斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

Сар шинэдээ сайхан шинэлээрэй!

2024年02月10日 | 遊牧アディクト

 

Сар шинэдээ сайхан шинэлээрэй!

 

新年(旧暦)明けましておめでとうございます🪅🎊🎉

今日はモンゴル🇲🇳では旧暦の正月Цагаан сар(ツァガーンサル)です。

 

ツァガーンサルとは、モンゴル語で「白い月」という意味です。

 

モンゴルの旧暦は、毎年、お坊さんが決める。中国の春節とは違う日になる事が多いが、今年は同じ日になった。

 

ツァガーンサルの御馳走は、ボーズ(蒸し餃子)、オーツ(羊の丸茹で)、へヴィンボーヴ(巨大ビスケット)、ウズェムティボダー(モンゴル版赤飯?)、アイラグ(馬乳酒)、シミンアルヒ(乳蒸留酒)、アルヒ(ウォッカ)

 

その日は数多くの儀礼的な挨拶をしなければならない。一年で一番大切な日を祝う為である。

 

ツァガーンサルが近づくとどの家庭でも、ボーズ作りに明け暮れる。

 

ツァガーンサルに備え、一ヶ月も前から準備をする。

 

ツァガーンサルには、白いものが敬われ、黒いものが避けられる。よって、乳製品を食べ、腹黒い考えは口にしない。

 

子供達は、羊のくるぶしの骨(シャガィ)を使った伝統的な遊びをして過ごす。

 

地域によっては太陽が昇る頃に、近くの山のオボーにハダグ(マフラーのような形の布)やイデー(白い食べ物《乳製品》)、アルツ(香草)を奉納する。

 

新年3日目には、新年を祝う競馬をする。

 

🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳

 

日本の正月と比べても、年を越す事が非常に大変である。この事がよく書かれているサイトのリンク🔗を下に貼りつけた。

 

 

今年も良い年になりますように!!

 

今年の目標は、積読をしているこれらの本を読む事!!

 

旧歴の昨年はありがとうございました!

本年も宜しくお願い致します。

 

 

ツァガーンサル|ウンドゥルシレッドリバーサイドキャンプ

 

ツァガーンサル

1.  ビトゥーン(大晦日) 日本と同じようにゲルの大掃除が始まる。トーノを拭き、ゲル中のゴミを出し、お正月に備えて自分で刺繍を施したものを飾りつけたりもする。...

ウンドゥルシレットリバーサイドキャンプ

 

 

 

 

モンゴルの新年、ツァガーンサル

 

モンゴルの新年、ツァガーンサル - モンゴルで理学療法士

そろそろモンゴルの記事を期待して、いらして下さった方がガッカリされているような気がしてきたので、 モンゴルのことについて書きます。 随分経ってしまいましたが、モン...

モンゴルで理学療法士

 

 

 

ツァガーンサルの起源

(シリーズ)モンゴル・つれづれ日記(6)-旧正月を祝う-

岡山畜産便り2004年2月号 〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(6) −旧正月を祝う− 三秋 尚

 

 

風の旅行者

 

モンゴルの旧正月 ツァガーンサル豆知識 | ツアー関連情報 モンゴル | 風の旅行社

ツァガーンサル(2024年は2月10日) モンゴルのお正月は旧正月で「ツァガーンサル(白い月)」と呼ばれます。

風の旅行社

 

 

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元寇の船

2023年10月24日 | 遊牧アディクト

鎌倉時代の“元寇の船”の一部か?長崎沖で新たに見つかる〜水深15mの海底

 

 

鎌倉時代の“元寇の船”の一部か?長崎沖で新たに見つかる~水深15メートルの海底(RKB毎日放送) - Yahoo!ニュース

鎌倉時代に九州北部に襲来した「元寇の船」が、これまで2隻見つかっている長崎県・伊万里湾で、新たな船体の一部とみられる木材などが見つかった。

Yahoo!ニュース

 

元寇を簡単に説明すると、1274(文永)1281(弘安)の二度に渡ってモンゴル軍、当時の元帝国による倭国(日本)への侵攻である。

 

その頃の倭国は鎌倉時代。北条時宗政権下だった。

 

これは弘安の役で元軍が撤退する際、日蓮が祈って起こしたいわゆる”神風”によって沈んだ元寇の船のようです。

 

学校の教科書では台風🌀”により戦わずして運に恵まれたとされていたが、実際には鎌倉武士による奮闘と、武士と島民の犠牲により倭国が侵略から守られたのである。

 

神風について、台風🌀という説と季節的に台風ではなく暴風雨との説がある。

弘安の役は7月であった。季節的に台風というのは、不自然という解釈で良いと考える。

 

これが神風になった経緯は、実際には武士の活躍によって撃退したのだが「武士が大活躍して国を守った」ことを絶対に認めたくない公家連中が「我ら公家が祈祷をしたお陰で神風が吹いて敵を撃退したでおじゃる」

「ほんに、そのとおり!全く武家共がバカ騒ぎをしおったが無駄な事でおじゃったなあ」

として広めたらしいとする説もある。

jok******さんのコメントより引用》

 

 

日蓮の祈祷説はいったい何処から来たのか?

 

それは取り敢えずおいといて

 

元軍の船は中国製(南宋製)の特徴があり、造船はモンゴル人によって作られたのではなく中国人に作らせていたらしい。

兵士は高麗朝鮮人で、モンゴル人は幹部や隊長のみだったらしい。

 

総大将はモンゴル人のヒンドゥとクドゥンといったらしい。

《阪急沿線民さんのコメントより引用》

 

元帝国の支配層はモンゴル人だが、国民の大半は中国人や韓国人やその他だった。モンゴル族の一般国民というのは、元帝国領土内のモンゴル高原と、中国大陸に遊牧していた。

 

元寇から750年も経っているのに3隻も構造物の特徴を留めているというのは奇跡だ!

 

海中に関わらず木材が朽ちておらず、遺物も含めて、潮に流されずそこにとどまっているというのも本当に奇跡中の奇跡である。

 

 

元寇というのは文献や教科書の中だけの物語などでは決してなく、本当に元帝国に侵攻され、武士が奮闘し、武士や島民の犠牲があったという実感が湧いた。

平和というのは、沢山の人の犠牲の上に成り立っているということを考えさせられた。

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ご精読ありがとうございました。

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遊牧民と産鉄について

2023年09月06日 | 遊牧アディクト

タタラ製鉄について、とても不思議に思うことがある。タタラ製鉄のタタラの語源とは何だろう?

 

タタラ製鉄について

タタラ製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法。炉に空気を送りこむのに使われる鞴(フイゴ)が「タタラ」と呼ばれていたために付けられた名称である。

 

タタラという呼称そのものの語源については不明であり、確実なことはわかっていない。

 

一説によれば、サンスクリット語で熱を意味する「タータラ」に由来すると言い、他にもタタール族を介して日本にもたらされたためとする説がある。

 

他にも大和言葉に語源を求める説もあり「叩き有り」からの訛化、簡略化であり「踏み轟かす」の意、とする文献が存在する。

《参照: Wikipedia

 

自分的には最後の大和言葉説が最も有力だと思うが、浪漫を追うなら「タタール族」説を推したいと思っている。

 

騎馬遊牧民には製鉄技術を持つ民族がいる。

NHKオンデマンドで過去のNHKスペシャル「アイアンロード〜知られざる古代文明の道」を見た。

 

ユーラシア大陸には東西を結ぶ道がある。ひとつは「シルクロード〜絹の道」と言われるローマから日本列島に至る道である。

 

シルクロードは紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網。ひたすら砂漠地帯を通る道である。オアシスロードとも言われる。

 

 

もう一つは「アイアンロード〜鉄の道」と言われるトルコ🇹🇷アナトリアから日本列島に至る道である。ここは草原地帯を通るため、ステップロード、草原の道と呼ばれている。シルクロードよりも古く紀元前24世紀頃から始まり、紀元2-3世紀に鉄の製造技術が日本に到達した。製鉄技術が通った道である。

 

シルクロードは文化の通り道に対し、アイアンロードは鉄器、つまり武器。

国家間の争い、国の興亡に直結する。

 

トルコ🇹🇷アナトリア地方カマン・カレホユック遺跡で紀元前24-23世紀、人類初の鉄の製造が始まり、ヒッタイトスキタイ匈奴(キョウド・フンヌ)と製鉄技術が伝播して行った。

 

万里の長城を挟んで

スキタイ朝鮮日本

 

と日本に伝わってきた。日本はまだまだその頃弥生時代。

 

紀元前17世紀にアナトリアの荒野にヒッタイト人が建国し、鉄を量産する。この荒野がかえって鉄を作るのに適した気候条件であった。絶えず強風が吹き、炉の高温を保つのに都合が良かった。

 

*人類初で製鉄を行ったのはヒッタイト人ではないとする説もある。

 

当時、鉄は青銅製の武器よりも硬く青銅を簡単に折り砕く最強の武器だった。

鉄は戦略兵器と言っても過言ではなかった。

ヒッタイト人は当時最強の大国エジプトと核外交のような外交戦略で鉄を利用し、平和条約を結んでいる。

 

紀元前12世紀、鉄の量産はスキタイ人へと移る。スキタイはアルタイ地域という、現在のロシア🇷🇺カザフスタン🇰🇿中国🇨🇳モンゴル🇲🇳4つの国が交わる地域にある。

 

スキタイの人々は金工を得意とし、金工装飾馬具や金工装身具などの芸術を残している。

鉄も熟知し、鉄の薄い刃、槍なども鉄器化していた。

 

そして最も優れた発明は、戦いの機動力を上げ移動革命を起こした馬具の銜(ハミ)

馬の口に装着し、馬をコントロールし、長距離の移動を可能とし、戦闘を有利にさせた。

これを利用した騎馬スキタイ軍は当時の歩兵強大国ギリシャ帝国を撃退した。

 

紀元前3世紀、産鉄技術は万里の長城を挟んで匈奴と漢に分かれる。

匈奴は冒頓単于(ボクトツゼンウ)の時代に12基の製鉄炉を持ち、漢を圧倒し前漢の初代皇帝劉邦を苦しめた。弓矢🏹の鏃(ヤジリ)に強靭な鉄を用いていた。

鏃は製鉄炉にて量産していた。鏃は甲冑を貫き、一度刺さると抜けにくい形をしている。

 

その後漢は、前漢全盛時代の武帝の時に高炉、そして強靭な鉄を生む炒鋼炉を作り出した。そして対匈奴戦争を開始し、匈奴に勝つ。

 

日本では朝鮮半島から稲作が伝わり、鉄器が入って来て農具や武器になった。その頃日本に伝わった製鉄技法が「タタラ製鉄」と呼ばれる。じきに村同士の戦争が起こるようになり、国が出来ていった。

《参照: クマケア治療院日記》

 

騎馬民族は製鉄と切っても切り離せないという事が解る。

 

鉄を制するものは世界を制する。

 

中央アジアのウズベキスタン🇺🇿やカザフスタン🇰🇿などでは、金工アクセサリーや銀工アクセサリーの制作が現在でも盛んだ。

モンゴルにおいても、女性が金属で飾り立てている。遊牧民と金属の関係の深さが窺える一端である。

 

それらは装飾馬具文化と元が同じだということも想起出来る。

 

 

 

話は始めに戻って、タタラ製鉄の語源の話。

 

前前回のブログに、テムジン(チンギスハーン👑の本名)という名前は「産鉄」を意味する。と書いた。

 

テムジンはテムルチ、すなわちモンゴル語で「鉄を作る人」「鍛治職人」の省略形になる。

《参照: AI技術でウマ娘と化したオゴイ》

 

実際にチンギス=ハーン🐺🦌は鍛治職人だという🔥🗡️⚒️🔨🛠️🔥

 

チンギスハーンを表す言葉として「鉄の音」と称する書簡も存在している。

 

対外文書の中からモンゴル帝国の首都ハラホルム(カラコルム)を訪れた修道士ブルクが12547月に帰国する際、当時の大ハーンであったムンケ=ハーンからフランス王ルイ9世に宛てた服属呼びかけの文書の中にそれはあった。

 

「永遠なる神の命なり。天上には唯一の永遠なる神いまし、地上には唯一の君主チンギス=カン、神のみ子、テムジン=ツィンゲイすなわち「鉄の音」あり……

《参照: モンゴル帝国時代におけるハーンたちの世界観について ソーハン・ゲレルト》

 

これから見ても解るように、モンゴルの遊牧民の間でも産鉄が盛んであった。やはり鉄を制するものは世界を制する。

 

満蒙およびシベリアの鉄器文化も極めて古い。

製鉄技術の源流地とされる中央アジアで鍛鉄奴隷であったトルコ系民族の*突厥(トッケツ)、いわゆるダッタン人が、放浪のままに鉄冶を広めていったと言われている。このダッタンの語源であるタタールが転化して倭国の製鉄炉を「タタラ」と呼ぶようになったとも言われている。

《参照: 「たたら製鉄」と「鉄穴流し」による山地の荒廃と土砂災害 一般財団法人 砂防フロンティア整備推進機構 砂防フロンティア研究所長 森俊勇》

 

 

突厥: 6世紀頃に強大となったアルタイ山脈を本拠地とするトルコ系騎馬遊牧民の国家。

突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった。)や「草原の道(アイアンロード)」の交易の利によって力を蓄え木汗可汗(ボクカンカガン)のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海に至る大帝国を樹立した。

《参照: 世界の歴史まっぷ 内陸アジアの新動向》

 

ちなみにカザン・タタール人が話すタタール語というのもテュルク系言語だ。

テュルク語というのは突厥語を指す。カザン・タタール人は自称タタールの集団であると言われていて、本物のタタールは東タタール、つまり現在のモンゴル族を指す。

しかし、突厥はダッタン人=タタール人という事は、カザン・タタール人はまんざら自称タタールでもない。

 

西タタール(カザン・タタール)と東タタール(モンゴル族)との関係とは。

 

「タタラ製鉄」の語源はやはり「タタール製鉄!」

 

大和言葉によるものではなく、これであると信じていたい!

 

タタール人はやはり産鉄民族だったのか!

 

今までタタールとタタラ製鉄というのが、私の頭の中で繋がらなかったが、NHKや様々な人のブログや論文の助けもあって繋がることが出来た。

 

この複雑な内容を分かりやすく纏めるNHKの凄さ。

 

草原の道(ステップロード)がアイアンロード(鉄の道)とも言われている事も分かっていたが、その繋がりも良く解らなかった。

 

なるほど!そういう事なのか。

 

中央アジアに金工モノがやたら多い事や、タタラ製鉄という呼称、テムジン=産鉄、金田ホト(カネダ=カナダ)の宿営地集団、馬塚の埋葬品(金属性の装飾馬具)…..

 

これらの関係が全て関連していた。もしかしたらモンゴルの「アルタン」人名・地名の由来も遠くない理由かも知れない。

 

「草原の道」は奥が深い。

 

自分が遊牧ネタに足を染めた頃、「草原の道」を自分の守備範囲にしていた。

「カルガリー」という北緯50度前後にある経済特区とその周辺の大平原と美しい岩山のインスタ写真が全ての始まり。

 

私はそれを突厥の故地と呼び、理由もなく愛でていた。

 

しかし昨年の今頃、5人ぐらいから指摘を受け、「カルガリー」とその周辺、アルバータ草原及び岩山は「全て北米のもみじ国🍁」と言われ、自分の勘違いに気づき、それ以降「草原の道(ステップロード)」から遠ざかってしまいました。当時自分がステップロード(草原の道)だと思い込んでいた道は北米のもみじ国🍁の(Trans もみじ  Highway 1号線🍁)のアルバータ州からマニトバ州間(プレイリー(草原)3州という北米のもみじ国🍁内陸)でした。

 

北米大陸には産鉄の歴史はありません(現在はあるが、ここでいう産鉄の歴史とは、北米先住民の歴史を指す)

北米だけでなく中南米にも、先住民による産鉄の歴史は存在しない。

 

北米先住民にはアジア系の顔の部族もいる。先住民とユーラシア遊牧民、顔がよく似ていて、先住部族によってはシャーマンの姿など遊牧民に酷似している者もいる。

 

どこでファーストネーションズなどと遊牧民の区別をつければ良いのか?

それは、金工装飾の有無。ファーストネーションズ(北米先住民)の民族衣装には金工装飾が皆無である。

 

一旦草原の道から離れたが、紆余曲折を経て、色々な要因が重なり結局「草原の道(ステップロード、アイアンロード)」に帰って来ることが出来た。

 

やっぱ文献読み漁りは面白い。これからも文献をいっぱい読み漁りたい!

 

結局私の守備範囲はステップロード。

 

という事で長文のご精読ありがとうございました。

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元帝国と関わりの深い元使五人塚、龍ノ口刑場跡、円覚寺

2023年05月06日 | 遊牧アディクト

GW前に鎌倉に行ってきた。今回取り上げるのは鎌倉にある、元寇ゆかりの場所。

常立寺の元使五人塚の墓参、龍口寺の龍ノ口刑場跡、円覚寺。

 

・常立寺境内「元使五人塚」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

元使五人塚は、元国(蒙古)の使者として日本に派遣され、龍ノ口で処刑された杜世忠ら5人の供養塚。

 

杜世忠らは、文永の役(元寇)があった翌年の1275年(建治元年)415日、日本に服属を求めるため長門国室津に上陸。

 

しかし、捕えられて太宰府に送られた後8月になって関東に送られ、97日、八代執権北条時宗の命により龍ノ口で処刑された。

 

処刑の理由は、

 

 「ここ数年、我が国に使者を派遣して戦術の手段をめぐらしているようだが、今後はたとえ朝廷に貢物を差し上げる使者であっても生かして帰すべきではない」というものだったらしい。

 

常立寺には5基の五輪塔が建てられ、供養されたと伝えられる。

 

 

 

青い布は、モンゴルでは英雄を意味するもので、モンゴル人力士によって巻かれた。

 

201543日、モンゴル人力士たちが訪れ、元使五人塚を墓参した。毎春恒例の巡業「大相撲藤沢場所」を前に実施した事がある。



・龍口寺境内「龍ノ口刑場跡」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。

 

日本に服属を求めた元国の使者ら5人が処刑されたとする場所。

 

しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明。

 

 

ここは慰霊碑。江ノ電から丸見えの立地。この寺院は日蓮聖人の直弟子の日法聖人が延元2(1337)に「龍ノ口法難の霊跡」として建立した。

 

立正安国論を記して鎌倉幕府に呈上した日蓮を捉え、龍ノ口刑場で斬首されそうになった逸話がある。日蓮を土牢から引き出し斬首しようとしたが、(伝承によると)江ノ島方より光の玉がやってきて、光の衝撃で振り下ろした刀が折れ、首を刎ねることができなかったという。日蓮は佐渡に流された。

また、日蓮が斬首される直前に突然の雷雨が起こり、斬首が中止されたという説もある。

 

 

・円覚寺

JR横須賀線 「北鎌倉駅」より徒歩1

 

鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山された。開基である時宗公は18歳で執権職につき、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願された。

 

 

 

その日は主に、元寇の殉死者と、一般住民の犠牲者を追悼する為に円覚寺に寄った。

 

円覚寺は現在でも修行僧を多く抱える。

立ち入り禁止の領域が多く、とても厳かな雰囲気。山の斜面の一部が円覚寺の範囲である。撮影禁止の箇所がとても多く、元寇の殉死者・犠牲者を弔う千体の地蔵の一部が置かれている所も撮影禁止であった為、控えさせて頂いた。

 

元寇というと、日蓮が祈ると嵐が起き、元軍は日本沿岸に辿り着く前に全滅し、日本には一切の打撃が無かったという説がまかり通っている。その嵐を神風とされ、日蓮が元寇の英雄とされている。

しかし、実情は違う。円覚寺はそれを物語っている。

遊牧遺構3 元寇防塁 - カルガリーちゃんねる

 

この記事では文永の役について触れたが、弘安の役については書いていなかった。

後日書こうと思う。

 

・北条時宗公について

 

時の執権北条時宗は生涯を通して元寇に苦悩してきたと言われる。

 

弘安の役の折には、金剛経などを血で写経している。

元寇の後には千体の地蔵を造って円覚寺に奉納し、無学祖元禅師に説法をお願いしている。

 

その裏には言葉で言い尽くせない苦悩があるという。

 

後には「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と詠われて、いかにも腹の座った人物として描かれているようだが、実際には苦悩され続けていたという。

 

そんな苦悩の中で参禅し、無学祖元禅師が心の支えになっていたという。

 

 

終わりに

常立寺境内の元使五人塚では、元使のご冥福と、倭国がしてしまった事を反省した。

そして円覚寺では、元寇の犠牲者・殉死者のご冥福を祈った。

 

元国が倭国に服属を求める事について言えば、断固拒否しなければならない。

 

拒否すれば幾度となく元軍が攻めて来る可能性がある。

 

徹底抗戦する力がどれくらいあったのか分からない。時宗公は本土を血の海にする事を絶対に避けたかったのだろう。武士の数が足らず、一般市民を徴兵しなければならない。心優しい時宗公は、市民を無闇に徴兵する事も極力避けたかったのだろう。

 

元国の使者をこの時に処刑してしまえば、元国も日本にこれ以上関わってこないのではないかと考えたのかもしれない。

 

ひとつ思うのは、朝廷に貢ぎものを捧げる使者になったとすれば自分なら処刑しないだろうな。とは思う。

 

しかしこれは平和ボケの思考なのかも知れない。

 

処刑してしまった事に関しては、いくら考えても何が正しかったのかは解らない。

 

時宗公は、苦悩に苦悩を重ねた末の苦渋の決断だったのかも知れない。

 

ご冥福を祈る他に、何もできませんでした。

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我が国日本における遊牧無形文化遺産

2023年04月11日 | 遊牧アディクト

自分が、日本において遊牧無形文化遺産だと思えるものは以下の通り。

・相撲

・鷹狩り

・競馬

・流鏑馬

 

なぜそう思い込んでいるかというと、遊牧民族の伝統競技にもこれらに似たものがある。

 

モンゴルのナーダムでは、ブフ(蒙古相撲)、競馬、弓射の3つの競技が行われる。ナーダムとは、モンゴルにおいて年に数回行われる国民行事、民族の祭典である。

まるで日本の伝統競技みたいだ。あるいは武芸のようでとても親近感が湧く。

 

中央アジアにはノマドゲーム(国際遊牧民競技大会)という2年に1度開催される、遊牧民の伝統競技を推進し、祝福するためのイベントである。

それにも、競馬、相撲、鷹狩り、騎射(流鏑馬と基本同じ)が盛り込まれている。

 

日本に無いものは、ヤギをボールに見立てたポロ。その他もあるかもしれないが、よく分からない。

 

今回は日本の相撲と蒙古相撲について書く。

 

蒙古相撲と日本の相撲は、服装とルールこそ違えど、組み合って闘う点では根本的に同じ。

 

日本では国技である。モンゴルでも国技である。

日本でもモンゴルでも神事の性格を備えた格闘技。蒙古相撲(ブフ)は土俵やリングはなく、伝統的に草原で行われてきた。頭、背中、肘、膝、尻などが地面に着くと負けとなるが、掌は地面についてもよい。

技は複合技などを含めると400以上あるといわれ、決まり手は500種類を越える。

 

試合は、いわゆる立ち会いはなく組み手の駆け引きから開始される。技を仕掛けてはそれをかわすことを繰り返す。「投げる」「倒す」が基本。試合は長時間に及ぶことが多い。

 

蒙古相撲は約2500年の歴史があり、日本の相撲と技の共通点も多く、その源流という説もある。

中世には兵士の鍛錬として行われた。チンギス・ハンも愛好したといわれる。

 

 

日本相撲の起源は、力自慢の取っ組み合いが相撲の始まりと言われる。古事記(712)や日本書紀(720)にある力くらべの神話や、当時出雲国にいた野見宿禰(のみのすくね)と大和国にいた当麻蹶速(たいまのけはや)*天覧勝負の伝説が挙げられる。相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となる。

 

* 天覧勝負 : 天皇の前で試合を行う事。

 

また、相撲の天覧勝負がはじめて行われたのは4世紀よりも昔、今から2000年も前だとも言われている。キックやパンチも繰り出される取っ組み合いだったらしい。知らんけど。今のような相撲のスタイルになるのは、江戸時代に入ってから。

 

定期的に相撲が開催されていた資料が残っているのは奈良時代以降から。相撲に魅了された聖武天皇が定めたとされている。

 

鎌倉から戦国時代にかけて、相撲は武士の鍛錬として盛んに行われるようになる。四股名がつくようになり、プロの力士が誕生したのもこの時代から。織田信長も大の相撲ファンだったようである。

 

江戸時代になると、武士の娯楽であった相撲が大衆へと広がっていく。技も現代のスタイルになる。

 

格闘技は、基本どの民族でも同じような事を考えるが、モンゴル相撲が日本の相撲の起源であると考えられなくはない。

 

日本の相撲と技の共通点が多いという事や、2000-2500年の歴史があるという事から思うに、両者は起源が同じと考えてもおかしくはない。神事の性格という共通点もある。

 

古事記日本書紀では倭国で起きた事柄しか取り上げていない。当時は入国管理など全くしていなかった為、いつどこでどこから倭国に一般人が流入したかなど逐一取り上げていない。

 

古代、いつの間にか流入した北方遊牧民族がいつ間にかそこら辺で力比べの取っ組み合いをやっていて、それを書かれた。それだけ。知らんけど。可能性としてはゼロじゃない。

 

もう一つ考えられるのは、北方遊牧民族は古代だけではなく戦国時代などの中世にも流入があった。中世代はモンゴルも日本も似た様な事をやっていた。武士の鍛錬の為、相撲をしていた。中世になれば、古代よりも現代に近いスタイルの相撲になる。これは単に自分の憶測だが、中世は倭国と蒙古は相互に人的交流があったのではないか?と思われる。

 

江戸時代にスタイルが固まる直前ぐらいまでは、人的交流があり、相撲という遊び、神事に、互いに影響を与え合った。その為、倭国相撲と蒙古相撲、双方に共通するが生まれた。

違う民族から生まれた競技で無数にある技の中で共通する技があるのは奇跡に近い。

 

それでも蒙古相撲は、倭国相撲よりも遥かに技の数が多く、競技人口が日本より遥かに多いそうなので、その中で勝ち抜いて日本に来た力士は強い。モンゴル人力士が非常に強い理由はそれかと思われる。

長文をご精読ありがとうございます😊

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