斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

金鎧集落について 結論(後編)

2023年05月19日 | 自己満

日本国に於いて、遊牧集落の痕跡と、遊牧遺構を探している。

 

結論を出す事は非常に早いと思うが、いくら探してもこれ以上の物は出てこないという結論に至った。

 

*金鎧 : 金田集落

金田のが農耕民族的で非常に気に食わなかったので極力別の字を充てた。遊牧民に農耕民族のような呼び名をつけるのは余りに失礼なので、金田人を金鎧人と呼ぶ事にし、金鎧集落と呼ぶ事にした。

 

郷土博物館で係員に資料を見せて頂き、金鎧集落に関するもの大まかにまとめてみたが、資料には、蒙古とか突厥とか遊牧民とか放牧など一切書かれていなかった。更にテングリ”“天神”“国土を守護する天乃神””オボー““石堆積等も一切書かれていない為、ここは本当に蒙古集落だったのか?決定打はない。

 

2023/5/17の記事

 

金鎧集落について 結論(前編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

先日の記事を元に、蒙古系渡来人がいたと仮定して同じ事を書いてみた。

 

戦国時代かその前、この地に野盗か野武士だと思われる者たちが現れる。彼らは村々に襲撃や掠奪を繰り返していた。

彼らは当時のモンゴル帝国の民で、ゾド(雪害)などで家畜を失った元々遊牧民だった人たちである。内陸では生きていけない。沿海州に辿りつき、女真族などに船頭と舶を手配して、日本海をわたり倭国へ。倭国を流浪し、相模国へ。

そして彼らはこの船田村(海賊の村)を襲撃し、潰し、川と川に挟まれたこの地に宿営した。

彼らはこの土地の現在の名称、金鎧の由来となった民、金鎧人である。

 

戦国時代には金なにがしかという地名だったという記録がある。”*アルタンなんとかという特定の個人名を集落につけた可能性も考えられる。

 

*アルタン :

 

金鎧人は掠奪や狩猟や商売などで生計を立てていた。シャーマニズムの精神を伝統的に守り続けたいと考える金鎧人は、元遊牧民。土を掘り起こす事を頑なに拒み、農業従事をしなかった。

 

金鎧人の主流、族長などが率いる大半は大永年間(1521-1528)にこの地を離れて流浪し、愛知県西尾市一色町に移住する。

遊牧民はこうあるべき。と保守的な蒙古人は、残留より流浪を選んだ。しかし、一部はここに残留した。

 

残留金鎧人は、この地の利は商売に適していると判断した為残留した。

 

しかし残留金鎧人の中には特定の武将に投降し、正式な武士になる者もいた。

 

金鎧集落という、倭国の中の蒙古集落のひとつとなる。

 

木柱のテングリ(天神)祭祀場を建てる。自分達はモンゴル帝国の民であるという意識が高い。ハーンの建てた国を想う心が強かった。

 

海賊や倭人の生き残りは、マイノリティとして同じ集落の中にいた。船来田明神が維持されたのも彼らに依るところが大きい。

 

数度に渡り、大陸から蒙古系民族が倭国に漂着する。彼らは蒙古系コミュニティー(集落)を頼って金鎧集落に移住。

 

17世紀以降、モンゴルがチベット仏教導入後、来日した蒙古人が金鎧集落に移住。そして木柱テングリ(天神)祭祀場に影響を与え、祭祀場は石堆型になる。

 

江戸時代中期に、幕藩体制が確立した後、中央から倭人の管理者が派遣され、金鎧集落も倭人の管理下に置かれる。人間が人間を徹底管理、支配するという治世が始まり、金鎧集落には農業従事用の土地を幕府から与えられた倭人が流入し、稲作が再開される。幕府は、蒙古人たちと倭人を強制的に政略結婚をさせ倭人化し、それらを田に縛りつけ農業従事させ、蒙古人のコミュニティを田地に変えた結果が金田の由来だ。

 

金鎧は金田となった。

 

その過程に紆余曲折あり、幕府軍と戦い犠牲となった蒙古人も数多くいたと考えられる。

 

金鎧以外でも、日本全国の異民族集落は倭人化をさせられた。

 

テングリ祭祀場は元々、金鎧人(蒙古人)が信仰していた「国土を守護する天乃神」を中心に「地神」「雷神」「龍神」など色々な神を祀り、集落の鎮守としていた。

 

倭人化後、倭人の天神「学問を奉ずる神」「田神」や「五穀豊穰の神」「地母神」などの雑多な神もそこに祀られるようになる。

 

昭和に入り、第二次世界大戦勃発や、高度経済成長期などがあり、石堆積天神祭祀場の大量の石は、他の河原の石同様にセメントの材料などとして、強制的に買収される。

 

現在も金鎧人の後裔が、厚木市金鎧に住む。その後裔の誰かが、石堆積天神祭祀場の跡に天神杜を作り、あの立札を書く。金鎧の古くから居住している住民は天神杜に石を置き、再び石堆積化させようとしている。

 

古地図や歴史書にある集落、部落、大字、小字の名前は江戸期に固定された。

江戸期以前の地名は、倭人にとって重要視されなければ実はよく分かっていないものが多い。

 

憶測の域を出ないが、和病の起源は江戸幕府による倭人化。江戸期を境に倭国から日本になったという感じだ。

 

江戸期まで倭国には野放図に移民がそこらへんに集落を作っていたが、天下統一した、徳川家中央集権独裁軍事国家である江戸幕府の政治体制下では、人民も統制される。全ての日本の人民は徳川の隷属民。今までの世界線とはガラリと変わる。江戸期が現代日本の世界線の礎となる。鎖国だの単一民族だのと言い出したのも江戸期から始まる。

 

先日、斬首動画を上げたロシア兵士がいたという非常に胸糞の悪い事件を聞き、金鎧天神祭祀場にロシア、ウクライナ問題について持って行き場のない想いを伝えに行った。

 

天神祭祀場に供える石を相模川河川敷で拾って来たかったが、河川敷に通じる道が,ない。。。当局の意地悪??すぐそこに川が見えてるのに🥹

 

金鎧天神祭祀場から相模川河川敷までの距離は本当に近い。

天神祭祀場から河川敷は直接行く事が出来ず、間に畑や、樹木林などがあり、容易に行く事が出来ない。

 

これは政府や倭人による妨害なのでは?

天神祭祀場に供えるための丸石は河川敷にたくさんある。丸石を容易に天神祭祀用に持って来られないようにわざと河川敷から天神祭祀場までの道のりを遠くしている意図を感じとれる。

 

遊牧信仰(倭人にとっての異教)を嫌らしく妨げるという意図が感じ取れた。

 

とはいえ、倭人も一概に言えず、蒙古人と共存する倭人もいれば差別する倭人もいる。

 

旧金鎧集落の、新ごみ焼却場建設に反対する会の立て札に書いてある「金田はもう充分協力してきた 建設反対」というのが、色々と考えさせられる。

 

 

河川敷まで遠い遠い道のりであった。その途中には水道橋かガス橋か、管の橋がある。

 

 

 

ようやく河川敷に出られる。

 

 

人が渡れない橋ではあるが、美しい。

自分はこれを、金鎧橋(キンガイキョウ)と勝手に名づける。本当の名称はあるのだろうけど。

 

そして、天神祭祀場に持って行き、手を合わせ、持って行き場のない想いを伝え、世界平和を祈るのだが

 

この金鎧()集落は蒙古集落であったのか?の真相は闇の中。

 

蒙古集落の決定打と思えるものは、天神杜の立て札に書いてある「国土を守護する天の神」という神観。これはモンゴル帝国時代そのものの神観である。倭人は到底こんな発想には至らない。倭人にとって国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(国津神)である。

 

遊牧民は適当に移動して、土地などに執着が無いと思われ勝ちだが、国を築くとなれば何より「領土」を重要視する。つまり国土だ。

 

テングリ祭祀場に関する、モンゴル帝国時代そのままの神観、信仰観を子々孫々に口承で伝えられ、立札に神観、信仰観を記しているというのは、モンゴルの歴史からすれば非常に凄いことではないか。日本という異国にモンゴル帝国の一部がそのままある。

 

口承というものの凄さを知る。金鎧人が日本に来て400-500年経つが、今だ口承が残っている。書物であれば、火災などで焼失してしまえば終わりである。

 

もうひとつは頭文字が「金」で始まっているという事。

 

頭文字が金である金田と、国土を守護する天神の組み合わせというのが、ここは蒙古集落であると決定づけられる。

 

他は何も出て来なかった。遊牧民は足跡を残さない。ゲル地区のような入り組んだ道は、船田人(海賊)と倭人が作ったが、金鎧人は何も手をつけていなかった。後世に残るような建物を建てる事も無かった。

 

 

 

長文のご精読と、今まで蒙古集落跡(金田集落)の記事に付き合って下さいましてありがとうございました。

金鎧集落に出会えた事に感謝致します。

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金鎧集落について 結論(前編)

2023年05月17日 | 自己満

日本国に於いて、遊牧集落の痕跡と、遊牧遺構を探している。

 

結論を出す事は非常に早いと思いますが、いくら探してもこれ以上の物は出てこないという結論に至った。

 

*金鎧集落がなぜ蒙古集落と思うに至ってしまったのか?

 

*金鎧 : 金田を意味する。

 

・活動圏内に「金鎧」という地名の場所を発見。

 

スフバートルコーヒー店から駅までのバスの途中。「金鎧神社前」「金鎧」「金鎧下宿」というバス停があった。「金」はモンゴル語でアルタンという。

アルタンから始まる蒙古地名や人名は山のようにある為、モンゴルを連想させられた。

 

・金鎧(ホントのこと言うと金田という)の漢語表記は何故か「金帳汗国」を連想させられる。これは20223月頃の散歩で座架依橋の途中の道路標識による。(←これは常人には説明出来ない)

 

2023年の初詣。事前に調べた情報の、金田神社で中世に行われていた競馬神事による。

上依知から金鎧までの長距離競馬神事をしていた。それがナーダムのように思えた。

 

・その日のノリで上依知から金鎧までバスに乗って移動してその後、金鎧集落にあるローソンで月餅が食べたくなってくまなく探したが月餅が見当たらない。取り扱いすらない。

そしてあるネタを思い出した。蒙古人に月餅をあげてはいけない。

金鎧集落だから月餅を忌避しているのか?

 

・金鎧集落を実踏。穀倉地帯の目立つ場所に天神杜がある。「国土を守護する天乃神」という神観が倭人のものとは到底思えない。

菅原道真と相殿している。この天神杜はソーハン・ゲレルト氏による宇宙三界観の論文と照らし合わせると、テングリ信仰に思える🪯

 

・金鎧集落は川と川に挟まれたところである。遊牧民は水の近くに宿営する慣習がある。

 

・金鎧の地名の由来は、移動する民による。との事。

 

金鎧集落を蒙古系と特定する理由が、ソーハン・ゲレルト氏の宇宙三界観の論文による。

 

2023/5/15の記事の続き

 

金鎧集落について。訂正。 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

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郷土博物館で係員に資料を見せて頂き、金鎧集落に関するものを以下に大まかにまとめてみた。

 

戦国時代かその前、この地に野盗か野武士だと思われる者たちが現れる。彼らは村々に襲撃や掠奪を繰り返していた。

 

彼らは*船田村を襲撃し、潰し、川と川に挟まれたこの地を拠点にし、活動していた。

 

*船田村 : 船来田明神に豊玉姫を祀る、鎌倉時代にルーツを持つ集落。海洋民族と倭人などの構成員。本間氏族が代々領主を務める。

 

そして彼らは掠奪や狩猟や商売などで生計を立てていた。農業従事はしなかったそうだ。

 

この共同体の長が率いる大半は大永年間(1521-1528)にこの地を離れて流浪し、愛知県西尾市一色町に移住する。

 

しかし一部はここに残留した。

 

残留した人達は、この地の利は商売に適していると判断した為残留した。

 

しかしその中には武将に投降し、武将の正式な武士になる者もいた。

 

金鎧の地名の元となる名称は、戦国時代にはあったそうだ。

 

船田村が潰された時の元村民の生き残りは、少数ながら同じ村に居住していた。船来田明神(後の金鎧神社)が維持されたのも彼らに依るところが大きい。

 

江戸中期、幕藩体制が確立される。中央から管理者が派遣され、金鎧集落も管理下に置かれる。集落には農業従事をする為に土地を与えられた民が流入し、稲作が再開される。

 

金鎧集落の金鎧は、金田となる。

 

明治期に船木田明神は、金田神社となる。

 

戦国時代から江戸中期迄の金鎧集落についてでした。

 

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資料には、蒙古とか突厥とか遊牧民とか放牧など一切書かれていなかった。更にテングリ”“天神”“国土を守護する天乃神オボー石堆積等も一切書かれていない。

 

ここは本当に蒙古集落なのか?

 

船田人と金鎧集落の金鎧の由来となった民は全くの別物だったという予想は当たった。

 

金鎧集落の由来となった民金鎧人と呼ぶが、金鎧人が元々遊牧民だったかどうかは解らない。

 

戦国時代当初は野盗などに村が襲撃され、略奪される事はよくある事だった。それに、この時代は移動する人々が沢山いた。農民が本格的に土地に縛りつけられ移動の自由が無くなったのは江戸時代以降。

 

金鎧の呼び名について。この金鎧というのは正確ではなく、資料館の本には金が頭につく《金なにがしか》といった、よくわかっていない地名だったという。

 

金鎧という呼称は、自分が勝手につけた。金なにがしかといちいち呼んではいられないので金鎧とつけた。

金田となったのは江戸中期以降。

 

当時はキンダと呼ばれていたらしい。

 

自分が金田という漢語表記を極力したがらないのは、といえば農耕民族。それが嫌で嫌で仕方無かった。金なのになぜ田なんだ?この組み合わせの悪さがかえって目を引いたのではないかと思われる。

 

アルタン なのに何故農耕民族の字を充てる?

 

江戸中期以降、蒙古コミュニティーが田化された。

 

放牧地が田化されるという胸糞な話は世界中でよく聞く。

 

誇り高き民が、農奴に転落してしまったかのようだ。

 

よくよく考えてみれば

金田はキンタとも読める。言うまでもないが男性器を連想させられて、フイというロシアで使われる最悪の罵詈雑言を連想する。フイとはロシア語で男性器を意味する。

 

金田と書いてかねだではなく、かなだと読む場合がある。金田(かなだ)のケースではタタラ製鉄などの製鉄業や、冶金(やきん。ちきんではない)などの金属加工の場であったという事例が多い。Kanadaと読む名前の人は製鉄奴隷の後裔である。

 

ウクライナのアゾフスタリや中国新疆のジュンガル盆地をも連想させられる。それは良いとして、どうやらフイと製鉄も関係があるらしい。

フイゴという製鉄に使う道具があるらしく、フイゴという物は馬鹿というニュアンスにも繋がるという…..

 

タタラ製鉄はタタールと関係があるらしく、タタール人はジョチ=ウルス(金帳汗国)の主流民族だった。

 

道路標識の厚木市金田と金田陸橋の金田からは不思議な事に金帳汗国というものを連想してしまう。

 

ロシアもウクライナもジョチ=ウルスの範囲。タタール軛の被害地域。

 

製鉄奴隷は、過去のハザール王国を連想する。製鉄奴隷国家だったらしい。それもウクライナの位置にあった。アゾフスタリ製鉄地域はハザールの系譜を引き継いでいるのか…..

 

ここまで一気に書いてしまった。

いづれにせよ、狭い日本のに縛りつけられるのは良くない。

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金鎧集落について。訂正。

2023年05月15日 | 自己満

⋆金鎧集落。訂正。

⋆金鎧とは金田を意味する

2023/1/23の記事

遊牧アディクトだからしょうがない - カルガリーちゃんねる

で、アルタン神社(金鎧神社)”遊牧神社として説明したが、訂正する。

 

🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊

アルタン神社(金鎧神社)の説明書きで、元々の祭神が解らない、神号は「舶来」

 

祭神を知らない民がこの地に舶で来て定住

 

祭神を知らないという事は倭人ではないという仮説。

 

舶という大型船舶で来日という事は家畜、一族郎党を載せた船舶が倭国日本海側に着いたという仮説。

 

そして船田という地名を舶来牧民が金鎧に改変。

 

という事はここには家畜を飼育している状態の牧民が来日し定住したという仮説。

 

舶来牧民が倭国のそこに辿りついたのは平安から鎌倉。

 

金鎧神社は元は船来田明神といった。

 

金鎧神社と呼ぶのは明治以降。

 

船来田神社の祭神は、牧民集落のシャーマンや族長の先祖霊。

 

船来田明神は遊牧神社

 

明治以降、海神の豊玉姫が祀られる。

🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊

これを訂正する。

 

訂正後

 

🌊金鎧神社は海賊神社であった可能性が高い🌊

 

🌊船来田明神は遊牧神社と書いたが、船田郷に住んでいた民は海洋民族「海賊」だった可能性がある。

 

 

「金鎧という地名・姓の由来」の記事の金鎧を経由し、大永年間(1521-1528)に愛知県西尾市一色町に移住した民。

 

この民が、金鎧の由来。

 

参照記事 2023/3/18の記事

遊牧遺構 - カルガリーちゃんねる

 

によると、鎌倉時代かそれ以前から船田郷に住む、船来田明神を鎮守として祀る集落の民と、戦国時代にこの地に現れ大永年間に愛知県西尾市に移住した民とは別々の民ではないかと思う。

 

船田郷に住む、船来田明神を祀る民を船田人と呼ぶ。

戦国時代にこの地に現れ現在の金鎧の由来となった民を金鎧人と呼ぶ。

 

人のブログ記事によれば、船来田明神の祭神は元々解らなかったのではなく、元から海神を祀っていたという説があった。思うに、船田人は海洋民族(海賊)の可能性がある。神号は「舶来」

 

船来田明神を海賊神社と捉える方が収まる。

 

 

訂正その2

2023/2/25の記事

テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!! - カルガリーちゃんねる

 

🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠

本間氏とは、金鎧神社(当時船来田神社)を建てた地頭という役人である。金鎧に750年間も代々居住し続けている本間氏という者がいるらしい。

おそらくそれが、それだと思う。

地頭は鎌倉時代の警察のような暴力機関と言われていたが、この本間という人物は集落の人民の敵ではなかったようだ。

定住生活を始め、時を経るに従って定住の知恵がついてくるようで、本間氏宅を衛る為に複雑な道が作られたらしい。城下町のように。

 

本間氏はここらへんの領主だったらしい。

 

本間氏という人物は多分、金鎧牧民の首長であったのではないかと思われる。遊牧首長は、世襲制なのか?役人などのように一代限りで終わりなのか?

 

遊牧社会の首長と、倭国の領主と、非常によく似ていると言っても過言ではないようです。

遊牧してれば首長。定住してれば領主。

 

鎌倉幕府は、船田地区の一画に遊牧民を集積しただけだろう。その為か首長制が途絶えず、長年続いたのではないかと思われた。

 

もしも本間氏が遊牧民首長で、強制移民後金鎧地区の領主だったとしたら?!厚木市金鎧という部落は、日本の定住社会におけるガチの遊牧部落である。

 

🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠

これを訂正する。

 

先日、金鎧の健徳寺を実踏した時、本間氏の墓の横の看板に書いてあった。

 

・健徳寺の本間氏累代の墓

本間氏は蒙古から舶来した金鎧人(遊牧民)の首長などではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて相模国に勢力を誇っていた武士。先祖は海老名に住んだ海老原源八季定の次男・能忠とされ、依知郷に本拠を移し活躍したと考えられています。

との事。

 

大いなる勘違いだった。

 

鎌倉時代になって、幕府は船田郷の有力豪族(武士)本間重連をこの地に派遣し、本間氏は領主となる。そこでは倭人と海洋民族(海賊)の領民を統治している。

 

以上

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ハワリンバヤル2023

2023年05月12日 | 中央アジアその他

2023/5/4()練馬区・光が丘公園で開催された、モンゴルの春祭りハワリンバヤルに行ってきた。

 

今年のハワリンバヤルのテーマは

“Welcome to Mongolia”🇲🇳

 

この日は晴天で朝から暑く、昼間は真夏日だった☀️🥵

 

モンゴルの絵本などがミニゲルの中にある。

 

 

モンゴル大使館のゲル

 

その中には立派な絨毯が敷かれて、美しい絵が飾られていて、中央にはテーブル上にお菓子が置かれていた。

 

このお菓子は、お祭りの時に食べるもので、白いものは乳で作られている。ヨーグルトの味を濃くして、甘くない、乳そのものの味だった。

 

モンゴル大使館の職員の話によると、遊牧民は年に8回ほど移動するという。

 

 

 

 

 

人が多く賑わっていた。モンゴルの民族衣装を着ている人、大体はモンゴル人。日本人が晴れ着を着る感覚なのだろうか?この日はモンゴル人にとって祭りである。民族衣装着てるそこらへんの人撮りたくなった。

 

ステージ会場で、モンゴル大使のご挨拶、練馬区の偉い人のご挨拶に続きモリンホール(馬頭琴)の演奏。

11:45「プレ・オープニングセレモニー」

モンゴルメロディ(馬頭琴曲)

馬頭琴演奏者たち

 

 

12:30「キッズコントーション」

キッズコントーション

ノガラ コントーションスタジオ

 

 

サーカス芸のような柔軟芸術

 

12:45「ホーミー」

ホーミー

ダルハチン村上宏冶

 

 

これを見た後席を立つ。この日、サングラスと日傘が無かったらヤバかった☀️🔥🫠🥵

 

ステージでは横笛🪈の演奏🎶これの2曲目の音楽がめちゃめちゃ良かった。モンゴル草原の風と、別の大陸のステップロードの風が上手く融合している。何て曲だろう?また聞きたい。

 

何にしても生演奏に勝るものはない。

 

12:50「モンゴル笛」

モンゴル笛(ホンゴル ズル)

 

飲食の出店が沢山出ていた。まず目を引いたのは羊🐏🐐のスペアリブ🔥

強い火力で焼かれていた。食べてしまったので写真を撮るのを忘れた。いかにも羊らしい味がして、とても美味しかった😋やっぱ骨付き肉はいいね!

 

ボーズも食した。

 

 

 

店によって巻き方が違う🥟でもどこの店のも、日本の餃子皮よりは厚かった。

ボーズは味付けがシンプルで、肉の味がそのまま味わえるのでとても美味しかった!

 

飲食店や物販店などの屋台が立ち並ぶ。

馬乳酒をお土産に買って帰りたいと考え、探して歩くが見つける事が出来なかった。

 

昨年のハワリンバヤルで、*ホルホグで2000円ボられたの様なツイートをしたが、ここでのホルホグの相場は2000円。2500円とか3000とる店もある。

 

*ホルホグ : モンゴル伝統料理のひとつ。羊肉の塊を野菜、塩、香辛料とともに大きな缶に入れ、さらに焼けた石とを交互に詰めて石焼きとしたもの。

 

Wikipediaにはある。

 

昨年のあれは相場だった。

ボーズの相場は1150300

ホーショルの相場は1300400

そんな感じだった。

 

チャチャルガンジュースは今年もあった。今年はチャチャルガンかき氷を食べた。とても暑かった為、とても美味しく感じられた。

 

図書館の2Fで島村一平先生のネット講義を見る。ヒップホップモンゴリアの内容

本には書いてない内容もあり、とても面白かった。

 

最後に家にお土産を購入する。

とある屋台店舗に、ボーズ10個で1500円セットという自宅用土産に最適な商品があった。ボーズ10個セットと、ホーショル1350円のを、3枚購入。

 

今日の記念の為、自分用にハワリンバヤルTシャツを購入。

 

 

 

土産用に購入したボーズが羊の味が濃く、とても美味しかった。

 

ホーショル3枚購入した筈が、嬉しい事に4枚入っていた。

 

実家への土産だが、うちの家族は自分以外、羊肉が苦手だ。魚介や生野菜に限らず、馴染みのない料理、食材には基本手を出さない。

 

家族の喜ぶ顔をそれ程期待してはいないが、自分だけ美味いもの食べてというのは。と思い

喜ぶ筈のない羊肉を買って帰った。

 

ホーショルは羊臭さが少なく、お好み焼きの形に類似していた為、喜ばれた。

 

ボーズの方は、羊味が比較的強い為「羊臭い」と不評だった。元々の味が塩だけで肉の味を強調する調理法の為、羊味が強調された結果だ。

 

練馬区光が丘で開催されるモンゴルイベントに行かないかと母に声を掛けたが、母は「私は…….ちょっと」と

遠慮したので無理に誘わなかった。

 

翌日、ホーショルはよりお好み焼きに酷似した形に調理し直され、ボーズはコチュジャンを塗られ、ポン酢を掛けられた状態で再度食卓に出された。

 

お土産について言えば、気持ちだけは受け取ったと思う。

 

自分は家族に遊牧文化を普及しようと試みたが、無理だった。

多分、今の時点では、羊肉が嫌いだが、世間の風評が「羊肉が美味しい」となれば、羊肉に関心が向くと思う。自分には難しい。

 

家族は基本外国というものに全く興味が無い。

嫌いなのではなく元々関心が無い。

1年前から韓国ドラマと中国ドラマを見るようになり、中国と韓国がこの世に存在するという事をやっと認識出来るようになった。

 

モンゴルの存在を認識出来るようになるのは遠い先だ。

 

今日のハワリンバヤルはとても面白かった。来年はモンゴル相撲を見る事と、モンゴルの衣装を購入しようかと考えている。

 

昨年のハワリンバヤル2022の記事

モンゴルの春祭り・ハワリンバヤルに行ってきた - カルガリーちゃんねる

 

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元帝国と関わりの深い元使五人塚、龍ノ口刑場跡、円覚寺

2023年05月06日 | 遊牧アディクト

GW前に鎌倉に行ってきた。今回取り上げるのは鎌倉にある、元寇ゆかりの場所。

常立寺の元使五人塚の墓参、龍口寺の龍ノ口刑場跡、円覚寺。

 

・常立寺境内「元使五人塚」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

元使五人塚は、元国(蒙古)の使者として日本に派遣され、龍ノ口で処刑された杜世忠ら5人の供養塚。

 

杜世忠らは、文永の役(元寇)があった翌年の1275年(建治元年)415日、日本に服属を求めるため長門国室津に上陸。

 

しかし、捕えられて太宰府に送られた後8月になって関東に送られ、97日、八代執権北条時宗の命により龍ノ口で処刑された。

 

処刑の理由は、

 

 「ここ数年、我が国に使者を派遣して戦術の手段をめぐらしているようだが、今後はたとえ朝廷に貢物を差し上げる使者であっても生かして帰すべきではない」というものだったらしい。

 

常立寺には5基の五輪塔が建てられ、供養されたと伝えられる。

 

 

 

青い布は、モンゴルでは英雄を意味するもので、モンゴル人力士によって巻かれた。

 

201543日、モンゴル人力士たちが訪れ、元使五人塚を墓参した。毎春恒例の巡業「大相撲藤沢場所」を前に実施した事がある。



・龍口寺境内「龍ノ口刑場跡」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。

 

日本に服属を求めた元国の使者ら5人が処刑されたとする場所。

 

しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明。

 

 

ここは慰霊碑。江ノ電から丸見えの立地。この寺院は日蓮聖人の直弟子の日法聖人が延元2(1337)に「龍ノ口法難の霊跡」として建立した。

 

立正安国論を記して鎌倉幕府に呈上した日蓮を捉え、龍ノ口刑場で斬首されそうになった逸話がある。日蓮を土牢から引き出し斬首しようとしたが、(伝承によると)江ノ島方より光の玉がやってきて、光の衝撃で振り下ろした刀が折れ、首を刎ねることができなかったという。日蓮は佐渡に流された。

また、日蓮が斬首される直前に突然の雷雨が起こり、斬首が中止されたという説もある。

 

 

・円覚寺

JR横須賀線 「北鎌倉駅」より徒歩1

 

鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山された。開基である時宗公は18歳で執権職につき、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願された。

 

 

 

その日は主に、元寇の殉死者と、一般住民の犠牲者を追悼する為に円覚寺に寄った。

 

円覚寺は現在でも修行僧を多く抱える。

立ち入り禁止の領域が多く、とても厳かな雰囲気。山の斜面の一部が円覚寺の範囲である。撮影禁止の箇所がとても多く、元寇の殉死者・犠牲者を弔う千体の地蔵の一部が置かれている所も撮影禁止であった為、控えさせて頂いた。

 

元寇というと、日蓮が祈ると嵐が起き、元軍は日本沿岸に辿り着く前に全滅し、日本には一切の打撃が無かったという説がまかり通っている。その嵐を神風とされ、日蓮が元寇の英雄とされている。

しかし、実情は違う。円覚寺はそれを物語っている。

遊牧遺構3 元寇防塁 - カルガリーちゃんねる

 

この記事では文永の役について触れたが、弘安の役については書いていなかった。

後日書こうと思う。

 

・北条時宗公について

 

時の執権北条時宗は生涯を通して元寇に苦悩してきたと言われる。

 

弘安の役の折には、金剛経などを血で写経している。

元寇の後には千体の地蔵を造って円覚寺に奉納し、無学祖元禅師に説法をお願いしている。

 

その裏には言葉で言い尽くせない苦悩があるという。

 

後には「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と詠われて、いかにも腹の座った人物として描かれているようだが、実際には苦悩され続けていたという。

 

そんな苦悩の中で参禅し、無学祖元禅師が心の支えになっていたという。

 

 

終わりに

常立寺境内の元使五人塚では、元使のご冥福と、倭国がしてしまった事を反省した。

そして円覚寺では、元寇の犠牲者・殉死者のご冥福を祈った。

 

元国が倭国に服属を求める事について言えば、断固拒否しなければならない。

 

拒否すれば幾度となく元軍が攻めて来る可能性がある。

 

徹底抗戦する力がどれくらいあったのか分からない。時宗公は本土を血の海にする事を絶対に避けたかったのだろう。武士の数が足らず、一般市民を徴兵しなければならない。心優しい時宗公は、市民を無闇に徴兵する事も極力避けたかったのだろう。

 

元国の使者をこの時に処刑してしまえば、元国も日本にこれ以上関わってこないのではないかと考えたのかもしれない。

 

ひとつ思うのは、朝廷に貢ぎものを捧げる使者になったとすれば自分なら処刑しないだろうな。とは思う。

 

しかしこれは平和ボケの思考なのかも知れない。

 

処刑してしまった事に関しては、いくら考えても何が正しかったのかは解らない。

 

時宗公は、苦悩に苦悩を重ねた末の苦渋の決断だったのかも知れない。

 

ご冥福を祈る他に、何もできませんでした。

コメント
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