身延山・久遠寺
日蓮が身延山を最後の地と決心した訳を考えて見たい。そのとき日蓮は53歳。人生50年の時代である。厳しい境遇の佐渡流罪は、日蓮の身心を衰弱させていた。しかも最後の望みであった幕府との話し合いも無残な失望に終った。「わがこと終れり。」そう思ったに違いない。第一線を退く時が来たのだ。常識的にはここで郷里に帰り、ゆっくり余生を過ごすのだろう。
日蓮の流罪は2回。1度目の伊豆流罪の後は郷里に帰った。小松原の襲撃にも遭ったが、その後房総から常陸にかけて「法華経」を布教している。その間に弟子も出来たし、大勢の信者も増えていた。日蓮の郷里には高齢の恩師・道善房もいる。帰りを待ち望む人たちも多く居た筈である。「龍ノ口法難」にも死ななかった日蓮は郷里の英雄で凱旋将軍のように喜んで迎えてくれたであろう。
それでも日蓮は帰らなかった。何故だろうか。日蓮が生きた時代は平和な今日からは想像も出来ない程の、激動の時代であった。生まれる前の年が「承久の乱」で朝廷と幕府が戦争をした。その後幕府の中でも内乱が度々あった。自然災害は頻繁。飢饉に晒され、疫病は蔓延した。その上に蒙古軍の襲来である。「法華経の行者」を自認する日蓮は「立正安国論」を幕府に提出し、世の乱れを鎮めようとしたのだ。仏に代わって日本を護ろうとしたのだ。
日蓮生涯の目的は果たせなかったが、護国の精神は持ち続けた。次に生まれて来るだろう「法華経の行者」に後を託そうと考えたのではないか。最後の最後まで「法華経の行者」として生きるだけだ。安穏な生活など自分には要らない。そう決心して身延山へ入ったのだろう。その為に郷里には帰らなかったのだろう。
身延山の暮らしは困難を極めた。続けて飢饉が起き、波木井実長の外護も行き届かない。台風に草庵も壊れた。寒さに耐えかねて、集まった門弟も四散する。そんな身延山から日蓮は8年間も下山しなかった。おびただしい量の手紙を書いている。長い流人生活で流石の日蓮も腸を蝕まれ、慢性の下痢のため痩せ衰えた。入山9年目、弟子のすすめで温泉療養のため山を下りる。途中池上の弟子の邸にて病床に着き、そのまま入滅する。1282年、10月。61歳だった。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は山
*** *** 堅い、動かざるもの
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*** *** 下卦は地
*** *** 小人、陰の代表
*** ***
「山地剥」の卦。剥とは剥ぎ落す。下から陰が蔓延り、陽の力は崩壊寸前となる象。衰運の象でもあるが、最後の砦として君子が独りで頑張っている象でもある。君子が最後の最後まで頑張ればこそ、次の一陽来復に繋がるのが易の順番である。
時代も波瀾万丈だったが、日蓮の一生も波瀾万丈だった。日蓮の生涯を考えると、今日の経済問題や外交問題もたいした問題ではないと思えてくる。日本人ならどんな障害も乗り越えられないことはないと思えてくる。
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