
最後の晩餐(1495~1498作)
名画を理解する上で、その絵を描かせた人物を知ることも必要なことだろう。何時、誰が、何の目的で、描かせたかを知るとその時代が見えて来ることもある。その意味で今回はレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンたちを照会してみたい。
師匠のヴェロッキオのもとで、師を超える才能を発揮したレオナルドはフィレンツェのメディチ家が主宰するプラトン・アカデミーという学者や芸術家の集まりに加わる。そこで本来の素質にあらゆる知識、技術を習得してその才能に磨きをかけたことだろう。最初のパトロンはメディチ家の「偉大な君主」と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチである。祖父と父が築いた莫大な富をメディチ銀行としてヨーロッパ中に支店を出すほどの勢いだった。

ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492)
26才のレオナルドがロレンツォに仕え始めた頃、大変な事件が起きる。メディチ家のライバルであるパッツィ家がロレンツォを暗殺しようと陰謀を廻らす。教会の大聖堂で行われたミサの最中に、示し合わせた暗殺者たちが剣を振るって襲いかかった。一緒にいた25才の弟ジュリアーノは命を落としたが、ロレンツォは危うく難を逃れた。暗殺に加わったのは教会の司祭たちだった。ロレンツォの反撃は徹底的なもので、関係したパッツィ家のものたちは一網打尽に処刑され、その数は80人を超えるという。(1478年の「パッツィ家の陰謀」として歴史に残る。) その後レオナルドは「東方三博士の礼拝」を未完成ながら残している。
30才になったレオナルドが仕えたのは、ミラノ公国の君主で同じ歳のルドヴィーコ・スフォルツァである。このルドヴィーコがまた権謀術数の野心家だった。君主だった甥を幽閉して死亡させ、その甥の舅であるナポリ王をフランス軍の力を借りて追放してしまう。イタリア全土を支配下にするかの勢いだったが、フランスとハプスブルグ家との戦争にハプスブルグ家に付いたルドヴィーコは敗れた。最後は味方の裏切りにあい、フランス軍に捕らえられ非業の死を遂げた。

ルドヴィーコ・スフォルツァ(1452~1508)
レオナルドは47才までルドヴィーコに仕えており、画家、建築家、軍事技術者として様々な仕事を命じられている。画家としては31歳のとき「岩窟の聖母」を43才から46才のとき「最後の晩餐」を描いている。47歳、1499年のフランス軍に敗れた戦争後、弟子のサライとともにヴェネチアそして故郷フィレンツェへと避難した。50歳の頃、チェーザレ・ボルジアのもとで専ら軍事技術者として働いたこともあるが、その後フィレンツェの宮殿で壁画「アンギアーリの戦い」を作るが未完に終わっている。

フランソワ1世(1494~1547)
60歳を過ぎ、ヴァチカンの教皇レオ10世(ロレンツォ・デ・メディチの次男)のもとで働いているが、専ら政治顧問、外交官的立場だったようだ。ミラノ公国を占領したフランス王・フランソワ1世との和平会談に同席すると、21才のフランソワ1世は63才のレオナルドにほれ込んで最後のパトロンになる。フランスのアンホワーズ城近くに「クルーの館」を与えられ、若き王の人生、世界、全ての師となった。レオナルドは未完成の「モナリザ」を持ちこんでいるが、専らフランソワ1世の話相手として過ごした。レオナルドの死後、フランソワ1世は「かつてこの世界にレオナルドほどの優れた人物がいただろうか。芸術家のみならず傑出した哲学者でもあった。」と語っている。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は山
*** *** 動かざるもの
*** ***
*** *** 下卦は水
******** 困難、悩み
*** ***
「山水蒙」の卦。蒙とはつる草が蔓延り、樹を蔽いつくし、暗く先が見えない状態である。未開発を表し、時代でいえば戦乱の世である。蒙昧な幼児の知能をいかに啓発していくかという時期ともいえる。幼児は無限の可能性を秘めているものなので、その啓発は重要である。指導を受けるものは、素直な心で良き指導者の意見をきくことである。
「最後の晩餐」はイエス・キリストが「この中に私を裏切るものがいる。」と語り、弟子たちの間に衝撃が走った場面を描いたものである。決して平和な画ではない。
日本でもこの時代は戦国時代であったが、ヨーロッパも又戦国時代といっても良いだろう。若きフランソワ1世はその後、最大のライバルであるハプスブルグ家のカール5世と対立し、イタリアの支配をめぐり壮絶な戦争を繰り返すことになる。
ルネサンスの文化は戦乱の時代に咲いた大輪の花ということができる。戦乱の世であればこそ、人々は美しい芸術を求めたのだろうか。
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