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斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

さようなら湯の泉♨️東名厚木健康センター🦦💔

2025年05月30日 | 日記

《湯の泉 東名厚木健康センター公式Xより借用》

 

東名厚木健康センターも逝ってしまうのか💔

 

2025/3/30蒙古斑=SUM41を見送った。その後4/15か16あたりにgooブログ終了のお知らせで衝撃が走った。そして先日“嵐”の活動終了の報告で日本中、世界に衝撃が走った。

 

近日、自分の周りから色々なものが去って逝く

 

大抵は自分が気に入ったものばかりが姿を消していく。それらと縁が切れていくのは非常に悲しい。

 

共通することは、自身が関心を持つ少し前あたりから“終わりの始まり”の兆しが出ていた事である。

 

蒙古斑=SUM41に手をつけ始めたのは2020年11月頃である。コロナ禍であり、フロントマンは「2020年終盤に差し掛かる頃からSUM41の終わりが見えていた。」と言っていたらしい。音楽記事による。私個人の勝手な私見では、SUM41の本当の解散理由は、経営難であると考える。

 

ここに書くのを忘れたが、スフバートルコーヒー☕︎も2023年5月一杯で遠方へ移転してしまった。移転理由は地主とのトラブル。

スフバートルが雇った弁護士が来て、地主1人とスフバートル側の修羅場のシーンと出くわした日があった。

揉め始めたのは、2022年3月ぐらいから。

自分がスフバートルコーヒー☕︎を地図上で見つけ、初訪したのが2022年4月。

 

東名厚木健康センターは紙にあるように、2025年8月31日閉店予定で、閉店理由が“設備の老朽化”である。そして、設備の顕著な不具合が起こり出したのが2024年夏であった。

 

自分が初訪したのが2024年8月29日であった。

その日は”漢方効仙薬湯“も“草津温泉”もなく、透明の湯で、内の湯があつ湯、露天がぬる湯であった。

 

岩盤浴もあるはずだが、これも閉鎖。そんな中でもその日、人が少なくはなかった。この日は台風が来ていたので、出張に来て交通機関が止まり、帰れなくなった人も多く宿泊していたのだろうと考えられた。

 

自分はその日、気まぐれで宿泊。

ノスタルジア溢れる空間であった。宿泊した日は台風だった為テレビは台風情報ばかりで面白くはなかった。夜通し自治体から来る災害情報でよく眠れず。翌朝、朝風呂♨️に入り7:30に出る。気持ち良かったがその後の暴風雨で台無しに😑

 

雰囲気はアットホームで、昭和で、旅館のような雰囲気で感じの良い空気であったが、謳い文句にしている薬湯や、“爆風ロウリュウイベント”がなければ面白くはない。

 

そして暫く遠のいていた。令和の時代に“健康ランド”が健在で厚木にあることを今まで知らずにいたので、ネット上で見つけた次の日に行ってみたのだった。

 

ここは地方の健康ランドと同じように、歌謡ショーがあり、ビンゴ大会やカラオケ大会があり、家族連れが多い。また行きたいとは思っていたものの、風呂があれでは。と遠のいていた。

 

“効仙薬湯”と“草津温泉”は2024年の夏頃から注入設備の故障により、使えなくなった。これらは修理不能との結論に達し、“効仙薬湯”は“ラッコ湯(川芎(センキュウ))“”草津温泉”は“別府温泉鉄輪(カンナワ)の湯“に変わった。これは2024年終盤であった。

 

正月明けに足を運ぶ。その日は開店と同時に入店。この日は晴天☀️以前とは全く違う雰囲気であった。人が多く、その日はサウナのアウフグース・爆風ロウリュウイベント🔥があり、それに参戦。アウフグースとは、ドライヤーの柄を長くしたもの。サウナ温度は90°Cぐらいで尋常では3分も持たないが、イベントでは耐えられた。人が15人超で人気があった。最後の最後に希望の数を言って、その数アウフグースの熱風を当ててくれる。

 

慣れた人になると50回とか100回とか言う人もいる。自分は初心者なので30回とかで止めておいた。最後の人が気を遣ってか?5回とか言うとスタッフに“ありがとうございます”と言われる。仮に100回とか言ったらもの凄くハラワタ煮えくりかえるんだろうね。

 

初参戦だが、想像以上に刺激的で面白かった。ロウリュウイベント後の、氷水で冷やしてあった強炭酸水無糖は、ウォッカのような刺激があり、ほろ酔い気分になれる。露天休憩スペースで風に当たるのは気持ち良かった。

 

 

更衣室の自販機に酒は売っていない。この風呂屋の自販機という自販機に酒類は売っていない。当たり前だが飲んで風呂で暴れられても迷惑である。

 

*自分は強炭酸水でほろ酔い気分になるが、酔って暴れたり吐いたり泥酔したりはしない。

 

ドリンク容器を入れる用の氷水を用意される風呂屋はここだけしか知らない。炭酸は冷やした方が強くなると言うのでこれは良い。食用氷🧊も用意してくれている。

 

露天風呂室は、趣を凝らした旅館のようで、昭和ノスタルジアの世界観そのもの。車で遥々遠出した気分になる。夜などに来店したときは、東名高速上にあるオレンジ色の水銀灯を眺めていると、子供の頃の旅行前日のワクワク感と同じ感覚が掻き立てられる。高速っていいな。親戚たちがたくさん生きていた頃の昔を想うのであった。あの頃は本当に楽しかった。

 

 

水風呂も10°くらいで、真冬の水風呂でカキコキになった状態で炭酸泉に入るのは気持ちが良い。強炭酸泉があればいいのに。それ以前に電気風呂がある。

 

風呂を出た後は漫画室で読書📖

蔵書もノスタルジアそのもの。自分はここでマキバオーを読むのが楽しみである。マキバオーは何を境に“〜なのね”を口癖とするようになったのか。振り向くマキバオーイラストは可愛い。この漫画は色々と勉強になる。昔アニメがテレビ放送されていた。“馬並みなのねー あなたとってもー 馬並みなのねー 馬並みなのねー”

懐かしい。

 

その後大広間で昼食。職員を呼ぶのに押しボタン式ではなく、挙手で呼ぶ暗黙のルールがあるらしく、職員に対して大声を出す人は誰もいなかった。

 

中華定食は千円もしないが、とても美味しい。特にレバ韮が美味しかった。どうやらトマトサンラータンが名物らしい。次回是非食べてみたい。

 

食後にレディースDay限定のチョコレートパフェを頼み、以前のレディースDayで貰ったドリンクタダ券でドリンクを注文。“ソーダ水”を注文。

 

シャボネット色ソーダ水💚

 

チェリー🍒までつく。


 

初訪の夕飯後、食器の下げる場所についてまごついていた時、他のお客さんに置いて行って大丈夫ですよと教えてくれたのを思い出した。

 

その後、クレーンゲームをして、お土産を購入して送迎バスで本厚木駅へ。

 

お土産

 

・岩泉 龍泉洞 地サイダー

・コカコーラ ICY SPARK 強炭酸水無糖

・効仙薬湯本舗 救養草

・ヒバ・チップ

 

 

これらは、他の所では売っていない。岩手県のアンテナショップに行けば龍泉洞 地サイダーは売っている。

 

♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️

 

東名厚木健康センター🦦の人的環境は、職員も他のお客さんも、フレンドリーというのとは少し違うが、自然な感じで話し掛けてくる人が多い。それも世代(年齢)関係なく。

そして距離感も丁度いい。

いつ行っても他の客や職員のナチュラルに話し掛ける気質は変わらない。これは草加健康センターでも同じなのだろうか?

 

受付レジカウンターも、風呂清掃員も、大広間の注文受ける人も、笑顔で友好的である。

 

昭和色濃厚なので、あつくるしいのかと思ったが、案外そうでもない。健康センターでは気軽に他人に話し掛けるので、自分も自然と話し掛けれるといった感じだ。自分は最上級のシャイで人見知りだが、これは環境の力だと思った。自分は此処ではそうしてよい、という認識が頭のどこかにインプットされたのかも知れない。

 

厚木センターは、草加センターより新しい。しかし、“設備の老朽化”である。厚木は創業28年目。昭和ノスタルジアを強く感じるが、意外にも創業は平成である。

 

風呂に浸かりながらいつも思うのが、“操業年数の割に建物がボロ”だという事。このボロさがレトロ感に彩を与える。

 

一方、風呂の女子トイレの戸が壊れたまま一向に治されない事、ガラス窓にヒビが入っている箇所が所どころ見受けられる事、電気風呂の右から2番目の枠のみ電力が強いが他は強くはない事(日やその時々によって違う)岩盤浴が稼働しなくなった結果、ドライヤーのあるパウダールームと称される空間になってしまった事、塩サウナ室が単なる休憩室になってしまった事など、あらゆる所に痛々しさが見てとれる。

 

この建物は健康センターの為に建造されたのだろうか?創業年通りの建造なら、こんなにボロではないはず。自分の勝手な妄想では、昭和に建造されたパン工場とか食品工場🏭の居抜き物件を改装して、温浴施設にした。知らんけど。そう思わされる。

 

湯の泉 東名厚木健康センター近日のX(ツイッター)を見ると、設備の老朽化の酷さがよく分かる。

 

男子サウナ室修繕工事、男子サウナヒーターの故障、部品交換、配管工事、ボイラー室機械トラブル等、4月に入ってから相次ぐ不具合、工事。

 

男子サウナ室は以前からあまり調子が良くは無かったらしい。

 

自分事になるが、裏庭のドア破損→修理に始まり、ガス周り、水周りの老朽化による交換が相次いだ。3年前、ガス台の老朽化による不具合→交換から始まり、ガス給湯器の老朽化→交換、トイレタンク内の水漏れ→部品交換、風呂のプッシュ栓の劣化→部品交換。

 

たったこれだけでも自身にとって多大な出費であり、不具合が発覚した時の心理的負荷は重大なものであった。家電が壊れた時よりも頭が痛い。家電は、買い替えればなんとかなるというような安易な考えになるが、家の設備の不具合、しかも工事が必要だというと、業者にボられる懸念をする。

 

厚木センターの風呂に浸かり、目に入る痛々しさに「分かるで〜」と勝手に同情していたが、いざ自宅の設備が修繕されると、厚木センターの風呂周りに対して、測り知れない重篤さを感じた。そしてセンターの懐の深さを感じた。

 

以前の記事で、温浴施設に支払った代金は湯水に消えると書いたが、湯水どころか莫大な修繕費にも消えている。

 

配管にもトラブルを抱えているという事は、風呂・サウナ関係だけではなく建物自体の”老朽化“も意味するのではないだろうか?いくら修繕に投じたところで、無理なものは無理なのだろう。

 

閉店してしまうのは、非常に惜しいが、もう限界だと感じる。この閉店は、不遇の死や横死ではなく、自然死の中でも”大往生“の部類なのではないか?と考えるようにする他はない。

 

Xには閉店を惜しむ声が続々と届く。その中でも凄いのが、”*ラッコのために厚木に家を建てた“という人がいた。本当かどうか分からないが、最高の閉店を惜しむ声だと思う。

 

*この健康センターグループは、ラッコの親子をマスコットキャラとしている。センター自体がラッコにこだわりがある。

 

厚木センター特有の香りさえも滋味深いものである。自分にとっての厚木健康センターの香りとは、ラッコ湯🦦♨️の川芎(センキュウ)の香りとヒバ・チップの香りとロウリュウ・アロマの香りである。

 

センターから人が居なくなり、明かりが消え、廃ホテルのようになってしまう事を想像したくない。

 

短い間でしたが、大変お世話になりました。また会える機会を楽しみに日々精進いたします。厚木健康センターと縁を持てた事に感謝致します🥲

 

ありがとうございました。

 

♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️♨️

 

厚木健康センターは、薬湯も含め、鉱泉ではない水道湯だが稀にみる非常に気持ちの良い湯♨️だった。

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

それにしても本当に可哀想だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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カナダ地区ネタ終焉

2025年05月24日 | 遊牧アディクト

 

@Casus_belli13氏Xより

 

多分、元帝国の国旗だと思う。

 

 

この記事は2023年秋に書いた記事を一部改変して投稿した。今はカナダ地区とよぶが、当時はカナダホト地区とよんでいた。

 

ホトとは宿営地(移動住居)が集まる場所を指す。

 

カナダホト地区🎪について↓

 

カナダ🏹についての説明 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

カナダ人🏹とは、江戸幕府によってカナダ地区に強制的に定住させられ、現在でも動けないままでいる人たちを指す

 

🔱🏹🔱🏹🔱🏹🔱🏹🔱🏹🔱🏹🔱🏹🔱

 

カナダホト🎪は大変風の強い所だ。今日(23/10/19)は風のある一日だった。カナダホト🎪地区の最寄り駅から徒歩約1時間。橋を渡りカナダホト🎪地区へ入る。大きな川からの風と山脈からの風のダブルで他の所より風が強い。

 

カナダホト最寄り駅の近辺は風が時折強くなる程度で止んでいる時もある。

カナダホト🎪は常に風がある状態だった。

 

以前からカナダホト🎪は風が強い気がしていたがそれは気のせいではない。

 

大きな川沿いの道路沿いには、風避けのため竹が植えてある。まだそんなに年数が経っていないような若い竹だった。

 

大きな川の河岸はゴミの不法投棄と散乱が以前足を運んだ時よりも酷くなっていた。

初めて行った時、ゴミの散乱がやばくて、川の浅瀬に空き缶や割れたガラスなどが散りばめてあった。とても酷い状態だった。

 

それが夏頃、綺麗に片付いていたが、今日はまた徐々にゴミの散乱が酷くなる一方の予感がした。

 

見かねた清掃工場のおじさんが片付けてくれたのだと思うが、夏よりも気候が良くなり人が出歩くようになるとまた増える一方である。

 

ゴミの散乱の問題も、常に吹く風のせいでゴミ集積所から飛んでいってしまう気がした。

 

ゴミが酷いのは河岸だけで、入り組んだ宅地や田畑は綺麗であった。

 

カナダホト🎪の地域住民は非常に感じが悪い。

どの人に出くわしても。

 

農地を耕しているような地域住民とは出くわしたくはない。住宅地にいる人間にはもっとでくわしたくはない。

 

幸い今日は農地にいる人から罵声を浴びせられたり石を投げられたり追いかけられたりする事は無かった。そういうのは人によるものだと思う。ヤバい奴は本当にヤバい。

 

ここは本当に日本か?

 

といつも思わずにはいられない。まるで自分がバックパッカーになって、知らない国を歩いていて、外国人に対してネガティブな感情が強い農村に迷い込んだかのような錯覚をする。

 

奴らが外国人なら、こんな態度とってもこんな奴いても、外国人だからしょうがない。ましてや人種が違えば尚のこと気にならない。

 

凶暴な農民、よそ者が侵入すると農具を持って襲い掛かって来る。そんなワンシーンは映画やゲームの中だけのものかも知れないが、外国に行けば、東欧の田舎や中東の田舎には実在しているような気がする。

日本にも昔はいたのかも知れないが、現在は人民が均一化されたので、絵に描いたような凶暴な農民はもういなくなってしまった。と思っていたが、それに近い人達が、まだいるというのはある意味、日本にとって人民遺産なのではないか?とも思える。

 

最後まで人民の均一化に抵抗して生き残っているのか?一般人民と隔絶され続けてきた為に、一般の時代性から取り残されて遅れをとってしまったのか?

 

日本も多様だなぁー。と思いました。

旅ラジの「孤高の大国イランについて話そう #041」の回を少し前迄聞いていた。感慨深かった。ゾロアスター教徒がいまだにいるというのがアツかった。

 

そのラジオのせいか?イランとごちゃごちゃになってしまった部分もあるのかも知れない。

 

カナダホト🎪地区の住民は、知っている顔かよそ者かをよく把握している。とにかく、よそ者を排除したいと考える傾向があるのかも知れない。

 

今日でくわした畑地の爺さんは、何も危害を加えて来なかったが、ひたすら私の方をジロジロと白い目で見ていた。

 

この地域と何も関係のない私がズカズカと踏み込んでしまうのが悪い。

 

ただ私は、トラス橋の遺構と、カナダオボー(天神祠)を見たかっただけ。

 

過去にカナダ*オボーと名付けた。カナダ地区に存在する天神祠だから。

 

《オボー: モンゴル人にとって、天神信仰(テングリ信仰)の為に石を積み堆積させた一角。そこで仏教祭祀を行う場合もあり、山岳信仰の場にしている場合もある。祖先を祀る場でもある。道標や境界を表す事もある。》

 

日本人旅行者がバックパック中に銃撃されたり殺されたりする原因を、単にアジア蔑視などと片付けてしまう事が多いが、もしかしたら歴史的に色々問題のある場所の可能性があり、他人、よそ者、ましてやアジア人になんかズカズカと足を踏み入れられたくなんかない集落に、何も知らないあっぱれな日本人がノコノコと足を踏み入れてしまい、殺害されてしまった。

などと実はそういう事だったなんてことがあるような気がします。

 

これ言って良いのかどうか分からないが、カナダホト🎪地区、まるで小さなトゥバ共和国のようにも思える。

 

トゥバ共和国はロシアの構成共和国で、トゥバ人が主流派でトゥバ語の方がロシア語よりも話されているが、ロシア最凶の治安の悪さで、街中でも草原でもゴミの散乱が酷く、アル中の多い、白人を見ただけで殺しに掛かる。よそ者を非常に毛嫌いする共和国だ。

 

ロシアによる放置が原因だか何でだか知らないが、酷い貧困によりこんな状態になったという。

 

カナダホト🎪地区は、外からは何も分からないが、どうやら歴史的に色々と問題があったようである。

 

まるで一人でトゥバ紀行やってる気がした。

 

トゥバ紀行、旅のラジオで紹介された。自分の旅ラジの入り口はトゥバ紀行だった。

 

カナダホト🎪地区は、自然環境的にはとても気持ちの良い場所である。ゴミの件は別として、トラス橋の遺構という観光資源がある。

 

 

今日だって川沿いの道路に沿ってたくさん植えてある金木犀が香ってとても癒された。風も気持ちが良いし、大きな川にも癒される。山脈の山並みも美しい。カナダオボーから見える山は最高に素晴らしい。オボーを、オボーから見える山の画を計算してその場所に建てたのか?

良い精霊が降りて来そうである。私には関係ないけど。

 

 

一人海外バックパック旅行はそんな感情になることもあるだろう。

 

-素晴らしい所だ。しかし私は、ここと何の関係があろうか?- と。

 

我に帰れば、私はこんな所と関係なくて良かったと思える。

 

 

カナダホト🎪地区の人民は村人同士の結束は強く、そして仲が良いように見受けられる。

 

ここの集落の人民は、見知らぬ他人には排除しようとするが、その反面、客人に対しては凄くもてなし、友達になれば困った時には何でも助けてくれる情に篤い人達なのかも知れない。と、カナダホト🎪地区を出る頃にはそう思えるようになった。

 

私は招かれざる他人であった。

 

田舎の人って基本そうなのかもしれないが、ここはあからさま過ぎる。

 

トゥバ共和国の人もそうなのではないか?とも思えた。

 

 

この住民は、長い年月をかけて、鎖国体制下の徳川幕府によって、文化と言語と原点を壊されていった。残ったのは「国土を守護する天乃神」の一文と土中の石堆だけ。自分の由来が壊されていく中で、この「天乃神」がいる事でどれだけ救われて来たか。

 

牧民だった人の末裔の集落を見ながら、もう見ることの出来ない誇り高き過去の牧民の姿を想うしかなかった。

 

地中に埋もれた石堆オボーの礎に別れを告げた。

The HuやHuun Huur Tuの曲を聴きながら、古き良き牧民の世界はこの旋律の中に残っているなどと考えながら黄昏る山を後にした。

 

この蒙古集落との出会いによって「内蒙古」を身近に感じさせられた。

 

🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱

 

オボーから見える山の画⛰️🏔️⛰️

 

ここに辿り着いた牧民は山を愛で、その向こう側に故郷の平原と、その彼方に聳え立つ山並みを見ていた。

 

湿潤な景色も荒涼とした大地に見えていた。

 

でもそこは荒涼とした世界に変わる事は遂に無かった。

 

 

荒涼とした静かな生活は終わりを告げ、いつの間にか倭人側の人間と一緒くたに囲われ、年月(トシツキ)が過ぎ、自分が何者であったのか、思い出すこともないまま、急かされるまま時が過ぎていた。

 

囲いから開放されることは無かった。

 

荒涼とした世界は遠い昔、完全に終止符を打っていた。そんな過去には未来も希望もなかった。

 

しかし我が胸の内にはふとした時、説明がつかない荒涼とした想いが蘇る。何故だか分からない。

 

🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹🔱🌹

 

途中から憑依されているような文章になってしまいました。

 

オボーから見える山の景色から受けるインスピレーションをそのまま書いた。

 

なんかブリヤート民謡の歌詞にありそうな文章になってしまった。

 

日本という特殊な事情を持つ環境ならではの内容。

 

これは、自分が書いたのではない。

 

 

 

400年の経過をひとつの歌詞に纏めたように思える。

 

牧民は倭国に漂着した。山塊を見て故郷を懐かしく思う。

 

湿潤と荒涼について。

遊牧民にとっては荒涼より湿潤の方が良いに決まってる。

湿潤とは、現実目に見えてる濃い緑色の景色。荒涼とは心の中にある景色。

 

「荒涼とした世界に変わる事は遂に無かった」

 

遂に故郷に戻る事は出来なかったという解釈も出来るし、倭国を自分の故郷のような親近感を持つ事は遂に出来なかったという解釈も出来る。

 

倭人。民族的倭族なのか同化倭人なのかよく分からない。幕府から土地を与えられた倭人、或いは罪人として扱われた倭人が、田を耕す為に入植したのかと思われる。遊牧民の言語感覚からしたら、ワレワレ、ヤマヤマ、ヒトビトなどはとても奇異に聞こえる。遊牧民の目で見た日本人の体の動きは非常に滑稽に見えたのだろう。

 

そんなヘンテコリンに見える倭人と一緒くたに定住させられた。

 

彼らは互いに、何かにつけて余計な口出しをし合っている。細かいことでも互いの行動を妨害し合っている。人の事を急かす。とても依存心が強く、自分の頭で考えようとしない。そして人の目ばかりを気にする。彼らの内面はその表情からはよく見えない。倭人には深い内面など存在しているのであろうか?

 

奴隷身分から見ても、倭人たちは奴隷のような媚びへつらいをする。とてもヘンテコである。どこか弱々しく頼りない存在だった。

 

遊牧民だけの自由な生活は終わった。これからは過干渉な倭人というものと生きていくしか道はないのである。

 

 

そして何代かを経て歳月が流れていく。

 

代を経ていくうちに自分らが元々遊牧民であった事が分からなくなってしまった。思い出すような機会は与えられないし、休みなく急かされながらら田従事させられているのでそんな余裕もない。

 

「そんな過去には未来も希望もない」

 

そんな過去とは、個々の由来、アイデンティティ。未来や希望とは、安泰の世。

 

「個々の民族的アイデンティティを言っていては、この国の安泰はない」という事だろうか。

 

「そんな事より…田従事」とさんざん言われ、弱虫どうし、太陽の下で一丸となって田を耕そう。徳川様の恩情に報いるために。と重篤な弱虫に溶け込め溶け込めとガンジガラメにされていった。

 

倭人の農民から絶えず監視されているので自由に移動することが出来なかった。これは檻で囲われているのと同じ。

 

また時代を経て、集落は「特定小集落」として扱われ、江戸期よりはましになったが依然、人権蹂躙を受ける儘であった。そして更に時が経ち、表向きは「特定小集落解放」という事になったが現実は何も変わらない。

 

初めて牧民がこの地を踏んでから400年以上が経ち、その後裔は自身の祖先が「牧民」である事を全く知らない。「牧民」生活が完全に終焉してから長い長い月日が経つが、その後裔の心には説明のつかない、現実を生きる身としてははありえないような、牧民の頃の感情や情動や風景や諸々が沸く。

 

後裔には自分でも理解出来ない。

 

🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹🏹

 

牧民天神は凄惨な江戸期の体験を言おうとはしない。辛い体験は無理に吐き出させない方がいい。

 

私が牧民天神(天神祠《テングリオボー》)に石を持って行き、手を合わせた時、牧民天神は「面白い倭人側の人間が来た」と思っただろう。面白いとは嘲笑的な意味合いであったと思う。その時の自分は”世界平和“と”大陸との繋がり”を切に祈った。

 

効果は直ぐに出たと思う。知らんけどw

 

牧民天神は、祈祷者の血統的バックグラウンドを見透かしていたと思う。神仏の類、魔物の眷属は相手の血統的バックグラウンドを見透かせるという。

 

私の本当の祈りは、世界平和でも、大陸との繋がりでも無かったのかも知れない。神仏というのはそこら辺をよく見抜く。

 

その頃の私は非常にモヤモヤしていた。モヤモヤとは、自身個人の問題であった。*想像にお任せします。

 

モヤモヤの解決の糸口は提供してくれたと思う。

 

すぐにその方向に事が進んでしまった。

 

しかしそれは私自身の願う事ではなかった。

 

 

文化断絶や弾圧など、筆舌に尽くし難い事を倭人によってされて来た民の信仰する神である。“面白い倭人”の願いを叶えるのは容易いものであったであろう。と、今になって感じる。(意味わかんなくてすまん)

 

この牧民天神と倭人側の人間とは和解出来ないと感じた。

 

牧民天神の御利益が続いているとすれば、由々しきことである。御利益の代償に…ということもあり得るかも知れない。闇雲に神仏に手を合わせることは薦められない。

 

 

今日のブログは超常的(スピリチュアル)になって読んでる人にとって、意味分からなくてすまん。

 

⛰️🐫⛰️🐫⛰️🐫⛰️🐫🏔️🐫⛰️🐫⛰️🐫⛰️

 

good ブログに於けるカナダ地区シリーズの記事はこれで終わりです。難読のこのシリーズをお読み頂いていた方に対してはとても惜しい限りです。厚く感謝申し上げます。😭遊牧の記事は続けていきますので今後とも宜しくお願いします。

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

 

散々カナダとか言ってた割に、最後にトゥヴァの歌。*トゥバ=トゥヴァ

トゥヴァの曲意外にもキャッチー。

 

 

(Daglarym - Huun Huur Tu ft. Sainkho)

Daglarym(My Mountains)

 

あわせて読みたい記事

 

てつはう - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

ソトの世界の人々 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

カナダオボー(金田鄂博)についての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️🎽 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

カナダオボー考察の記事で書くのを忘れたが、倭人武士の競馬神事は”馬場”の中でのみで行われ、”駒比べ”と称される。

馬場の外で競馬をすることはない。

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ソトの世界の人々

2025年05月17日 | 遊牧アディクト

約400年前に大陸から倭国に渡来した、かつて騎馬遊牧民🐎であったカナダ人🏹は、中世の幕府時代から続く倭国の封建社会体制側から見れば”ソト“の世界の住人であった。

 

これは近代日本になる前の「中世」の話である。ブログ管理者に引っかかる可能性がある身分制度に関する話題である。

 

カナダ人🏹と同じカテゴライズにされた”ソト“の住人には、“穢多””非人“ ”サンカ“ ”歌舞伎役者“などがいる。

 

カナダ人🏹とは↓

カナダ🏹についての説明 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

カナダ🔱について

(*北米のもみじ🍁帝国ではございません。紛らわしくて大変申し訳ございません)

 

カナダ人🏹とは、カナダ地区に定住させられている人を指す。中世に定住させられ、彼らは現在も動けないままの状態にある。

 

定住しない者を、中世では“非人”として扱っていた。

 

江戸時代の身分制度の“穢多・非人”の“非人”である。

この”穢多・非人“とは身分制度の最底辺のような気がするが、”穢多・非人“は最底辺ではなくて、身分制度の”外"の扱いであった。

 

“穢多”とは土木工事、掃除や埋葬、遺体を洗う生業など「ケガレ」を清める仕事に従事していた人&牛馬の尸の処理、皮革業、刑場の死刑執行人など「ケガレ」自体を生業としている人。四つ脚家畜を飼育し、屠り、常食する人も指す。屠らずとも動物と関わる仕事をする者も“穢多”であった。村落で農耕&荷駄牛を世話する生業の人、軍馬を飼育し、調教する生業の人も“穢多”であった。

 

穢れとは、“忌まわしく思われる不浄の状態”

 

死、疫病、性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすとされると信じ、避けられることである。

 

日本では古来より、動物は“穢れ”とされていた。仏教の伝来に始まり、開国・明治維新までの間、動物や食肉は疎まれてきた。日本人が肉を食べないのは、江戸期の生類憐みの令にはじまった事ではない。

 

その中でも、鶏や兎や魚介類の食が受け入れられていたのはよく分からないが、四つ脚動物の食用は疎まれてきた。

 

自身の話になるが、祖母は四つ脚動物の食用を嫌い、口にしなかった。四足獣を食べると自分も四つ脚で歩くようになると言っていた。祖母は曽祖母からそう言い聞かされて育ち、曽祖母は高祖母からそう言い聞かされて育った。そういうふうにして、日本人は四足獣食を先祖代々嫌ってきた。母はそういうのは時代遅れだと思ったらしく、30年ぐらい前から四足獣(牛、豚)を口にし始めた。当時、畜産物が他より安価に手に入る相模原に生活しているのに四足獣をヘイトするのは非常に勿体無い。父は逆に肉好きであった。

 

“非人”は“穢多”と混同されるが、元来別モノである。非人は定住しない人、農業を中心とする封建社会体制から外れる人、物乞い、芸能を生業とするもの。紙をリサイクルする人、掃除、警備、刑場での雑務などを生業とする人などで、就ける職業が決まっていた。“足洗い”という仏教儀式により平民になる事も出来た。〜から足を洗うというのはここから来たのだろう。穢多とは違い、移動の自由が許されている賎民身分であり、流動性がある。

 

“サンカ”というのは、謎多き民である。サンカ民族がいるとも言われていた。農業をせず、定住せず、狩猟採取や盗みなどで生計を立てていた。そして戦前までは“サンカ”の目撃者などが多かったとか。“サンカ”の子供たちは学校には行かなかった。目撃例の多い場所は、河原や山の中など。そこにテントを張って生活していた。サンカは漢字で「山家」や「山窩」と書いた。“サンカ”という言葉は“山賊”と同義で使われていた。サンカ語を喋り、サンカ文字を使うとも言われていた。サンカは縄文時代よりも昔から日本に住んでいた民とも言われ、忍者の末裔とも言われ、逃亡農奴とも言われていた。

 

第二次世界大戦以降はサンカ目撃例の話は出て来なくなった。サンカはどこに行ったのか?

一説に依ると“溶け込み”をしてしまったという。“溶け込み”とは、定住者になり、世間からも気づかれない程、定住者に同化してしまうことである。

 

そしてまた、別の説によると“サンカ”とは“サンカ民族“がいるのではなく、単なる”非人“ではないか?とも考えられている。定住しないので”非人“のひとつではある。

 

サンカとカナダ人🏹は幾つかの共通点がある。カナダ人🏹は最終的に幕府に定住させられたが、本来は定住しない生活を送る人たちであった。そして狩猟や略奪、商売などで生計を立て、生計が安定すると略奪した牛馬🐂🐎や山羊🐐などで牧畜していた。土を掘り起こす事を極度に嫌い、農業従事を嫌った。カナダ人🏹の移動住居はどうしていたのか?本国からゲル(ユルト)🎪を持って来ているわけはない。サンカのセブリテント⛺️のような獣の皮で作ったテントで過ごしていたのだろうか。

 

カナダ人🏹というのは、農業を主だった生業とする封建社会体制の“内”で生きる倭人から見れば“サンカ”と同じ様に映ったのかもしれない。

 

サンカとカナダ人🏹の大きな違いは、溶け込むか溶け込まないかである。

定住者に“溶け込んでしまった”のがサンカである。

 

カナダ人🏹が幕府に強制的に定住させられていたのに対し、サンカは戦前まで放浪している者もいたのが疑問だ。やはりサンカは“非人”身分だったのであろう。非人は穢多とは違い、移動の自由が許されていた。それに比べ、穢多は江戸期には農奴身分に成り下がり、移動の自由が認められなかった。

 

現在に至ってもカナダ地区は引越しや婚姻相手の自由が認められていないらしい。《神奈川県人権啓発センター YouTubeより》

 

しかし何故カナダ人🏹はそこまで弾圧されていたのだろうか?

 

“ウチ”の世界の倭人の庶民は、カナダ人🏹から迷惑を被っていたとも考えられる。カナダ人🏹の飼育する家畜に農民の野菜🥬が喰い荒らされる被害に遭い、争いが絶えなかったとも考えられる。

 

カナダ人🏹は元来遊牧民族である。倭国に移住しても生き方を倭人とは同じに出来ない。農業を極度に嫌う。倭国の狭小な草地では、年間を通して定住出来ず、長距離移動が宿命づけられていたと考えられる。江戸期に入る前は古道を通り、広範囲に移動していたと考えるのが自然だ。カナダ人🏹は広範囲の農民に、家畜による食害をもたらした。

 

江戸期に入り、「これは由々しき事だ!」となり、幕府と藩が動き出した。というのが理由のひとつ。

 

カナダ人🏹は体制側から見れば、非定住者である“非人”であると同時に、四つ脚動物を飼育し、屠り、これを食すという“穢多”でもある。遊牧民族は、農業を生業とする社会体制から見て、全て“穢多”であり“非人”である。というのがもうひとつの理由。

 

江戸期がはじまり、幕府は鎖国を始める。鎖国下の倭国に暮らす外国人は、幕府から苛烈に弾圧されていた。カナダ人🏹という人たちは、庶民の目から見ればサンカその他と同じ“ソト”の人間であり、彼らが外国人であると認知されなかったのかも知れないが、藩や幕府の目から見れば、奴らは明らかにオカシイ。「殲滅せねば!!」となったのが3つ目の理由。

 

最後の理由が、カナダ人🏹の戦闘力の高さ。これが最大の理由であると考えている。幕府にとって脅威である。カナダ人🏹は穢多&非人に過ぎないが、騎馬技術が、上級武士よりも非常に優れている。騎射(流鏑馬)技術も長けていて、武器製造も彼ら自身で行なっている。倭人が考えない戦法を使う。何よりも高い攻撃性。「こやつ等は絶対に野放しにしてはならない!!殲滅だ!」という運びになった。

 

“ソト”の世界。一概に言えないが、ソトの世界で“遊牧遺構”が見つかる可能性がある。

 

鎌倉時代(幕府時代)以降、倭国に漂着してしまった数奇な運命の遊牧民&騎馬遊牧民は、“ソト”の世界で長い月日を過ごし、現在に至ってもカナダ地区の様な、周縁化された特定小集落に強制的に縛り付けられているケースが多いと考えられる。それ以外は江戸期鎖国時代、幕府によって殲滅されてしまったのかも知れない。殲滅を逃れた者だけが、特定小集落に縛り付けられている。

 

倭国に漂着或いは、貿易などの用事で倭国に渡来し、倭国の奥深くに入り込んで来てしまった外国人は多い。しかし、倭族と相性の良い民族と良くはない民族がいたのではないかと考えられる。

 

この場合の倭族とは、農業従事を生業とする封建社会体制に属する、いわゆる“ウチ”の住人を指す。

 

倭族と親和性の高い種族とは、倭族のつくるムラ社会と相性の良い種族である。あからさまに言ってしまえば、中国南部、ベトナム(安南)、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどの、稲作を行うコメ文化の農耕民族や、南太平洋の島嶼国出身の漁労民族であると感じる。

 

これらの国や地域出身者は、農村や漁村などの倭人のムラ社会に馴染み、溶け込み、倭人と結婚して子孫を残していった。

 

東南アジアのこれらの国々は、かつては倭族と親和性が高かったものの、漢の支配、ヨーロッパ植民地支配、社会主義政権支配、イスラム教、キリスト教の影響などにより民族性が変容してしまったのだと感じる。それに比べて日本人の民族性は昔からさほど変わっていない。日本人は他民族から支配された事はないので、古来より民族性がさほど変わらないままだ。

 

大陸の遊牧出身の種族は、倭族と親和性が低かったのであろう。カナダ人🏹のように、遊牧民というのは生計が安定しないうちは略奪を行い、農業従事を嫌い、四つ脚動物を屠殺し、食す。牧畜を行なっている場合は、農民の育てた野菜を家畜が喰い荒らす。日本人にはカナダ人🏹を上手に飼い慣らす手腕がない。

 

倭国の封建社会体制側にしてみれば、目も当てられないどうしようもない輩である。古来より“穢れ”を忌み嫌う日本人のフィーリングも彼らを受け付けられない。

 

という事でどうしても遊牧民というのは、“ソト”に追いやられてしまったのではないかと考えた。

 

遊牧遺構を探し回ったが、絶対に見つからない場所は、“〜団地”などという新興住宅地と、新道沿い、田地や、古くから存続する村落付近、湿地帯である。

 

逆に見つかる可能性が高い場所は、古道沿い、周縁化された村(特定小集落)と、相模原市のような“水から遠く、農民が定住出来ない環境”の台地や、高原などであると思う。

 

関連記事↓

NO MAN‘S LANDと掛けてNOMAD’S LAND - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

相模野台地北部は、遊牧民が生活していたようなリアリティが肌身で感じられる。

 

遊牧民族がこのような島国に漂着する事自体、不遇に他ならない。島国という狭い世界では生きられない。物理的な土地の広さに身を救われることが大きいというが、島国では逃切ることが出来ない。大モンゴル帝国🔱とは違うのである。カナダ人🏹の母国の名を出すつもりはなかったが🫢しょうがない。

 

元帝国が明に滅ぼされた後、北に退く事が出来た。それは物理的に広い大陸だからである。

 

日本のような単一種族の島国では、捕まって殺されるか、小集落に定住させられ、倭人化されるしかないのであろう。カナダ人🏹はなぜ日本に来てしまったのかは、何をどう考えても分からない。その時代は大陸で戦乱などはなかった。

 

これは完全なる妄想ドラマだが、カナダ人🏹は樺太で商売を始めるために、沿岸まで行き、満洲族の一部の、航海術のある部族に船を手配して貰い、満洲族の船頭或いは船長と共に樺太へ向かったが、潮の流れや天候の関係で遭難したか何かで、日本に漂着してしまったのでは?と妄想する。元々日本に来る用事などなかったんだと思う。樺太や蝦夷地は、貿易をしていた。倭国もその当時、貿易をしていたが、樺太や蝦夷地、極東ロシア、アラスカ、カナダなどの地域は貿易の対象ではなかった。*北元の人🏹は倭国など眼中になく、倭国も北の地域など眼中には無かった。倭国が北に目を向け始めたのは、江戸になってから。

《*元帝国が明によって滅びた後、北に逃れた元の残党勢力》

 

歴史資料館や、祠や石碑などの説明に「〜市教育委員会」の表記のある物は、倭国の“ウチ”側に認められた、“ウチ”の歴史遺産である。どの歴史資料館を見ても、農民の歴史と漁民の歴史、お決まりの日本史の教科書に記載されている事だけである。

 

 

漂着民の歴史、歴史上現れた多様な生き様などは何も展示されない。”ソト“の世界の住人は、歴史上“存在しなかった”ことにされてしまうのだろうか?

 

 

倭国におけるウチとソトの概念を知ってから、長年の疑問が溶けた。

 

カナダオボー(カナダ地区にある天神祠)には「教育委員会」の表記が無いのである。誰が書いたとか何も無い。これは本物だと思った。

 

最後にひとつ疑問が残る。カナダ人🏹の飼育する牛や馬が必要とする“塩”はどうしていたのだろう?

 

という事で長文のご精読ありがとうございます♪

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純ジャパの心

2025年05月10日 | ザ・日本人の気持ち

自身、*純ジャパのにっぽん人である故なのかどうか分からないが、言葉で説明つかないような、インバウンド外国人や技能実習生などに対する生理的な嫌悪感を覚える時がある。

 

《純ジャパ:海外渡航経験が全くない日本人》

 

自分は“にっぽん人”なりの独特の傾向が相当強いと自身で感じている。

 

 

以下、自分は独特だろうと思う感性について書く。他の日本人も共感する部分もあるかも知れない。

 

 

これから日本に居住しようと思っている外国人に対して、“にっぽん人”にはこういう傾向もある。という事を頭に入れておくことを勧める。

 

大半の日本人にも、私と共通要素はあるはずと思っている。しかし私には外国の要素はない。日本人と自分はウマが合う部分もあるかも知れないが、外国人とは全く共通点が無い為、実習生などに対する嫌悪感が人一倍強いのではないかと考えている。それを差別的と捉えるか否かは、貴女(方)次第だ。

 

*ネット上、音楽、映画、動画配信などコンテンツ上の外国人、Liveステージ上の外国人、エスニック料理、雑貨、舞踊などの外国文化などは此れに当てはまらない。

 

 

以下は、私が“純ジャパのにっぽん人”である事の心理面・性格面が強く出ていると感じる特徴を挙げつらった。

 

・多様性への耐性が低い。

外国人の身体の動きにここまで過敏な人間は他にいないと思う。外国人は日本人とは身体の動かし方が違って見える。それに違和感を覚えてしまう。

 

 

・パーソナルスペースが広い。侵害されると萎える。

 

・大きな音を立てられる事が大嫌い

 

・大声(罵声、怒声)を出す事はそれだけでゲームオーバー

 

・無駄に大きい声で喋る女性が苦手

 

・甘えたような声を出す女性が苦手

 

・とってつけたように、わざとらしく感情を表に出す女性が苦手

 

 

・焦る、荒立てる動作が大嫌い。

急いでもいないのに焦っているような動作。トイレなどで紙を延々使う。ドアを力まかせに閉める。

 

・おっとりしている

 

・超絶の人見知り(シャイ)

 

・人に関与されたくない

煽り運転、煽り歩行などの妨害行為などは関与されているように感じる。無音でいきなり接近する事も関与。用もなくジーッと監視するのも関与。身体の一部を意味なく触れてくるのも関与。身体がやむなく触れてしまった時に逐一「すいません」を言うのも関与。

 

 

・対人関係に於いて非常に消極的

自分から話題を切り出せない。聞かれたら答えるだけ。受身オンリー。自分から挨拶出来る人は非常に限られている。それ以外は怖い。友好的な部類の人はさほど怖くない。

 

 

・ハッキリしない性格。

直接的な表現を人にぶつける事が極端に苦手。率直にモノが言えず、奥歯にモノが詰まったような、まわりくどい言い回しをしてしまう。そして曖昧な態度になる。

 

・ハッキリした人が苦手。ドストレートにモノを言う人が怖い。会話のテンポが遅いと直に言われたとき恐怖を覚えた。

 

・人と接する時は身構える。その人を刺激しちゃったらどうしようかと不穏な気持ちになる。

 

・フラットな関係性が苦手。縦の関係性では、何かの“ポジションとしての役割”で関係性が築けるが、フラットだと何もないからどうやって接していいかわからない。

 

・見えない境界を意識してしまう。自分は自分、貴女は貴女。ズカズカ入り込んで来る相手には、“余計な口出しすんな。”という内容を超絶まわりくどい言い方で伝えて、線引きしてしまう。

 

・話をしている途中に、笑いを入れてくる人が苦手。

 

・道路上でチラシを配る行為は進路妨害。

関与されてるような錯覚。

 

・路上でのセールストーク、うるさいと感じる。

 

 

 

はっきりしない気質は日本だから通用する。こちらがなんにも言わなくても、まわりが察してくれて、動いてくれる。海外や、特に多元文化社会であるアメリカやロシアなどでは通用しない。海外向きは率直でド直球でモノが言えるタイプの人。

 

 

私はやっぱり日本向き。

 

 

日本仕様だからこその私。

 

周りに恩返しする為にも、「察せれる人にならないと」と反省の毎日

 

 

言葉を口に出す事がもの凄く苦手で、億劫である。小さい時から、親に「口で言いなさい!」と無限に叱られてきた女の子です。

 

 

これから日本に居住しようと思っている外国人の皆様へ。

 

我々日本人を威嚇したり刺激したりしないで下さい。

 

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

*私は日本人の模範ではないので悪しからず。

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実習生に対する愚痴

2025年05月03日 | ザ・日本人の気持ち

まとまりのない文章ですみません。この記事を読んだ方は私が差別主義者だとドン引きすると思う心の声ダダ漏れの記事。

 

私は実習生に関与されるのが本当に嫌である。

 

実習生らは、互いに面識もないのに、狭いところをすれ違いざまに、私の腕や肘などを掴んでくる。並んでる時背中を指先で触ることもある。

 

これは実習生などの外国人に限らず、日本人から無意味に身体を触られても非常に嫌悪を覚える。

 

日本人は無意味に触ろうとはして来ない。むしろ、少し触れただけでもいちいち「すいません」と謝る。それもウザい。

 

日本にはスキンシップの文化が初めから存在しない。だから余計にウザさ嫌悪を感じる。

 

男女の営みと、親が子を抱く、背負う、殴り合う以外は、個体同士身体が触れ合うことなどない。キスの文化も握手の文化も無かった。

 

外国人に対する嫌悪は、社屋の物理的な狭さに起因するものと、自分の皮膚感覚による。

 

この会社の日本人労働者全てが、私ほど過剰に嫌がってはいないということがわかった。

 

他の日本人労働者の殆どが、外国人に対して嫌悪感や危機感を持ってはいないようだった。私の思い過ごしだった。彼らは、差別主義者だと思われたくはないから、そんな話題をお首にも出さないのだろうか?私は、日本人労働者全員が、奴らを嫌悪してるだろうと考えていた。陰口叩く対象も同僚の日本人のパートのおばさんについて。外国人に対しての陰口は聞いた事がない。外国人について陰口の材料が山ほどあるだろうに。

 

 

唯一陰口を聞くとすれば会社の清掃員が、国際線旅客ターミナルのトイレの状況の愚痴をこぼすような内容であった。清掃員に奴らの何が嫌か聞いたところ、声がうるさい、仕事サボってトイレで時間を潰すという不真面目さ、トイレで菓子喰ってる、ロッカー室で菓子喰ってる、喋るなと書いてあるのに大声で喋るという、会社の規則を守らない等。汚すというのが一番気に食わないという。清掃員だから当然。

 

会社は何故そんな奴らをクビにしないのか?

 

清掃員からの又聞きによると、20代のカタコト日本語しか出来ない実習生が、自分の方が手が速く、器用だから、日本人パート労働者に「お前引っ込んでろ!私やる!」と強い口調でやり込めていたらしい。パートにしたら地獄だ。

 

日本人のおばさんに対して「邪魔!」と言ってどかしたらしい。

 

ヒドイカタコトを覚えたと思って感心する

 

日本人労働者の大半は懐が深かった。外国人の存在など全然気にしていないようだった。私の共感者など、ほぼいない事は確定。私は大半の人と感覚とか色々が違うのかと不安になったりしたが、今に始まったことじゃない。

 

私は日本生まれて日本育ちなので、純然たる“にっぽん人気質”である。その上、日本から出たことはない。その為か知らないが、そういう感覚が非常に偏狭である。

 

日本には元々日本人しか存在しなかった。他国人に土足で踏み込まれたら嫌悪、憎悪しか感じない。それがにっぽん人の正しい感性だと思う。

 

実習生の多くは、私のすぐ後ろを延々びったりとせっついて来る。私が足速に逃げると、実習生も追って来て、再びすぐ後ろに張り付く。別の実習生は、後ろから足速に迫ってきて、真横に来て私の方へ寄って来る幅寄せのようなことをする。また別の個体は、ニョロッと真前に来て、ノロノロと歩く。数人の実習生の群れは、私の顔を、私がその場から通り過ぎるまでジーッと監視する。私だけが実習生の外国人共にバカにされてるのかと思ってたら、他の日本人にもそれをやっていた。日本人に限らず同国人や別の外国人にもやっていた。実習生から干渉されてる(ちょっかいを掛けられている)ようで、非常に不快である。極力奴らとは関わりたくはない。これは嫌がらせなのか、単なる無神経なのか。

 

日本人のパートのおばちゃんは、日本語が出来る実習生に対しては友好的である。

 

この文章を何度も見ているうちに、煽り運転に似ていると感じた。

 

煽り歩行。などという行為はあるのだろうか?

 

こんな事を会社内で日常的にやられていてはストレスが溜まる一方で、心の余裕がなくなるのである。自宅に帰っても何故か落ち着かない。会社での仕事とは無関係なストレスが溜まる。

 

横入りは、明らかに不正行為だから正論でぶっとばしていい。逆上したらぶっとばしていい。

 

しかし、廊下での件は“不正行為”に当たるのか、煽り運転は“犯罪”だが、煽り歩行という事態は存在するのか。でもそれが、故意のものではなくただの無神経だったら、その場で「どけ」という他はない。ホンネを言えばボコボコにしたい。

 

実習生は、狭い場所に立ちはだかり、全くどかない。事が済んだらさっさと行くだろと思いきや、モタモタして事を終わらせない。奴らは、こちら側に「すみません」と言う声掛けをさせる方向に持っていこうとする。

 

奴らは注意を向けさせようとする。奴らが完全に“我関せず”で無神経あれば、ウザくないのだが、そうでもない。逆に“こっちに関心向けて”(所謂“構って”)のような様子であり、故意にモタついている。実習生がどくまで、気づいてないふりをして待っていた事があるが、それをやると5分でも10分でもどかない。

 

こちらが「すみません」と言うと、実習生は事をすぐに終わらせて、頭を下げたあと、すぐに立ち去るわけでもなく、静止して暫くこちらの顔をジーッと監視する。日本人というものと会話する機会を伺っていたのか?それなら自分から何か話し掛けて来れば良いのだが、そういうわけでも無さそうで、監視するような態度をとる。こちらは実習生なんかと会話する気はさらさら無いので、我関せずな態度でいる。

 

なんなの?気持ち悪い。

 

どうせ日本語わかんねーんだろ?

 

言える人なら「あっちへ行け!」と言えるだろう。

 

私は、純然たる、にっぽん人気質なので、直接的な言い方を人にぶつける事が極端に苦手である。それが、私の最大の“弱さ”である。

 

ワンクッションある言い回しでは、絶対に動かない。

 

「邪魔だからどいて下さい!」ぐらい強く直接的に言わないと、奴らは決して動かない。そこが最大のネックである。日本語が分かっていても分からないふりをする。日本人を完全に舐めている。どうせ日本人は大人しいから何も言えないだろうと。

 

にっぽん人は、腹の底では殴りたいと思っている。友好的に見えるおばちゃん達も、腹の底では殴りたいと思っているのかも知れない。それこそにっぽん人の良いところであり、悪いところでもある。

 

人をどかす系の言葉は、私は極力使いたくはない。にっぽん人はトラブルを最も嫌うので、大半はそうであろうと思う。接触トラブルというものを嫌う。満員電車の中で肘の突き合いがよく起こるのも日本の特徴だろう。「邪魔だからどけ」などと言ったら殺されるに決まっている。日本人同士を近づけ過ぎると喧嘩をする。東南アジアなどの人口過密都市などで暮らす人は、接触トラブルなど何も懸念せず暮らすのだろうか?随分と寛容な人たちだな。実習生らは人と人との接触トラブルの怖さを知らないのだろうか?

 

 

日本人は、無言で不用意に近づいて来る奴に恐怖を覚える。そういう皮膚感覚だ。だから、用がなければ極力物理的な距離を取る。

 

逆に実習生は、日本人の事が全く気にならないのかも知れない。実習生たちの祖国は東南アジアの国である。アジアの超絶過密空間などに比べれば、この会社など屁でもないのだろう。奴らはこの会社を空間の広い場所だと感じているのかも知れない。広いから日本人の動きや様々なことが気にならない。だから日本人のパーソナルスペースへの配慮など懸念せず傍若無人に動きまわる。

 

日本人の懐の深さと、東南アジア人の寛容さとで、両者は折り合いがついているのだろう。

 

奴らの身体の動きは、クネクネしている感じで気色悪い。そして、前から歩いて来る場合でも、幅寄せをするように、人の歩いている方に近づいてくる。一種の侵害かと思う。

 

実習生はしょんべんくさい中学生ぐらいにしか見えなくて、学校文化を彷彿させられる。実習生は20代しかいないと思っていたが、30代も40代もいる。30代40代にもなって、連れションをする。そして、甲高い声で騒ぐ。東南アジア出身の人は、群れを好む。その点、日本人と似ている。日本人と同じ、稲作農耕民族だから共通点が多いとは思う。だから過干渉な性質があるのかも知れない。

 

何かと“関与”してくる

 

嗚呼ウザいウザいウザいウザい!!!

 

会社から派遣がいなくなって、人が減った事によって殊更、実習生による“煽り歩行”の傾向が目立つようになった。

 

愚痴ばっかですまん。

 

長文のご精読ありがとうございます

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