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斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

排外主義政党 参政党に投票しました

2025年07月18日 | ザ・日本人の気持ち

カ○ダのアリマンタシォン・クシュタールはセブン&i買収提案を撤回しました。

 

クシュタールは抵抗するものは徹底的にぶっ潰すのかと思ってた。

 

 

SNSで参政党は、気持ち悪い党だと散々書かれていました。SNSの内容を真に受けるジブンは、これを見て参政党はだいぶアタマのイカれた政党だなーと思って、投票を躊躇しました。掲げていることは偏狭で気が狂っていてヤバめな危険政党だと思いましたが、ジブンも「偏狭」な女なので、参政党を笑ってられない。

 

ジブンも考えてる事が極端なので、「グローバル」「サステナブル」「オーガニック」「環境」「自然と人との共存」「多様性」「LGBTq」「ヴィーガン」などにアレルギー反応を起こす。そこら辺はトランプをはじめとする、共和党の愉快な仲間たちと同じである。

 

ジブンはイマイチ、ヴィーガンの定義がわからない。ベジタリアンはわかりやすいがヴィーガンは全くワケがわからない。

 

ヴィーガンは肉、魚、玉子、乳製品は勿論、小麦粉やジャガイモなども食べないらしい…..

ステーキや、モツ煮が喰えない人生を自ら選択している。はんぺんさえも喰えない。畜産農家と小麦、ジャガイモ農家を潰すつもりでいるのかとさえ思える。

 

何を基準に食べるものと食べないものなのかが理解出来ない。イスラム教のハラールのようなものだろう。

 

 

それはそれとして

 

ジブンは参政党に投票した。日本は様々な問題を抱えている。その中でも気になっているのが米国の脅威「関税」と「外国人問題」

 

向こうは初めに高い関税を吹っ掛けて来るが、交渉次第でディスカウントしたりするらしいから、こちらの外交の腕次第だと考えている。

 

「外国人問題」の方がより深刻だとジブンは思う。

外国人問題とは、訪日外国人や不法滞在外国人が巻き起こす犯罪などの迷惑行為や、諍いである。銀座などにいる訪日外国人は、気にならない。しかし円安の影響により、増えた外国人は、善良な市民に限らない。日本人と外国人とで料金を異にする二重価格設定問題も、争点に挙げられていた。

 

犯罪率が高いのは、訪日外国人以上に不法滞在外国人(違法外国人)である。争点には挙げられていないが、ジブンが思うには、この政党が議席獲得したらすべき事は、日本語能力が一定基準以上に満たない外国人は日本に「*定住権」を得られないという法案を通すべきだと思う。

《そんな権利日本の法律用語にあるか知らんが、日本に居住する事》

違法外国人に対する取り締まり、罰則を強化して欲しい。トランプ程の強硬なことは望まない。

 

なぜジブンなんかがそんな事を思かというと、ジブンが働いている職場が、違法外国人にまみれているから。

 

会社にいる、実習生について書いた記事

実習生に対する愚痴 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

トゥラン主義 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

移民まみれのカオス(会社) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

新しいカテゴリー「ザ・日本人の気持ち」を追加した事 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

会社の愚痴 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

ご察し頂きたく思います。

 

自称仕事が出来るといっても日本語が分からなければどうしようもない。意思疏通が出来ない事で日々トラブルが後を絶たない。

 

日本に居住するそこら辺の外国人も同じで、意思疏通が出来ないため、起きなくても良かったトラブルが相次いでいる。

 

実習生は違法外国人である。実習生の定義から著しくかけ離れている。会社はそれが分かっていない。

 

英語が喋れるパートの話によると、実習生は永住目的で日本人と結婚して子をたくさん産んでいる。そして日本国からエグい程金を貰っている。これでは埼玉・川口市のクルド人と同じである。

 

こんな輩と一緒に働きたいとは誰も思わないだろう。

 

日本に流入する違法外国人を野放しにしておけば、日本全土がこの会社のようになる。

車道で、この会社でやっている事と同じ事をする。このまま行くと、日本が荒廃するのは目に見えている。

 

これは会社が完全に悪いが、実習生はボーナスも貰ってるらしいし、日本人のパートより多く貰っている。

 

日本が、違法外国人を甘やかしていれば日本は違法外国人の住みやすい都合のいい国にされてしまう。まるで、皆んなが嫌がるあの「テカる昆虫」の巣窟になってしまう。それも日本在来のそれではなくて、外来性のよりテカった昆虫である。

 

ただ参政党は国民より国家に主権を優先したいらしいのでそれだけがネックである。投票した後で愚痴を言うのもアレではあるが。

 

お読み頂き、ありがとうございます。

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純ジャパの心

2025年05月10日 | ザ・日本人の気持ち

自身、*純ジャパのにっぽん人である故なのかどうか分からないが、言葉で説明つかないような、インバウンド外国人や技能実習生などに対する生理的な嫌悪感を覚える時がある。

 

《純ジャパ:海外渡航経験が全くない日本人》

 

自分は“にっぽん人”なりの独特の傾向が相当強いと自身で感じている。

 

 

以下、自分は独特だろうと思う感性について書く。他の日本人も共感する部分もあるかも知れない。

 

 

これから日本に居住しようと思っている外国人に対して、“にっぽん人”にはこういう傾向もある。という事を頭に入れておくことを勧める。

 

大半の日本人にも、私と共通要素はあるはずと思っている。しかし私には外国の要素はない。日本人と自分はウマが合う部分もあるかも知れないが、外国人とは全く共通点が無い為、実習生などに対する嫌悪感が人一倍強いのではないかと考えている。それを差別的と捉えるか否かは、貴女(方)次第だ。

 

*ネット上、音楽、映画、動画配信などコンテンツ上の外国人、Liveステージ上の外国人、エスニック料理、雑貨、舞踊などの外国文化などは此れに当てはまらない。

 

 

以下は、私が“純ジャパのにっぽん人”である事の心理面・性格面が強く出ていると感じる特徴を挙げつらった。

 

・多様性への耐性が低い。

外国人の身体の動きにここまで過敏な人間は他にいないと思う。外国人は日本人とは身体の動かし方が違って見える。それに違和感を覚えてしまう。

 

 

・パーソナルスペースが広い。侵害されると萎える。

 

・大きな音を立てられる事が大嫌い

 

・大声(罵声、怒声)を出す事はそれだけでゲームオーバー

 

・無駄に大きい声で喋る女性が苦手

 

・甘えたような声を出す女性が苦手

 

・とってつけたように、わざとらしく感情を表に出す女性が苦手

 

 

・焦る、荒立てる動作が大嫌い。

急いでもいないのに焦っているような動作。トイレなどで紙を延々使う。ドアを力まかせに閉める。

 

・おっとりしている

 

・超絶の人見知り(シャイ)

 

・人に関与されたくない

煽り運転、煽り歩行などの妨害行為などは関与されているように感じる。無音でいきなり接近する事も関与。用もなくジーッと監視するのも関与。身体の一部を意味なく触れてくるのも関与。身体がやむなく触れてしまった時に逐一「すいません」を言うのも関与。

 

 

・対人関係に於いて非常に消極的

自分から話題を切り出せない。聞かれたら答えるだけ。受身オンリー。自分から挨拶出来る人は非常に限られている。それ以外は怖い。友好的な部類の人はさほど怖くない。

 

 

・ハッキリしない性格。

直接的な表現を人にぶつける事が極端に苦手。率直にモノが言えず、奥歯にモノが詰まったような、まわりくどい言い回しをしてしまう。そして曖昧な態度になる。

 

・ハッキリした人が苦手。ドストレートにモノを言う人が怖い。会話のテンポが遅いと直に言われたとき恐怖を覚えた。

 

・人と接する時は身構える。その人を刺激しちゃったらどうしようかと不穏な気持ちになる。

 

・フラットな関係性が苦手。縦の関係性では、何かの“ポジションとしての役割”で関係性が築けるが、フラットだと何もないからどうやって接していいかわからない。

 

・見えない境界を意識してしまう。自分は自分、貴女は貴女。ズカズカ入り込んで来る相手には、“余計な口出しすんな。”という内容を超絶まわりくどい言い方で伝えて、線引きしてしまう。

 

・話をしている途中に、笑いを入れてくる人が苦手。

 

・道路上でチラシを配る行為は進路妨害。

関与されてるような錯覚。

 

・路上でのセールストーク、うるさいと感じる。

 

 

 

はっきりしない気質は日本だから通用する。こちらがなんにも言わなくても、まわりが察してくれて、動いてくれる。海外や、特に多元文化社会であるアメリカやロシアなどでは通用しない。海外向きは率直でド直球でモノが言えるタイプの人。

 

 

私はやっぱり日本向き。

 

 

日本仕様だからこその私。

 

周りに恩返しする為にも、「察せれる人にならないと」と反省の毎日

 

 

言葉を口に出す事がもの凄く苦手で、億劫である。小さい時から、親に「口で言いなさい!」と無限に叱られてきた女の子です。

 

 

これから日本に居住しようと思っている外国人の皆様へ。

 

我々日本人を威嚇したり刺激したりしないで下さい。

 

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

*私は日本人の模範ではないので悪しからず。

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実習生に対する愚痴

2025年05月03日 | ザ・日本人の気持ち

まとまりのない文章ですみません。この記事を読んだ方は私が差別主義者だとドン引きすると思う心の声ダダ漏れの記事。

 

私は実習生に関与されるのが本当に嫌である。

 

実習生らは、互いに面識もないのに、狭いところをすれ違いざまに、私の腕や肘などを掴んでくる。並んでる時背中を指先で触ることもある。

 

これは実習生などの外国人に限らず、日本人から無意味に身体を触られても非常に嫌悪を覚える。

 

日本人は無意味に触ろうとはして来ない。むしろ、少し触れただけでもいちいち「すいません」と謝る。それもウザい。

 

日本にはスキンシップの文化が初めから存在しない。だから余計にウザさ嫌悪を感じる。

 

男女の営みと、親が子を抱く、背負う、殴り合う以外は、個体同士身体が触れ合うことなどない。キスの文化も握手の文化も無かった。

 

外国人に対する嫌悪は、社屋の物理的な狭さに起因するものと、自分の皮膚感覚による。

 

この会社の日本人労働者全てが、私ほど過剰に嫌がってはいないということがわかった。

 

他の日本人労働者の殆どが、外国人に対して嫌悪感や危機感を持ってはいないようだった。私の思い過ごしだった。彼らは、差別主義者だと思われたくはないから、そんな話題をお首にも出さないのだろうか?私は、日本人労働者全員が、奴らを嫌悪してるだろうと考えていた。陰口叩く対象も同僚の日本人のパートのおばさんについて。外国人に対しての陰口は聞いた事がない。外国人について陰口の材料が山ほどあるだろうに。

 

 

唯一陰口を聞くとすれば会社の清掃員が、国際線旅客ターミナルのトイレの状況の愚痴をこぼすような内容であった。清掃員に奴らの何が嫌か聞いたところ、声がうるさい、仕事サボってトイレで時間を潰すという不真面目さ、トイレで菓子喰ってる、ロッカー室で菓子喰ってる、喋るなと書いてあるのに大声で喋るという、会社の規則を守らない等。汚すというのが一番気に食わないという。清掃員だから当然。

 

会社は何故そんな奴らをクビにしないのか?

 

清掃員からの又聞きによると、20代のカタコト日本語しか出来ない実習生が、自分の方が手が速く、器用だから、日本人パート労働者に「お前引っ込んでろ!私やる!」と強い口調でやり込めていたらしい。パートにしたら地獄だ。

 

日本人のおばさんに対して「邪魔!」と言ってどかしたらしい。

 

ヒドイカタコトを覚えたと思って感心する

 

日本人労働者の大半は懐が深かった。外国人の存在など全然気にしていないようだった。私の共感者など、ほぼいない事は確定。私は大半の人と感覚とか色々が違うのかと不安になったりしたが、今に始まったことじゃない。

 

私は日本生まれて日本育ちなので、純然たる“にっぽん人気質”である。その上、日本から出たことはない。その為か知らないが、そういう感覚が非常に偏狭である。

 

日本には元々日本人しか存在しなかった。他国人に土足で踏み込まれたら嫌悪、憎悪しか感じない。それがにっぽん人の正しい感性だと思う。

 

実習生の多くは、私のすぐ後ろを延々びったりとせっついて来る。私が足速に逃げると、実習生も追って来て、再びすぐ後ろに張り付く。別の実習生は、後ろから足速に迫ってきて、真横に来て私の方へ寄って来る幅寄せのようなことをする。また別の個体は、ニョロッと真前に来て、ノロノロと歩く。数人の実習生の群れは、私の顔を、私がその場から通り過ぎるまでジーッと監視する。私だけが実習生の外国人共にバカにされてるのかと思ってたら、他の日本人にもそれをやっていた。日本人に限らず同国人や別の外国人にもやっていた。実習生から干渉されてる(ちょっかいを掛けられている)ようで、非常に不快である。極力奴らとは関わりたくはない。これは嫌がらせなのか、単なる無神経なのか。

 

日本人のパートのおばちゃんは、日本語が出来る実習生に対しては友好的である。

 

この文章を何度も見ているうちに、煽り運転に似ていると感じた。

 

煽り歩行。などという行為はあるのだろうか?

 

こんな事を会社内で日常的にやられていてはストレスが溜まる一方で、心の余裕がなくなるのである。自宅に帰っても何故か落ち着かない。会社での仕事とは無関係なストレスが溜まる。

 

横入りは、明らかに不正行為だから正論でぶっとばしていい。逆上したらぶっとばしていい。

 

しかし、廊下での件は“不正行為”に当たるのか、煽り運転は“犯罪”だが、煽り歩行という事態は存在するのか。でもそれが、故意のものではなくただの無神経だったら、その場で「どけ」という他はない。ホンネを言えばボコボコにしたい。

 

実習生は、狭い場所に立ちはだかり、全くどかない。事が済んだらさっさと行くだろと思いきや、モタモタして事を終わらせない。奴らは、こちら側に「すみません」と言う声掛けをさせる方向に持っていこうとする。

 

奴らは注意を向けさせようとする。奴らが完全に“我関せず”で無神経あれば、ウザくないのだが、そうでもない。逆に“こっちに関心向けて”(所謂“構って”)のような様子であり、故意にモタついている。実習生がどくまで、気づいてないふりをして待っていた事があるが、それをやると5分でも10分でもどかない。

 

こちらが「すみません」と言うと、実習生は事をすぐに終わらせて、頭を下げたあと、すぐに立ち去るわけでもなく、静止して暫くこちらの顔をジーッと監視する。日本人というものと会話する機会を伺っていたのか?それなら自分から何か話し掛けて来れば良いのだが、そういうわけでも無さそうで、監視するような態度をとる。こちらは実習生なんかと会話する気はさらさら無いので、我関せずな態度でいる。

 

なんなの?気持ち悪い。

 

どうせ日本語わかんねーんだろ?

 

言える人なら「あっちへ行け!」と言えるだろう。

 

私は、純然たる、にっぽん人気質なので、直接的な言い方を人にぶつける事が極端に苦手である。それが、私の最大の“弱さ”である。

 

ワンクッションある言い回しでは、絶対に動かない。

 

「邪魔だからどいて下さい!」ぐらい強く直接的に言わないと、奴らは決して動かない。そこが最大のネックである。日本語が分かっていても分からないふりをする。日本人を完全に舐めている。どうせ日本人は大人しいから何も言えないだろうと。

 

にっぽん人は、腹の底では殴りたいと思っている。友好的に見えるおばちゃん達も、腹の底では殴りたいと思っているのかも知れない。それこそにっぽん人の良いところであり、悪いところでもある。

 

人をどかす系の言葉は、私は極力使いたくはない。にっぽん人はトラブルを最も嫌うので、大半はそうであろうと思う。接触トラブルというものを嫌う。満員電車の中で肘の突き合いがよく起こるのも日本の特徴だろう。「邪魔だからどけ」などと言ったら殺されるに決まっている。日本人同士を近づけ過ぎると喧嘩をする。東南アジアなどの人口過密都市などで暮らす人は、接触トラブルなど何も懸念せず暮らすのだろうか?随分と寛容な人たちだな。実習生らは人と人との接触トラブルの怖さを知らないのだろうか?

 

 

日本人は、無言で不用意に近づいて来る奴に恐怖を覚える。そういう皮膚感覚だ。だから、用がなければ極力物理的な距離を取る。

 

逆に実習生は、日本人の事が全く気にならないのかも知れない。実習生たちの祖国は東南アジアの国である。アジアの超絶過密空間などに比べれば、この会社など屁でもないのだろう。奴らはこの会社を空間の広い場所だと感じているのかも知れない。広いから日本人の動きや様々なことが気にならない。だから日本人のパーソナルスペースへの配慮など懸念せず傍若無人に動きまわる。

 

日本人の懐の深さと、東南アジア人の寛容さとで、両者は折り合いがついているのだろう。

 

奴らの身体の動きは、クネクネしている感じで気色悪い。そして、前から歩いて来る場合でも、幅寄せをするように、人の歩いている方に近づいてくる。一種の侵害かと思う。

 

実習生はしょんべんくさい中学生ぐらいにしか見えなくて、学校文化を彷彿させられる。実習生は20代しかいないと思っていたが、30代も40代もいる。30代40代にもなって、連れションをする。そして、甲高い声で騒ぐ。東南アジア出身の人は、群れを好む。その点、日本人と似ている。日本人と同じ、稲作農耕民族だから共通点が多いとは思う。だから過干渉な性質があるのかも知れない。

 

何かと“関与”してくる

 

嗚呼ウザいウザいウザいウザい!!!

 

会社から派遣がいなくなって、人が減った事によって殊更、実習生による“煽り歩行”の傾向が目立つようになった。

 

愚痴ばっかですまん。

 

長文のご精読ありがとうございます

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いつまでも繰り返し書いてしまうネタ

2024年11月17日 | ザ・日本人の気持ち

いつまでもこういうネタを卒業出来ない。

 

テュルク友の会いいなぁと思っているが、私は友達など要らない。欲しいのは“同志”。友達って何話したら良いか分からないし、どう関係を構築して良いのかも分からない。自分は用が無ければ自分から話しかけるタイプでは決してないし、自分から人助けをするタイプでもない。但し、これはヤバいと思った時や、“人”として自分はどうなんだろう?という時には人助けをする場合はある。愛や思いやりなどではなく「義務感」で動く事が多い。

 

テュルク友の会は、「友」ではあるが「同志」の色が濃いので好もしい。「同志」の世界では、いわゆる「友達」、「仲間」、「みんな」と言った関係にありがちな「村八分」とか、「絆」で人を縛り付ける、「同調圧」などは存在しなさそうである。古参、新参、俄かなどの序列的な位置はあるが、それが良い。古参から教えて貰えば良いのだから、それだけで関係は成立する。古参が生理的に合わない奴だったらしょうがないが、気にならなければ良い。

 

趣味友達を作れば良いと大人たちからアドバイスされるが、友達を作る為に興味のない「趣味」をわざわざ作らなきゃいけないというのは疲弊するので、出来れば興味をそそられる分野での「同志」が欲しい。

 

自分の興味を唆られる分野というのは、非常に限定的で、大多数の日本人が興味を持たない分野である。

 

それが「テュルク」言い換えれば「突厥(トッケツ)」

世界史の授業に出て来る北方遊牧国家の、あの「突厥」である。“トルコ”という意味でもある。その後裔が現在も連綿と続いている。突厥族は、アルタイ山脈が故地である。アルタイ山脈は金や鉄鉱石が豊富で、突厥の民は鉄鋼技術に優れていた。遊牧民族は製鉄民族とも言われる。

 

 

何故テュルクか?その発端はSUM41(かつては蒙古斑と呼んでいた)

SUM41の音楽は素晴らしく、大衆ウケすると言われる(キャッチーと言われる部類)が、同時に、テュルク音楽でもある。テュルクのルーツを持つ人間から紡ぎ出されるメロディー。これは貴重な事だ。これが世界でウケている。辺境の民族が世界ウケという数奇な運命。

 

SUM41の公式プロフィールには「北米出身」と書いてある為、聞く側の刷り込みで、キャッチーでポップに聞こえるが、これの作曲者がテュルク系民族だと知るとキャッチーに留まらず、なかなか深い味わいがあるように聞こえる。自分でもテュルク贔屓だと感じるところだ。

 

SUM41 はトロントでレーベルと契約したので、トロント出身とされている。

 

SUM41の同志と親密にすれば良いと思ったが、彼らは2025/1月を以て解散に向かう。もし解散せず、続くのであればファン・サークルに入り、日本ライブを毎回参戦する予定だった。

 

テュルク友の会については、後でじっくりと読む。自分はテュルクについても「俄か」である。

 

テュルク系民族は、同じ語族の人間が国境を超えて世界的に存在する。テュルクというアイディンティティで生きている。そして、同じテュルク系民族には、何事にもいち早く手を差し伸べる。ユダヤ人というのと似ているが、ユダヤ人と違うのは、テュルクという語族や血統で繋がっていること。ユダヤ人はユダヤ教という宗教で繋がっている。

 

 

日本人という生き方とおおよそ真逆である。日本人は、“日本”という国民国家の民だから“日本人”である。それは、”アメリカ人“とか”中国人“と言っているのと同じだ。

日本は“ひとつの民族ひとつの国家”だと言われている。日本人は日本語を話す人しかいないので、単一民族とされている(が、沖縄には琉球語、北海道にはアイヌ語の話者がいるので、単一民族というのは適切ではない。)。

 

テュルク系民族はというと、説明するのが無茶苦茶難しい。テュルク系民族は、突厥国の末裔。トルコ人を始めとし、トゥバ人、タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、サハ(ヤクート)人、カザフ人、ウズベク人、ウイグル人その他含まれる。夥しい数の言語分岐があるが、皆テュルク系民族という自認(アイディンティティ)である。そして多様性もある。

 

テュルク語族とは、ウラル・アルタイ語族→アルタイ語派→テュルク語系。話される地域は、アナトリア、中央アジア、中国西部、シベリア南部、シベリア東部など。広範囲に居住しているが、何百年経っても突厥国の末裔という事が維持されている。

 

日本語は、残念ながらウラル・アルタイ語族では全くなく、完全な“孤立言語”。

 

朝鮮語はウラル・アルタイ語族→アルタイ語派→ツングース語系の下位言語である。

 

 

日本人については、最近の研究でやっと分かって来た事がたくさんある。それも、次から次へと色んな説が出て来て、次々と覆される。

 

自分が以前書いた記事では、日本人の大半は、太古人種の血の方が大陸からの渡来人の血より濃いという。

 

しかし、これを覆す研究結果が次々出て来た。学術論文でも色んな事を唱える人がいて、日本人のルーツについては未だ謎のままだ。これは多分、永遠の謎である。

 

蒙古襞(モウコヒダ)という目頭のヒダがある人が新モンゴロイド(大陸から渡航した弥生人)。無い人が古モンゴロイド(縄文人)という文献はなかなか説得力があると思っていたのだが。

 

文献によっては天皇家も縄文系だという。

 

もう、滅茶苦茶だ。

 

日本人のルーツについての論は幾ら覆されようと、我々の根底には美しい縄文の血が流れていて、縄文太古からの“和”の精神が生きている事実は動かしようがない。

 

 

昨年、自分の遺伝子をマイ・ヘリテージ社で調べたら“100%アジア日本”だった。何をもって100%日本人と言っているのか?これは勝手な解釈だが、これは100%縄文人という事なのではないだろうか?と考えた。でも、よくわからない。

 

縄文人と言っても単一種族ではない。北方の大陸から氷河期に移住して来た人の一部は、ケルト人などと血縁的繋がりがあると言われている。こういう遺伝子を検知しても100%日本人という結果を出すのだろうか?

 

日本人のように孤立言語を話し、自分たちのルーツが分からないという国民は世界中どこを探しても存在しない。ただひとつ言えるのは、日本民族というまとまった種族的集団が、どこかから一度に渡って来たわけではないという事。

 

アメリカ人でも自分のルーツはケルト系とか、イタリア系とかそういう事を良く分かっている。尤も、歴史の浅い国だから自分のルーツがまだ分かる。

 

日本人は日本人というアイディンティティ以外何も無くても、生きていく上で何も不自由はしない。何とも不思議なのが、大半の日本人は自分の根源的なルーツについて考えないし、そんな話題を口にする者がいない。そんな話をする事自体がタブーなのかと思えるが、そういうわけでもないようで、自分の根源的なルーツという発想が無いようなのである。大半の日本人はそんな事を考えることなく、生涯を終える。

 

テュルク系民族に限らず、欧州人、中国人、朝鮮人などは、一千年以上昔のルーツについて、一族で情報が共有されている、という話はよく聞く。

 

サカナクションのアイデンティティという楽曲がたまにラジオで流れる。これを聞くたびに、自分の事を言われているのかと思う。

 

日本でのアイデンティティとは、メンタル面での自立や、自分の道とか、自分のライフワークという意味合いである。自分はまだ、メンタル的な観点での「アイデンティティ」を確立してはいない。

 

周囲の人間に民族的ルーツのアイデンティティの話をすると、そんな下らない事考えてないで、自分の道見つける事の方が優先だよ。

 

老後の心配したら?。勉強したら?。そんな事より周囲の顔色気にした方があんたの為だよ。人と会話する事覚えなよ。

 

頭の中幼稚だね。他にもっと考える事あるでしょ。そんな事気にしなくてもいいよ。

 

外国人ルーツがあっても現世の人間には何の影響もない。暇だね。そんな不毛な事に時間を割くのは無駄。ずいぶん変わったこと考える人だね。

 

怒った事ある?。不思議な人。そんなんだから友達出来ないんだよ。気持ち悪いなぁ。

 

などと言われ、ないがしろにされる。この頃の周囲とは、高校の同期。

 

それに懲りて、それ以来、周囲にはこんな話を一切しなくなった。

 

日本人にはその手の話はアホらしくてタブーのようだ。人間の根源的な問題なのに、否定される。

 

日本には、そのようなものは存在しない。

 

 

昨年、両親にこの話しをしたら、昔の征服王朝説を言う。大陸にいた“倭(和)民族”が天皇家を頂点にして、縄文時代に、馬に乗って日本列島を侵略し、縄文人を北と南に追いやった。北がアイヌで南は琉球。琉球人を先住民と言っていた。未だそういう認識である。縄文人を日本人と見做していなかった。学校の教科書で習った通りの事を言う。

 

自分の遺伝子検査の結果が、100%日本人と出たのでこれは100%縄文人の家系決定だと思うが、当の両親は全く考えもしない。その事を伝えたら、純粋な“和族”なんだろ?日本人なんだから当然。ぐらいの答えで笑っていた。これ以上もう、何も言う気は起きなかった。

 

神棚を飾る慣習が無い事自体が、うちは、縄文系であると思うが。神棚に祀られている神は「天神」「地祇」で言う「天神」に属する方で「タカマノハラの神」である。これは“和族”が大陸から持って来た神である。両親は、自分たちが縄文ルーツであるのに、それも自認してないのか。何も先代から伝承されて無いのか。哀しい。

 

マイ・ヘリテージの結果も、正しい意味がよく分からないので、自身が100%縄文(うちが縄文家系)なのか?本当のところは何も分からない。

 

私を否定、卑下した高校同期の人たちは自分のルーツについてどう思っているんだろう。多分、そんな暇じゃないと思うので、そんな事は生涯考えもしないのだろう。

 

その中の数人は、弁護士になったり、ファイナンシャルプランナーになったり、一級建築士になったりした、らしい。同期事情に詳しい同期から聞いた。

 

彼女らは、そんな無駄な事を考えずに、自分の将来を見つめ、勉強して自分の道を見つけたのだろう。それこそ、日本で言う、アイデンティティを確立している。私は何ものでもない。何にもなれなかった。

 

自分の根源的な民族的ルーツが分かれば、自分のライフワークや道を見つけるなど、何か開けてきたり、前へ進めるのだろうかと考えていた。

 

 

自分は子供の頃より将来の夢が無かった。将来の職業というものが、何をどうやってもどう考えても、考えつかなかった。何にも興味を持てなかった。当時はネットがあったわけでは無かったし、自分には情報交換が出来る友達というものがいなかった。

 

高校の時の担任の英語の先生は、ある時、自分の何代か前の先祖はロシア人だと授業中に言い出した。彼女にはロシア的な特徴など皆無だった。それなのにロシアンルーツがあるのが不思議だった。

 

そして、何を勘違いしたのか自分にもロシアンルーツがあるような気がしてきたのだった。先生は、自分の血統を長年恨んで来たという。その気持ちが全く理解出来なかった。

 

自分のアイデンティティ(民族的自認)に悩みがある人がとても羨ましかった。

 

自分にはそもそもアイデンティティが無い。“日本人”というのはアイデンティティではない。世界からの寄せ集めであって、日本という国民国家の民であるというだけ。自分は何処から来て、どのような本性を持っていて、どう生きるべきか。自分の本性に沿った生き方をしたいので、そこを知りたいが、それが叶わない。“日本人”というアイデンティティで片付けられてしまうと、“神経質なムラ社会”から逸脱出来ない存在にされて、縛りつけられているように感じる。アンタはそういう存在だと決めつけられているというか。もちろんこの意味の日本とは、戦後日本を指す。

 

日本の八百万の神(アミニズム)が連綿と残っているところ、日本人特有の、人の心の奥の奥を読んで行動する所や、和の精神も素晴らしい。日本の美しい自然にも恵まれているし、日本人に生まれたことを感謝している。そして日本の文化は外国人からも評価されている。

 

しかし、「私は日本人です。」と対外国人に言い切れる程、繊細な神経の持ち主では決してない。日本人は空気を読んだり、察したり出来る、非常に細やかな神経の持ち主であるが、それが素晴らしいと評価されている。自分はそこが、全く当てはまらない。日本人の得意とされる分野は、自分にとって苦手である。

 

 

その頃の自分は多分、変身願望に近いものを、ありもしないロシアンルーツに求めていたんだと思われる。それと、海外への都合の良い勘違い。外国人はハッピーで、気さくで、村八分や束縛や干渉などをしないおおらかな人たちだと思っていた。

 

偏狭で、少しでも空気読めなかったりしただけで村八分にされる、人間関係が不自由な、戦後日本要素が嫌いだった事もあった。当時の日本の学校文化。右へ倣え。みんなおんなじ。同調圧力。協調しなさい。などが馴染めなかった事もあり、自分の中に海外ルーツがあったらいいなぁ。と夢想していたのだと思う。周囲の人間に嫌われ、人間関係が構築できなかった、変わり者の自分をありもしない「海外ルーツ」のせいにしようとしていた。しかし学校には、フィリピンハーフの子もいて、彼女は友達も多く、違和感なく周囲に溶け込んでいた。

 

自分が興味のある事は周囲の女子が全く興味がなく、周囲が興味がある事は、自分が全く興味がない。どうしても話が合わない。何を話したらいいんだ?自分は人の欠点に関心が無いから、人の陰口の同調を求められても、「そうなの?」と言うぐらいで応じる事が出来ない。変に陰口に同調して、自分の信用を失墜させるのは良くない事なので、高校同期の軽はずみな陰口には非常に警戒していた。そうしているうちに、いつの間にか村八分を喰らい、集団無視されてしまった。それ以来、その学年が終わるまで、ぼっちで行動するようになる。

 

クラス中で、カルガリーさんは会話成立しないしキモい人だから…と言われていた。用があって話し掛けても完全にシカト決め込まれていた。クラス全体で集団無視。クラス中から常に監視されて、定点観測されていた。空気が読めない人への制裁であった。女子校では日常茶飯である。

 

自分の10代後半は、とにかく周囲と噛み合わなかった。学校には友達がいようといまいと、勉強をしなければいけないので、皆勤で通っていたが、学校からはその年、皆勤賞で表彰されなかった。泣き寝入りしたが、担任側もこんな奴目障りだし来て欲しくは無かったのだろう。私立は依怙贔屓激しいと思った。嫌いな生徒は評価しない。

 

冷静に考えて見れば、16-17歳の年頃の女子の目から見れば、自分の根源的なルーツの話なんかを同い年がしてたらかえって不気味に映ると思う。いい歳をしてこんな事、普通の人間は口にしない。

 

 

遊牧趣味から得られた興味関心は、畜産業や鉄鋼業や鉱物である。これが自分がまだ高校生ぐらいだったら、親に懇願して、ロシア(Санкт-Петербургский государственный горный институт (технический университет)имени Г.В Плеханова《サンクトペテルブルク国立鉱山大学》)

やカナダ(北米)(Haileybury School of Mines《ハイレイバリー鉱山学校》)の鉱山学校に留学したいと言っていただろうと思われる。日本に帰って来ても就職先は無いと思うが、ロシアなどで就職し、結婚し、家庭を築いて、骨を埋めているだろう。

 

この歳になっても自分に「海外ルーツ」を求めるなどという幼稚な事をしてしまう。気が緩んだ時などは、寝る寸前に自分の中に海外ルーツが流れているのではないかと考えてしまう。そういう時は仕事上のミスをやらかしたり、スランプの前触れである。気を張っていればそんな幼稚なことがよぎったりしないが、ダラけて来るとすぐそちらに逃げてしまう。

 

長文のご精読ありがとうございます😭

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和の精神についてその2。欧米文化との比較。

2024年10月27日 | ザ・日本人の気持ち

先週は、縄文時代から脈脈と受け継がれてきた「和」の精神について書いた。

「和」の精神の根本とは「隣人に対する恐怖心」と結論づけた。

これは、日本人独特のものだと思う。

日本人のタテマエとホンネというのも「和」の精神の裏返しと言われるが、これも説明がつく。

タテマエでは「貴方に対して敵意はありませんよ」という友好的な態度で接するが、内心は、相手の悪口、罵詈雑言。そして、家族や親友や、職場の信用できる女子社員なんかにホンネの陰口を叩く。

これも直接相手とのトラブルを防止する為であるが、女子社員が背信したら喧嘩になる。

これも日本人独特なものである。

これは西洋人、東洋人、東南アジア人関係なく、外国人であれば、速攻ホンネを直に相手に、直接的表現で言ってしまう。外国人は、本当に敵意のない相手にはそこそこ友好的に接するが、敵意のある相手には直接敵意を剥き出しに接する。嫌いな人には挨拶をしない。無視するという事がザラである。心にもない挨拶をしたり、社交辞令を言ったり、お世辞を言ったり、相手に興味もないのにエレベーターの中でお天気の話をしたりはしない。

日本人、特に昭和前半世代の方は、自分から話し掛けなければ相手に対して失礼という感覚があるようなので、顔見知りでも何でも無い人間に対しても儀礼的に話し掛ける。「相手に対して失礼」という感覚も古今東西の外国人には存在しない。

(*外国人と一括りにしているが、個体差はある。)

 

外国人は、「日本人はハッタリをよくかます」と言うが、これも「和」の精神、相手に対する畏怖から来るのである。

そこらへんも「日本の常識、世界の非常識」である。中年日本人男性に、軽いエレベータートークをされた英語圏出身の女性ユーチューバーは驚いて、途中でエレベーターを降りてしまったというエピソードがあった。エレベータートークがセクハラに聞こえたらしい。ナンパされたような気がしてとても怖かったという。

自分が思うに、彼は英語圏女性(ガイジン)に個人的には何の興味も無かったと感じる。ただ、慣習的に「これから何処行くの?」と何の気なしに、挨拶程度に聞いてしまったのだと思われる。これは日本人にしか理解出来ないだろう。

(*個体差はある)

 

ガイジンは、ナンパぐらいにしか捉えない頭の中身である。日本文化の洗礼を受けましたね艸としか思えない。

これがもし若いイケメンだったらガイジンの女の態度も違っただろう。多分彼も貴女に興味も関心もないと思います。

日本人は実は外交上手なのかと思える。

しかしバブル崩壊以降、互いに「儀礼トーク」や「ハッタリといわれるトーク」がかませなくなってしまった。タテマエ、ホンネの日本人だったものが、変容してしまった。互いに疎遠になり何かにつけてプライバシー侵害だのハラスメントだの言うようになってしまった。そして、社内の人間との飲みニケーション的な交流も拒否するようになった。企業風土が、無味乾燥で、職場には仕事の為だけに来ている、個人情報を相手に聞いてはいけないというコンプライアンスが出来る。何かにつけて規則。古き良きアットホームな仲の良さは無くなった。

(*全体としての傾向という話で、企業文化による)

 

古き良き企業は、人脈の力で営業が上手く行っていた。しかし現在の令和日本では、人脈の力が企業に影響をあたえるという事はない世知辛い時代である。

現代人が大好きなハラスメントやプライバシーという言葉。

(*人による)

 

高校ときの英語の授業で、とても印象深かった内容がある。「プライバシー」という言葉は、ガソリンスタンドと同様に和製英語である。ネイティブ英語では「ガス・ステーション」という。

「ガソリンスタンド」という和製英語は、日本人だけが日本で使い、ネイティブが使う事はない。

しかし「プライバシー」という言葉は日本で生まれた和製英語だが、欧米に渡り現地では本来とは違う意味で使われ日本に逆輸入されてきた。

そういう語がいくつかあると言っていた。「フレンドリー」も和製英語で、欧米に渡り、これも本来と違った意味で現地で使われ日本に逆輸入された。「バウンダリー」という言葉も和製英語である。

先生はこの3つは元々「和」の精神と関わりが深いと言ってた。

「プライバシー」というのは、英語の「プライベート」という言葉を日本語化した。「プライバシー」の元々の日本語の意味は、「隠居」や「他人に邪魔されない生活」である。この概念を一語に表現したかった日本人は英語を借用し、この言葉を作った。

欧米でのプライバシーの捉え方は「個人情報」という限定的な意味で使われる。

 

「フレンドリー」は「フレンド」という言葉を日本語化した。日本語での本来の意味は「友好的」である。「貴方に敵意はありません」という態度を一語で表したかったのだろう。友好的という本来の意味がありながら、横文字化している。

欧米でのフレンドリーの捉え方は「気さくな」とか「誰とでも友達になる」という友達100人出来るかな?のようなニュアンスだ。欧米は過剰な競争社会で、成功者をはじめとする上流階級では、友達が多い事でマウントをとる。成功者は友達が多い事がステータスである。彼らは盛大な社交パーティーを開き、友達の多さを自慢する。

パーティー参加者は皆仲が良いわけではなく成功者の「友達」というサクラとして利用されている。まるで政治パーティーだ。いわゆる「サクラ」は高級食材などの餌に釣られて参加しているだけである。欧米人は日本人に比べてチョロいので、釣られやすい。雑魚欧米人(平民階級)はこじんまりとホームパーティーをする。

社交界文化(貴族文化)のある欧米諸国では、友達をたくさん作る必要性があるので、フレンドリーが、ズカズカと相手に踏み込み強引に友達になるようなニュアンスになる。どちらかというと「対人積極性」というニュアンス。欧米の貧富格差は凄ましい。しかし欧米人は総じて友達を作ることに「積極的」だ。

(*個体差はあるが、欧米ではそういう風潮がある)

 

日本の採用人事界隈では、ごく親しい知人が2〜3人いると言えば心象が良い。友達がたくさんいると言うと、八方美人で、信用がない人だという印象がある。更に「友達」という言葉が“マブダチ”のようで心象が悪いと感じる人もいる。

(*採用担当による)

 

元来日本には「友達」という概念が無かった。明治まで、横並びの社会が歴史上全く無く、幼い頃は横並びに付き合うが、一生付き合う事は少ない。「幼馴染」という概念はあるが、年をとり生活段階が進むにつれてその段階に合わせて関わる相手が変わる。そもそも日本には社交界文化がなく、家族や親族との関わりが主であった。武士も農民も職人も縦社会であった。身分制の他にも、武士は言うまでもないが、農民、職人にも一族毎にそれぞれ階級があった、商人以外の日本人は階級社会で暮らしていた。

日本は伝統的に横の繋がりが社会的に存在しなかった為、並列の人間関係が苦手である。学校のクラスなどで友達を作るのが下手糞とよく言われるのもそれに起因する。並列関係の同期(同級生)に警戒をし、互いに距離を置いてしまう。よく、部活に入らなきゃ友達出来ないと言われるが、部活は上下関係がある為、人間関係が構築しやすい。日本人は、自分の友人を「知人」と表現する人が多い。

(*個人差はある)

 

「友達」が少ない、或いはいない人の方が誠実な人間な気がする。この人は誠実で不器用だから友達が出来ないのだと思えて、とても魅力的である。自分と同類だと思えて好もしい。

(*完全に私見)

 

欧米では友達が出来ない人は馬鹿だし、口数が少ない人はつまらない人間だと見做される。

(*そういう風潮はある)

 

ある欧米人が言うには、日本人ほど単純に友達になりやすいのはいないという。日本人はNoとはっきり言わないし、英語で話しかけても無視をせず、誠実に答えてくれる。それに人当たりが優しい。欧米人が言うには、欧米人というのは日本人とは比べ物にならない程、気性が難しく、意地が悪いのだと言う。話し掛けても無視をする人はザラにいる。

(*あくまで欧米人個人の意見なので、信頼性は高くない)

 

日本人は、人に話しかけられる事は大好きである。

 

日本人が最も社交的だった時期は、開国からバブル崩壊までと言われている。「ハッタリトーク」が上手かった時期は長い長い日本の歴史の中でほんの一時期。崩壊後は、本来の日本人らしさに戻りつつある。

開国・文明開花で欧米の社交性が取り入れられ、そこに和の精神が融合、日本人は心にもないハッタリトークをするようになった。戦後アメリカの尻を追う。昭和中それは続いた。

しかし、バブル崩壊でダメージ。経済縮小に伴い内向き指向に。年を追う毎に欧米指向どころではなくなり、意識せずとも本来の日本人らしさを取り戻す。

今後もし、日本の経済が復興しても外向き指向(海外に目が向く)にはならないし、かつてのように欧米の尻を追う事はないと思う。インバウンドもそのうちいなくなってしまうし、移民の顔ぶれも変わる。

 

「バウンダリー」は「バウンド(縛られる)」という英語を日本語化した。「バウンダリー」の日本語での意味は、「境界」。これは物理的な「境界」ではなく、「目には見えないが、侵害してはいけない概念的な境界」である。

先記事の「和の精神」で触れた、縄文人の原初的な「和」の在り方の、「自他の線引き」に近い。

個人を尊重し、他を干渉しない。また、他から干渉されたくはない。という話を連想させられる。先記事の縄文の話は、アフリカのシャーマンが言った、まゆつばな話なので、本当のところは分からないが、「バウンダリー」という言葉がある事によって、この話が本当だったのかも知れないという裏付けになる。

 

ソーシャルワーカーによる、コミュニケーションと心の問題について書かれた記事↓

自分と他者を区別する境界線「バウンダリー」とは?ソーシャルワーカー鴻巣麻里香さんによる解説 | こここ

 

「バウンダリー」は対人支援専門職の間で飛び交う言葉だ。記者はエヴァンゲリオンの内容を専門的な目で解釈している。この記事も、「和」の精神とは「自分と他者との線引き」と言っているようである。非常に深い内容である。

 

「バウンダリー」という言葉も欧米に渡り、日本での「境界」の概念を削ぎ落とされ、物理的な「境界」のみという事で捉えられている。欧米人にはこのような深い日本人特有の心を理解出来るとは到底思えない。例を挙げれば、もみじ ブリティッシュ・コロンビア州 クートニー・バウンダリー地域。

 

 

《掲載:Wikipedia》

もみじの行政が、和製英語を使用しててとても面白い。ここは、アメリカとの国境に接している。国境を指して「バウンダリー」と言っていると考えられるが、国境の訳はボーダー(Border)である。何故ボーダーではなくバウンダリーなのか謎である。よく読めば「バウンダリー“地域”」という。バウンダリーというのは固有名詞の地名ではなく、市とか町というような行政区分のようにも見える。“クートニー”というのが固有名詞の地名だと思う。行政区分で“境界地域“とはどういう事だろう。国境だから境界なのか?別の意図があるのか分からない。もみじの幹部は日本的な、侵害してはならないという概念的な“境界”という意図ではないと思うので、物理的な“境界”だと思う。クートニーという広範囲に渡る地域があり、アメリカともみじに国境で分断。クートニーという地名の地域の国境側の地域という事だと思う。アメリカ側にも同じものがあると思う。

 

国境。

 

国境とは「和」の精神の極みだと思った。海に囲まれ国境を持たない日本人とは相反するが、縄文人は、氏族が国のようなものだったのかも知れない。他人に対しては個々人が概念的な国境を持ち、つまり侵害してはならない目には見えない境界を持ち、各氏族が国のような責任を持って生きていたのではないかと考えられた。他氏族との力関係や均衡を考えながら活動し、交渉していたのではないのかと考えられた。各氏族は、大戦に発展しないように外交努力をしていたのではないかと考えられる。

 

縄文の平和はただ与えられたのではなく、自ら築いていったのだろう。

 

縄文人の親が子供に責任というものを叩き込むのも、氏族、つまり国の幹部のようなものの一員として責任を持てという教育だったのかも知れない。

アフリカのシャーマンの言ってた事だから実際どうか知らんけど、嘘でも本当でも凄い話だ。

因みに「フレネミー」という言葉も和製英語で、これはまだ日本でしか使われていない。表面的に友好的に見えるがホンネは敵意を持つ人を指す。その逆もあり、競争相手であるが、協力関係もあるという意味もある。

長文のご精読、ありがとうございます😭

 

もみじブリティッシュ・コロンビア州 クートニー・バウンダリー地域については、もみじ、トレイル市が自分の居所である相模原市のかつての友好都市だったので、検索した。

バウンダリーという名前が出てきた。

これはトンデモな説だが、バスク人やケルト人も縄文人の一部だという説がある。氷河期より前の太古の昔、バスク人、ケルト人の祖はユーラシア大陸の広範囲に渡って居住していた。氷河期に大陸と日本が地続きになり、日本に渡った。その後孫の一部が日本に存在しているという。バスク人、ケルト人の祖は、西洋人ではなく、彫りが深く毛深いアジア人である、古モンゴロイドで、赤毛だったと言われている。ハプログループYアダムR1bタイプがこれに該当。日本人の約2%がこれに属している。西アジア中心に拡散したというが、西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト人に80%以上の高頻度で見られる。

大航海時代以降の人の流動に伴って南北アメリカ大陸やオーストラリアにも分布を拡大した。

またバシキール人にも86%の高頻度である。

高頻度民族・地域は西ヨーロッパ、アルメニア、カメルーン、バシコルトスタン、北米東北部等。

また、R1b 系統は赤毛遺伝子とも言われるように、バスク人、ケルト人、バシキール人に赤毛頻度が多く、血液型Rh-遺伝子であるとも言われている。日本人に少ないRh-の人は、赤毛の縄文人(古モンゴロイド)の後裔である可能性が非常に高い。東北地方には、赤毛が多いと言われているが、この影響もあるのかも知れない。

《Wikipedia一部抜粋》

 

その為、一時は「日英同祖論」などというものが流行った。英国人(ブリテン島)には、バスク人、ケルト人に由来のある人が多くを占めているため、日本人と遺伝子が近いのではないか?というトンデモ説が流行った。しかし日ユダヤ同祖論の方が沸いた。

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