北条時宗。1251~1284
その頃、鎌倉幕府では大蒙古軍との戦争の危機が現実のものとなりつつあった。執権・北条時宗はあくまで従属を拒否して一戦を交える覚悟ではあったが、確かな情報による万全の備えを固める必要があった。
24歳の時宗は「立正安国論」で外国の侵略を予言した日蓮に関しても再度考えなおしていた。「自分たちの取った処遇は果たして正しかったか。もしやとんでもない間違いを犯していたのではないか。」6年前の日蓮の書状を何度も読み返し、日蓮に対する考えを改める。側近の平頼綱を呼ぶと「今すぐ、日蓮を釈放せよ。即刻、鎌倉に呼びよせよ。」と告げた。
3度目の冬を超えた1274年3月、日蓮のもとに赦免状が届いた。阿仏房夫妻や日蓮を慕う島民たちと別れて日蓮主従は鎌倉に帰った。幕府で日蓮を迎えたのは龍ノ口にて処刑を行おうとした平頼綱その人である。しかし、頼綱の態度は一変して鄭重そのものである。「この度はお疲れ様でございます。その節は大変ご無礼を申し上げました。本日はよくぞ起こし頂きました。執権が直々にお目にかかります。さあ、こちらへ。」
執権・時宗からは「今後、貴僧と法華経を幕府としてお護りさせて頂きたい。貴僧も是非幕府及び日本国を一緒に護って頂きたい。」という言葉があった。そして「蒙古軍は何時日本に攻めてくるだろうか。」と尋ねる。日蓮は即座に「今年中には来るでしょう。」と答えた。(事実、その年の10月に蒙古軍は対馬、壱岐、博多を侵す「文永の役」があった。)頼綱からは日蓮に愛染堂(聖徳太子が開いた霊場)の別当職(学校長)への推挙と良田一千町歩を寄進するとの提案があった。
日蓮は幕府が会いたいと言ってきた時に、自分のこれまでの建言を採用するのだろうと予想していた。それは法華経を真実の教えとして国家の宗教とすることだった。念仏と同列に扱われるのは日蓮の主張ではない。幕府はあくまで信仰の自由を守り、法華経以外の信心を止めさすという日蓮の求めに応ずることは無かった。日蓮は今度こそ失望した。幕府からの提案も全て拒絶する。20年に及んだ日蓮の戦いは終わった。
日蓮が幕府に求めたものは地位でも名誉でも富貴でもない。真正の仏教により乱世を治めることである。そのために何度も命を賭けて、誠心誠意訴えた。三度申し入れ、三度断られた。もう二度と鎌倉に入る気はない。5月、日蓮一行は甲州の豪族・波来井(はきり)実長の招きに応じて、鎌倉を去り身延山に向かった。日蓮53歳。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は雷
*** *** 行動、志
********
*** *** 下卦は水
******** 艱難、問題、悩み
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「雷水解」の卦。解は解決、解消、解けるである。堅い氷がようやく解ける。長く苦しんだ難問がようやく解決に向かうことである。解放されることを意味するが、ここで気を緩めると次なる落とし穴が待っていることもある。
日蓮は幕府を相手に、独りで20年間戦ったのである。結果は失望に終わったが、日本人の偉大さを後世に残した。現在とは論争の内容は違うが、これほどまでの信念を貫くものがいるだろうか。
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