さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

「山水蒙」(爻辞)

2024-09-09 | さわやか易・講座

「山水蒙」の卦は、九二と上九の陽爻は、童蒙を教える師匠として、初六、六三、六四、六五の4つの陰爻は、教えを受ける童蒙として言葉がかけてある。

「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」

この初六は年若く、身分低い子供と考えて、教育には規律を重んずべきことを説いている。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。」とは、子供の教育は規律をしっかり身に着けさせることである。「用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」しっかりとしつける必要があり、寛大にしてしまうと、後で恥をかくようになる。桎梏(しっこく)とは、桎は足かせ、梏は手かせであるが、悪いことをした時の、刑罰である。

「九二、蒙を包む、吉。婦を納(い)る、吉。子(し)、家を克(よ)くす。」

九二の陽爻は中庸の徳を持つ、この卦の主爻である。「九二、蒙を包む、吉。」初六、六三、六四、六五の4つの陰爻を包容して啓発する。「婦を納(い)る、吉。」中でも六五は身分の高い子供であるが、まるで家族になったかのように和合し、啓発する。「子(し)、家を克(よ)くす。」あたかも、低い位置にある子がその家を能く治めるようなものである。

「六三、用(もっ)て女を取(めと)る勿れ。金夫(きんふ)を見、躬(み)を有(たも)たず。利しき攸(ところ)无し。」

六三の位は危険な位置であり、不中、不正、軽挙妄動に走りやすい。(「屯」の六三も鹿狩りに案内役を付けずに出かけた。)ここではもっとひどい陰爻になっている。「六三、用(もっ)て女を取(めと)る勿れ。」こんな女とは結婚するべきじゃない。「金夫(きんふ)を見、躬(み)を有(たも)たず。利しき攸(ところ)无し。」金のある男には色目を使い、心がけがなっていない。救いようがない。

「六四、蒙に困しむ、吝。」

六四は陰爻としての位置は正しいが、隣は三も五も陰爻で比していない。又初六も陰爻で応じていない。そこで、教える人もなく、親しむ友もなく孤独である。そこで、「六四、蒙に困しむ、吝。」となった。吝は残念が相応しい。孔子の解説によれば、「蒙の困しむの吝は、独り實(じつ)」に遠ざかるなり。」と言っている。陽、陰は実、虚ともいう。實に遠ざかるとは、隣人にも応じる爻にも陽爻がいないことであり、つまり、良き師にも、良き友にも恵まれなかった人のことをいう。すると、生涯蒙が開けないまま終わることになり、誠に残念な人生になってしまう。

「六五、童蒙、吉。」

「山水蒙」の卦辞に「我、童蒙に求むるに匪ず、童蒙、我に求む。とあった。この童蒙がこの六五である。六五は正しく応じている九二の陽爻を師として親しみ、全てを学んで成長する。誠に吉である。BC4世紀にオリエントを統一し、大帝国を築き上げたアレクサンドルは、マケドニアの王子として育ち、家庭教師は哲学者アリストテレスであった。成長したアレクサンドルは「我を生んだのは両親だが、高貴に生きることを教わったのは師アリストテレスである。」と語っている。

「上九、蒙を撃つ。寇(あだ)を為すに利しからず。寇を禦(ふせ)ぐに利し。」

上九は九二とともに師匠である。上は陰の位置であり、陽爻は正しくはない。中でもない。「上九、蒙を撃つ。」蒙童に対して容赦なく烈しく当たり過ぎる。「寇(あだ)を為すに利しからず。寇を禦(ふせ)ぐに利し。」反抗するようになるのは、宜しくない。反抗ではなく、反省するようになることだ。

指導者として、九二と上九の二つのタイプがあるとすれば、九二が理想的である。蒙童たちが自ら進んで学ぼうとするか否かが問題であり、手がつけられない蒙童にはどう接したら良いかは、かなり難しいだろう。3000年前も現代と同じく、教育は重要だったのだろう。

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