斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

遊牧遺構2 元寇部落

2023年03月24日 | 遊牧アディクト

日本に於ける遊牧部落の跡地を探している。

 

遊牧部落とは、家畜を携えた遊牧民や、家畜を失った遊牧民が大陸から日本海を越えて日本に辿り着き、首長を筆頭に定住した集落を指す。

 

もしかして…..元寇部落ってあるの?!

という事でググった。

 

佐賀県 神埼市 尾崎部落が元寇部落らしい!!

 

尾崎人形という土で作った人形がある。

伝承によると元寇(弘安の役)の際、捕虜になった蒙古軍の兵士が故郷を偲んで人形を作り吹き鳴らしたのが始まりと言われているが、

 

この人形、モンゴルにもあるの?!

 

息を吹き入れるとホーホーと素朴な音が鳴る土笛になっていたり振るとコロコロとかわいらしい音が鳴る土鈴になっていたりする。

 

吹くときに口にくわえる部分に着色しないのは、「土のものを口につけると癇封じの効果がある」

との説があり、子供の健やかな成長を祈る願掛けの意味もある。

 

この言い伝えも本場モンゴルにあるのかな?

 

本当にモンゴルに土製の人形と、この言い伝えがあるのか検証してみたい。と言っても実際に行って確かめるのが一番いいがまずはネットだけで調べてみます。ネットだけググって判断すると、大いなる勘違いのウィニペグやサスカトゥーンその他のように表面上の判断になります。

 

いつか実踏出来るといいな。

 

モンゴルに行ってみたい九州にも行ってみたい。

 

佐賀県神埼市尾崎部落をググってみた。

左上↖︎にある天山の方が気になる。

 

九州は関東などに比べ渡来牧民、渡来元牧民に関連する痕跡や遺構が多そう。

 

尾崎部落には尾崎焼の起源を伝える伝蒙古屋敷と蒙古合戦恩賞地がある。地区の南西部には蒙古合戦の捕虜となった蒙古人を連れてきたとされる「蒙古屋敷」と呼ばれる地区が伝えられている。

 

尾崎の地は、皇室領荘園神埼荘内に位置し、蒙古合戦の恩賞地として永仁5(1297)河野通有に「神埼庄内小崎郷内荘餘残分 同庄内荒野分」を給付されている。

 

この河野通有は弘安の役の際の戦功と活躍で知られている人物で、伊予国御家人で、弘安8 1285)には筑前国弥冨郷の替所として「肥前国神崎庄内小崎郷」を当てがわれている。

 

これらの記録より、尾崎と河野氏の結びつきが確認 され、伝承として伝えられている「蒙古屋敷」の地は、尾崎の地に領地を得た河野氏に関する屋敷地ではないかとも考えらる。

現在、蒙古屋敷の伝承地は、南北方向の土塁状の高まりが残るだけで全体構造は不明。周辺部の畑には、非常に多くの土器が散乱しているらしい。

 

元寇部落は河野氏が捕虜を屋敷に監禁し、倭人の小作人に農業労働をさせていた集落だったのだろうか?

 

それとも屋敷に監禁せず平面的に住まわせ、武士として鍛錬していた「蒙古村」という形だったのだろうか?

 

伝承だから何とも言えないが、伝承があるというだけでも凄い。

 

遊牧アディクト的には非常にビリビリくる!!

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遊牧遺構

2023年03月18日 | 自己満

日本に於ける遊牧部落の跡地を探している。

 

遊牧部落とは、家畜を携えた遊牧民や、家畜を失った遊牧民が大陸から日本海を越えて日本に辿り着き、首長を筆頭に定住した集落を指す。

 

今までに書いた金田神社のネタと金田集落のネタは、自分の頭で描いた妄想、ファンタジーの要素が非常に強い説である。

 

遊牧アディクトだからしょうがない - カルガリーたん

 

アルタン部落についての続きと、古墳について、舶来牧民に関するもの - カルガリーたん

 

テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!! - カルガリーたん

 

 

今日のこの記事、遊牧遺構については妄想やファンタジーをほとんどせず「モンゴル帝国のハーンたちの世界観」の記事と「金田という地名・姓の由来」の記事に則して書いた。

 

「テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見」の記事。「天神杜」の写真の中の立札に説明書として書かれていた、

 

「国土を守護する天乃神」という一文が非常に気になった。

 

「五穀豊穣を祈願して創設された杜」はこの杜を作る理由である。

 

「天乃神」と学問を奉ずる「天神」とを別々のものとして扱い、相殿にしているという点について違和感を覚えた。

 

何故この天神杜を、テングリ信仰と結びつけられたのかは自分でもよく解らない。多分だが、菅原道真を指す天神以外の天神が出てきたので、違和感を覚え、これはもしかしたら、テングリ信仰の可能性もあるのではないか?と考えたのかもしれない。

 

お天道様説も考えたが、あれは太陽を指すので天乃神ではない。

 

テングリ信仰とは国土を守護するという要素があるのか?という疑問が湧いたので

「テングリとは?」でググった。

「モンゴル帝国時代における ハーンたちの世界観について」ソーハン・ゲレルト

https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3047&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

その中にある7ページ目から始まる「宇宙三界観」

その中での図2 モンゴル人の宇宙三界観で、天神は地上界に保護と善と幸福をもたらすという。

13ページ目の内容では、天神の子とされる英雄は、悪魔を退治し、理想的な国を立て、自らハーンとなって人間社会の秩序を保護し、人びとの幸せな生活を保障する。

 

国土を守護する天乃神......

 

国土というものが、地上界=人間界 黄金の世界(Altan delkei)を指すと同時に、天神の子、ハーンが立てた理想的な国をも指すと解釈してもよろしいでしょうか?

 

それがハーンと天神によって守護される。

 

それを信仰した人々がこの地にかつて存在したと解釈しかねない。

 

 

 

 

撮影地 : 金田

 

 

テングリ信仰では、テングリの儀式がある。平原や、平原にある小高い丘、山頂や峠のような高所に儀式(祭事)を行う場所が多いと言われている。

儀式の最後に自分が持ってきた石を石積みの好きな所に置き、手を合わせる。

カルムイク人幸せの秘訣

 

この、金田の天神杜には何故か石ばかりが置かれている。天神杜の付近を見回したが、このような丸い石は見当たらなかった。置くためにわざわざ自分で持って来たのか。

 

天神杜が天神杜として作られたのはいつの事なのか?全く解らない。この天神杜についての説明書もいつ誰が書いたのか全く解らない。

天神と天乃神の両方いるとすれば、どちらの信仰が古い、新しいなどの、時間的差があるのか?とても気になる。

 

仮に「国土を守護する天神」の方が古く、石積みが本当にあったとすればその石積みは誰かが引き取って持って行ってしまったのだろうか?

(石や砂利は様々な用途に使える)

 

後に「国土を守護する天神」の事情を知る者が、その跡地に「学問を奉ずる神」と「国土を守護する天神」とを相殿にし、五穀豊穣の為の杜にしたのだろうか?

 

憶測の域は出られない。

 

祠や道祖神などで、持って来たような石がたくさん置いてある所は他に見た事がない。自分の知る限りでは。

 

この天神杜のある「金田」という地名。

 

 

この写真を見て、色々考えさせられるものがあるが、金田という地名の由来について、勝手な事を言わせて貰うと天神(テングリ)信仰、宇宙三界観の影響があり、ハーンが立てた国を想う心から来ている。テングリの祭典では、本場モンゴルでは「金(きん)」を供える者もいるという。

 

ここは何故「金田」というのか?

 

金田という地名について「☆☆市 金田 地名 由来」とググった。

 

金田という地名は、由来はバラバラだが日本各地にある。全てがハーン由来・テングリ信仰由来だとは考え難い。(全てがそれだったら、元寇は来る必要がなく無血併合なんかも出来たかも知れない)

 

 

これは日本全国の金田という地名・姓の由来について書かれた記事だが、そこに関する箇所だけを抜き出した。

この文章で見る限りでは、由来が取り上げられていない。金田氏族の話をしてるのか?地名の由来の話をしているのかさえよく解らない。

 

経由地だという。そして大永年間に愛知県西尾市一色町に移動。

 

発祥も取り上げられていない。

 

これを調べる人は、聞き取り調査なんかもしたと思うが、愛知県西尾市一色町に住む、この人達の末裔に聞き取り調査をし、答える側が、自分のルーツを他人に話す事を拒み、ぼかしたのかも知れない。自分でも向き合うのが非常に気まずいという人は世の中には多くいる。

 

これを読む限りで得られるものは

 

☆☆市金田を経由し、大永年間(1521-1528)に愛知県西尾市一色町に移住した民。

 

それだけ。

 

この民が、そこの金田の由来。

 

末裔に聞き取り調査をしたかも怪しい。末裔がどこにいてどうなったかなんて、分かるわけがない。

 

愛知県西尾市一色町に移ったが、その後何処へ行ってしまったのか、そのまま定住したのか、殺されてしまったのかは不明。

 

遊牧部落を探そうと思ったが、その前に、遊牧民の足取りを掴むのが非常に困難を極めると思った。遊牧民は文字を持たない場合が多く、口頭伝承で全てを伝える為、足跡がつかない。

遊牧民は、家畜を持とうが、失おうが、定住をしない場合が多いと考えた方が無難。

 

定住をしない為、不動産を持たない。ということ。色々と足がつかない。

 

遊牧民は土を掘り起こす事を頑なに拒むため、農耕生活をしないので定住する理由がない。だとすれば、家畜を失って日本に来た牧民は掠奪や商売や狩猟などで生計を立てる。土地に縛られない。中世日本に於いて、土地に縛られない人民がいたという事実でもある。この金田問題。

 

遊牧部落という定住的な生活の痕跡の特定は素人の自分には不可能。

 

金田の天神杜は、遊牧遺構だと認識して良いのでしょうか?

 

立て札に書かれている「この祠は国土を守護する天乃神」という箇所がとても重要。

 

「この祠は国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神とを相殿にし」という一文も大事である。

口承だけで伝えられた天乃神(テングリ)信仰の事実を、この立て札に文字として残して頂いた事に感謝致します。

そこの金田という地名も遊牧遺構と認識しても良いのでしょうか?

 

金田人は高麗人とは違う。高麗人は定住をし、農耕生活を行う。金田人がもしいたとすれば彼らは農耕に従事する事を拒んだ。

それらは宇宙三界観、シャーマニズムの精神を伝統的に守り続けたという証だろう。

 

元遊牧民だったとおぼしき人達が闊歩してたと想うと日本も大陸と同じ世界線で生きてたのかも知れないと思える。

 

という事で今日はここまで。長文、しかもまとまらない文章をご精読ありがとうございました。

パカパカー

 

金田人は金張汗国民ではありません。金田を見ると金張汗国を連想されるかと思い、大変紛らわしくて申し訳ございません。

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スフバートルコーヒーで絨毯展に行ってきた。

2023年03月16日 | 中央アジアその他

先日、よく行くスフバートルコーヒー☕️で絨毯展&販売がやっていたので、行きました。

 

 

 

 

ここのお店は、倉庫を改装してカフェにしたものです。

壁に普段見ない絨毯が掛かってると気分が上がる。普段からこの店、こうしてくれれば嬉しい。

欲を言えば、壁にトゥスキーズも掛けてくれれば嬉しい。床はコンクリートなので、絨毯を敷き詰めたら最高!店内は広い!

12-2月ぐらいは、暖炉に火を入れるので暖炉と絨毯の相性は抜群!

 

 

 

ギャッベの世界観。ドット絵で描かれた動物や木。色遣い。まるで異世界。

ギャッベはイランの遊牧民が羊毛で織る毛足の長い絨毯。女性の手仕事で、同じ物は一つとして有りません。

ギャッベの幾何学性は厳しい自然と遊牧民の論理性を表しているようでした。

 

ギャッベはもともとテント生活をするために地面に敷いて、床のかわりに使われていたので、毛足の長さと弾力が特徴です。

 

ペルシャの正月「ノウルーズ」はカザフスタンなどの中央アジアではナウルーズと呼ばれてます。祝う日は同様に春分の日です。この習慣はとても古くゾロアスター教の祝祭に由来し3000年以上の歴史があります。

 

 

日本とイラン(ペルシャ)との意外な繋がり。

 

 

ペルシャといえば漫画「天幕のジャードゥーガル」のシタラの出身地。

 

京都の祇園祭の山鉾の側面に豪華なペルシャ絨毯が飾られています。

 

奈良の東大寺で行われる「お水取り」という儀式は、ゾロアスター教由来だという。

源流はなんと古代イランのゾロアスター教!奈良・東大寺二月堂「お水取り」の謎に迫る(2) | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

 

ゾロアスター教は火と水を神聖なものとして扱うらしい。その為か、ペルシャ絨毯は赤い色のものが多いらしいです。言われてみれば、ペルシャ絨毯といえば、赤。

 

普段開放していない倉庫部分で絨毯、ギャッベ販売。

 

 

様々な色や形のものがありました。

ギャッベは、イランの田舎の遊牧民の手作り。

いわゆるペルシャ絨毯といわれるもの。唐草模様や花の絵柄が描かれているものは、街の工房において職人が手作りする。

 

 

本格的な絨毯は20%OFFでも、自分にとってはヒョエー😱な金額。

というのもあるが、遊牧アディクトの自分にとってギャッベの方が手元に置きたい。動物の絵があるものが良い。

 

 

自分の買ったものは、外の入り口の横に干してあったものである。手触り足触りが良く、柄が可愛い。

以前から動物の絵が描かれた遊牧の世界観のギャッベが欲しいと思っていたので、この日やっと買う事が出来て良かったです。

 

 

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カルガリーという名前について朗報!

2023年03月08日 | 中央アジアその他

名前によって何かを連想させられる….という事がある。

 

特定の動物とか、特定の人とか、特定の国とか、特定の食べ物とか。

 

昨今記事のネタで目新しいもので言えば

 

金田部落

 

金田いう漢語を目にしたら「金帳汗国(キプチャクハン国)」を連想しますよね?

 

もしかして自分だけ?

 

さらに言えば、キプチャクはケチャップを連想するし…. コレは個人的な連想。

 

ケチャップの語源はキプチャクではありません。(どんな思考回路しとんねん?)

 

でも字面が酷似している。

 

ケチャップ汗国🍅

 

金田は蒙古系の集落である可能性が高いが、このままだと金帳汗国を連想する。それを避けるためにモンゴル語のアルタンボラグと表記している。

 

タタール人の一部がタタールという言葉を嫌うのは、「タタール(韃靼)」は蒙古を連想するから嫌だという。それを忌避して自らをブルガールと呼ぶ人もいる。

 

ブルガールは、タタールとブルガリア🇧🇬の祖先。

西に行った人らはブルガリア人となり、東に行った人らはタタール人となった。

 

ブルガリア語はスラヴ語族で、タタール語はウラル=アルタイ語族・アルタイ語派・テュルク=キプチャク語群・カザンタタール語

 

タタール人は金帳汗国の末裔。

 

実にややこしい。

 

蒙古だの金帳だの言うほど深刻ではないが

カルガリーという名前だけを聞いて、何を連想しますか?

 

自分は連想しないが「カナダ(Canada)🇨🇦」を連想する人間が一定数いるようです。

 

この界隈(金帳、魯西亜、蒙古、韃靼、タタール、汗、可汗、匈奴、突厥、シルクロード、漢、朝鮮、扶余、征服王朝、その他)

の人が見れば、カルガリーとはテュルク系言語に見えるが、

その他一般の人から言わせれば

 

「カルガリーはカナダ🇨🇦です。」

との事。

自分には、この感覚非常に分かりにくい。

 

カナダ🇨🇦にもカルガリーといわれる経済特区のような街がある。これは間違いない。

 

ラジオでカナダ人が経済特区的なアルバータ州カルガリーを「キャルグリー」と言っていた。

 

日本語表記がややこしくさせている。

カナダのカルガリーを「キャルグリー」に改定しろと思う。混同して欲しくない。

 

そのせいで、カルガリー(自分の)Twitterにおすすめのツイートや、おすすめの話題に

「カナダ留学」や「カナダ移住」がやたらと表示される。ウザいので都度消すと、暫くは出てこないが、忘れた頃にまたカナダ関連のおすすめが出てくる。

 

本当にウザい。一時は名前変えた方がいいのかと悩んだ。でもそれをやったら、フォロワーさんやその他の人が混乱するし、名前変えました連絡するのは面倒くさい。

 

携帯番号変えるのと同じだ。

 

流石にカナダ界隈からは、自分のカルガリーアカウントが、カナダ界隈と思われてはいない。

 

ツイッターの内容がもろ、金帳、魯西亜、蒙古、韃靼、タタール、汗、可汗、匈奴、突厥、シルクロード、ステップロード、アルタイ山脈、漢、朝鮮、扶余、征服王朝、ジュチ・ウルス、ヤマロ・ネネツ自治管区他なので、カナダ界隈たちからしてみればドン引き。

 

カナダ界隈は「赤毛のアン」だのプリンスエドワード島だのメイプルシロップだの、英王室だのケベック州だの、ノバスコシア州だの、トランスカナダハイウェイ1だの、カナディアンロッキーだの、ユーコン準州他と、自分とは好みの方向性が全く違う為、全く話が合わない。カナダ界隈は、自分のような春秋趣味や、ノマドゲーム趣味、フーメイ趣味などのような力強いものに心躍る傾向にはない。カナダ自体に力強い印象や、文化的多様性の印象がない。

 

春秋趣味:戦モノが好き

ノマドゲーム:競馬、騎射(流鏑馬)、相撲、鷹狩りなど騎馬遊牧民の奉納神事を起源とする競技

フーメイ:ホーミーともいう喉歌。トゥバのウッペイやSUM41やモンゴルのThe Huなどのダミ声のような声の出し方

 

 

本当のカルガリー(Kargaly)という地名は、カザフスタンのアルマトイ州、カルガリー村。

それと、ロシアのオレンブルク州のカルガリー(カルガル)という街。

 

いずれのカルガリーも、キプチャク語群由来だと思う。

 

朗報というのは、ロシアのオレンブルク州のカルガリーКаргалы(カルガル)という街が中世において重要な役割を担っていたという事。

 

ロシアにとっての西への窓は「サンクト=ペテルブルク」

 

では、「東方への窓」はどこか?

 

それは「オレンブルク州カルガリー」

 

カルガリーではタタール商人が活躍した。

 

カルガリー、或いはカルガルとも言う。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138200/1/JOR_65_3_582.pdf

 

自分が「カルガリー」としてやっていく意味や指針になる由来と出会えてよかった!

これからも、ロシアから見て東方、中央アジアや蒙古などの北東アジア、チベット、中国や朝鮮などの情報を発信させていただきます。

そしてロシアを含む、東方の世界と日本との密接な繋がりを探して証明していけたらいいと思っている次第です。

(サンクトペテルブルク様と対等には並べるわけないが...だって帝都だもん)

 

自分の「カルガリー」名称の由来は、勘違いから始まった。カナダのアルバータ州カルガリーという経済特区を中央アジアと勘違いして名乗ってしまったが、もう名前を変えようなんて思わなくなった。カナダのカルガリーはCalgaryである。キャルグリーである。カルガリーとは別物である。

 

自分は「大いなる勘違い」のミスを認めたくない、ミスして悔しい!という個人的な理由でカナダを嫌がっちゃいました!全て解ってるつもりで、なんにも解ってなかった。

 

第一、カナダなんて西側で、有名どこだからつまんないやん!日本人で、旅行したことがある人、住んだ事がある人はザラにいる。

自分にとってはそういう意味では面白くなさそう。自分は力強いものに魅了されるので、カナダの赤毛のアンの世界観いうイメージにはあんまり興味持てない。SDGsの先駆けのような印象。これもあまり気持ちが良いものではない。

カナダは、本当に西の海に面した欧州と先住民の世界で、共産趣味(主義者ではない)の自分にとっては、レーニン像などの遺物がないし、閉鎖都市などのロマン溢れる所もない。その上、遊牧民族と関わりが全くないどころか、寒冷地で乾燥した大陸である割には、遊牧文化が起る事が歴史上なかった事や、文化的多様性や、独立不羅の精神というイメージが沸かない所などが魅力を感じない理由。

自分がどうしようもないからしょうがない💧

自分は、人が誰でも行かないような所の方が好きです。

 

という事で長文のご精読ありがとうございます♪

 

パカパカー

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ロシアユーラシア文化交流講演会、チャリティー企画材料市、東京ジャーミー、天幕のジャードゥーガル

2023年03月03日 | 中央アジアその他

これは、23223日の記録です。

ロシアユーラシア文化交流講演会 「タタール人とは誰か」という講義を聞くために上智大学に行きました。

 

上智大学一号館

 

 

洒落乙で歴史、趣ある建物

 

 

タタールときいて、何を連想しますか?

一般的な日本人に聞いた答えが、タルタルソース、タタラ製鉄、タタールの軛、遊牧民、モンゴル人、カタール?! etc…..

 

タタールとは、中世から近世にかけてはジョチ・ウルスの諸民族をさしていた。

現代でタタールはヴォルガ・タタールをさす。

ヴォルガ・タタールとはジョチ・ウルスの国のひとつ、金帳汗国(キプチャクハン)国の子孫である。

沿ヴォルガ川地域にタタールスタン共和国というロシア連邦の構成国の一つである、自治共和国が存在する。

そこに多く住んでいる。タタールはそこだけじゃなくて、ロシアの他の地域や、欧州やアジア諸国(カザフスタン、ウズベキスタン、中国、日本など)、米国などにも住む。

 

いつの時代か分かりませんが、日本には商人として来たタタール人が多い。

 

日本に一度に沢山来た時代がある。ロシア革命の時、ソ連崩壊の時。

日本から米国に流出が多かった時期は第二次世界大戦。

 

日本の神戸と横浜にタタールコミュニティーがある。

タタール人はコミュニティーを自ら形成した。

東京、代々木上原のモスク、東京ジャーミーは、タタール人が作った。

中央アジアにもタタールコミュニティーがある。

今戦争で、ロシア、ウクライナのタタールに、中央アジアに来られるように手を差し伸べる。

 

タタールらしさとイスラムは結びつくらしい。

ステレオタイプとしてはムスリムである。はずだが中には東方正教(キリスト教)を選ぶタタールもいる。

 

私のタタールの印象は、タタールとは、掴みどころがないな、というところだ。タタールという民族は、自称タタールの民族区分で、タタールだからこうあるべき。という人もいればそうではない人もいる。自分の在り方を自分で決めているといったところだ。一つの民族の中で多様性がある。

 

講演会では、タタールの音楽を紹介してくれた。

タタールの民謡で、日本人が聞いても懐かしく思える演歌のような曲もあれば、カザフスタンの民謡のようなものもある。

音楽も多様性に溢れている。タタールスタンの近くのバシコルトスタン共和国の楽器、クライという70cm弱はありそうなものを、講師が見せてくれた。尺八を連想させられる物だった。音を出すのが非常に難しいという。

 

タタールの文学者は、ラッパーになる人が多いという。そして、古い詩のアレンジが多いらしい。

ラップというものは民族運動に繋がるらしい。

 

タタールらしさとは何か?最近では、近縁民族との小さな差異だという。

 

講義後の質疑応答が長時間に渡る。

そこには、鋭い質問や、マニアックな質問が多かった。質問している人は専攻学生なのか?一般の社会人なのか?講義をよく聞いてるなーと思いました。

自分はあの人たちほど、沢山の物事に気がつかなかった。真剣に聞いていなかったわけではないけれど、タタールについて知らない事ばかりなので、講義を聞いて疑問どころか、へぇー、そうなんだー、と驚かされる事が多かった。

講義は楽しかったし、とても素晴らしかった。

自分もタタール人のように、自分自身の在り方を自分で決める。そういう生き方がしたい。と思いました。

 

タタール講義後、西荻窪のHAPA HAPA店舗でオヤマニアの会主催、地震支援の「チャリティー企画 材料市」BiT PAZARIに行った。

 

手芸材料や手工芸品を買うと義援金になる。ここではトルコの物を扱っている。

 

鞄のストラップにするか、首から掛けるアクセサリーにするか、悩むところです↓

 

リボンはかっこよくて、用途など考えずに、購入↓

リボンと同じ袋に入ってたストラップも可愛い😍

ボディータオル、早速使わせていただきます↓

薄いピンク色のスカーフと、ビーズの首飾り。これも早速使わせて頂きます!

 

BiT PAZARI後、東京ジャーミーに行く。在日タタール人が作ったモスク。地震支援の募金して、2階の礼拝堂やハラールショップを見る。

そこでアゼルチャイ購入。

 

 

 

ジャーミーには、東京外語大学が出しているフィールドプラスという本が置いてある。

 

 

自分が興味があるフィールドワークという作業と、契丹文字について扱っているものがあった。買ってまで読みたい。

 

ジャーミーは、115日にもお邪魔したが前回同様、とても雰囲気の良い、居心地の良い場所である。

 

寄木細工のテーブルがある。

ここでトルコチャイを飲んで帰る。

家に帰って郵便受けをみると

「天幕のジャードゥーガル」が届いている。

 

 

アゼルチャイを飲みながら、天幕のジャードゥーガル1巻を一気読み。

アゼルチャイは黒茶にタイムという香草が混ぜ込んである。紅茶に比べてカフェインがキツくない感じがした。

 

天幕のジャードゥーガルは『このマンガがすごい2023』オンナ編 1位。歴史漫画を描く漫画家による作品。

ジャードゥーガルとは、アラビア語で魔女。

ペルシャの学者に拾われた奴隷の少女が紆余曲折を経て、モンゴル帝国の王妃に仕える事になる…..

というあらすじ。

 

ネタバレになるので詳しくは書けない。

 

全巻を完読したわけではないので感想はまだ書けないが、1巻だけ読んで思った事は、この作品は実際の戦争の影響を受けているな。という事。

蒙古軍による侵略、破壊、捕虜のシーンなど….

戦争が始まってからの出版なので何となくそんな気がした。違うかも知れないが。

私たちは日本という安全な場所にいながら、共に生きている。

 

この日はとても密度の濃い一日でした。

 

という事で、長文をご精読ありがとうございます。

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