「山水蒙」の卦は、九二と上九の陽爻は、童蒙を教える師匠として、初六、六三、六四、六五の4つの陰爻は、教えを受ける童蒙として言葉がかけてある。
「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」
この初六は年若く、身分低い子供と考えて、教育には規律を重んずべきことを説いている。「初六、蒙を開く。用(もっ)て人を刑するに利し。」とは、子供の教育は規律をしっかり身に着けさせることである。「用て桎梏(しっこく)を説きて以て往くは吝。」しっかりとしつける必要があり、寛大にしてしまうと、後で恥をかくようになる。桎梏(しっこく)とは、桎は足かせ、梏は手かせであるが、悪いことをした時の、刑罰である。
「九二、蒙を包む、吉。婦を納(い)る、吉。子(し)、家を克(よ)くす。」
九二の陽爻は中庸の徳を持つ、この卦の主爻である。「九二、蒙を包む、吉。」初六、六三、六四、六五の4つの陰爻を包容して啓発する。「婦を納(い)る、吉。」中でも六五は身分の高い子供であるが、まるで家族になったかのように和合し、啓発する。「子(し)、家を克(よ)くす。」あたかも、低い位置にある子がその家を能く治めるようなものである。
「六三、用(もっ)て女を取(めと)る勿れ。金夫(きんふ)を見、躬(み)を有(たも)たず。利しき攸(ところ)无し。」
六三の位は危険な位置であり、不中、不正、軽挙妄動に走りやすい。(「屯」の六三も鹿狩りに案内役を付けずに出かけた。)ここではもっとひどい陰爻になっている。「六三、用(もっ)て女を取(めと)る勿れ。」こんな女とは結婚するべきじゃない。「金夫(きんふ)を見、躬(み)を有(たも)たず。利しき攸(ところ)无し。」金のある男には色目を使い、心がけがなっていない。救いようがない。
「六四、蒙に困しむ、吝。」
六四は陰爻としての位置は正しいが、隣は三も五も陰爻で比していない。又初六も陰爻で応じていない。そこで、教える人もなく、親しむ友もなく孤独である。そこで、「六四、蒙に困しむ、吝。」となった。吝は残念が相応しい。孔子の解説によれば、「蒙の困しむの吝は、独り實(じつ)」に遠ざかるなり。」と言っている。陽、陰は実、虚ともいう。實に遠ざかるとは、隣人にも応じる爻にも陽爻がいないことであり、つまり、良き師にも、良き友にも恵まれなかった人のことをいう。すると、生涯蒙が開けないまま終わることになり、誠に残念な人生になってしまう。
「六五、童蒙、吉。」
「山水蒙」の卦辞に「我、童蒙に求むるに匪ず、童蒙、我に求む。」とあった。この童蒙がこの六五である。六五は正しく応じている九二の陽爻を師として親しみ、全てを学んで成長する。誠に吉である。BC4世紀にオリエントを統一し、大帝国を築き上げたアレクサンドルは、マケドニアの王子として育ち、家庭教師は哲学者アリストテレスであった。成長したアレクサンドルは「我を生んだのは両親だが、高貴に生きることを教わったのは師アリストテレスである。」と語っている。
「上九、蒙を撃つ。寇(あだ)を為すに利しからず。寇を禦(ふせ)ぐに利し。」
上九は九二とともに師匠である。上は陰の位置であり、陽爻は正しくはない。中でもない。「上九、蒙を撃つ。」蒙童に対して容赦なく烈しく当たり過ぎる。「寇(あだ)を為すに利しからず。寇を禦(ふせ)ぐに利し。」反抗するようになるのは、宜しくない。反抗ではなく、反省するようになることだ。
指導者として、九二と上九の二つのタイプがあるとすれば、九二が理想的である。蒙童たちが自ら進んで学ぼうとするか否かが問題であり、手がつけられない蒙童にはどう接したら良いかは、かなり難しいだろう。3000年前も現代と同じく、教育は重要だったのだろう。
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