存して生活をしている。

 

そして自分はどちらかというと、元来群れを好み、全体を重んじる事を良しとする考えを持ち、“常識”の照準と自分が今どれだけ離れているのか、絶えず絶えず確認をしながら、行動しているのである。常識と少しでもずれていると感じれば反省をし、常識の照準に合わせるように努力をしている。自分は結構、自分軸がない。

 

自分は住吉カネ🌹ディアン🌹なんかよりもNHK的な文化に適していると思う。何もかも彼女と自分は正反対だ。

 

まぁ。そんな偉そうな事を言うが、自分は学校や会社や自治会などで集団の中にぶち込まれると必ず、村八部にされてしまっていた。理由をハッキリ言う人に理由を聞いたら「テメエは察しが悪いから」と言われてしまった。

 

相手の気持ちを慮って慮って、慎重に言葉を選んだ発言を行っているのに、「察しが悪い」という評価だけで、自分の気苦労は無に帰され、そして排除される。自分の思慮が浅はかなんでしょうかね。学校はともかく、会社や自治会では人とトラブルを起こすなどの「和」を乱す事は一度たりともなかった。

 

それらの集団の中では決して“戦史”や“カナダホト🎪”や“ドチン・ドルベン”や“アミール・ティムール”や“製鉄”などの話はしない。

それらのネタは、多数が関心を持たない事だから。しかし自分の何が「察し」が悪いのか。それが全然分からない。そこが「察し」の悪い所なのかも知れない。群れはそれ以上のことは何も教えてはくれない。それも察しろという事なのか?

 

そして自分には小学生の時までに出会った友達しかいない。それ以上の年齢に比較的親しい人はできたが、友達と言えるほど深い関係でもない。知己というのが相応しい。

 

村八分と集団ヒステリーのない集団主義は良い集団主義だと思う。

 

長文のご精読ありがとうございます😊

 

*The Hu: ↓

 

 

同じ曲だが、もっと音がはっきり聞こえる。

 

 

曙関のご冥福をお祈り致します🪷

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