魚雷艇乗船中のJ・F・ケネディ
兄ジョセフ・ジュニアは成績抜群でスポーツ選手としても活躍していたが、ジョンは生まれながらに背骨部分に障害があり、怪我をしやすく時折激しい苦痛に襲われる少年だった。しかし負けん気だけは人一倍強く、困難から逃げずに不可能なことに挑み続けた。精神力と根気強さが養われたのは病気との戦いで養われたともいえる。父の尽力でハーバード大学に入学した頃からは水泳、ヨット、ゴルフに興じるほど健康を取り戻した。1940年、優秀な成績でジョンは大学を卒業する。
陸軍と海軍の士官候補として受験したが、健康を理由に合格できなかったが、英国大使の父の口利きにより海軍に入る。日米戦争中、ソロモン諸島でジョンが艦長だったパトロール魚雷艇は1943年8月、日本海軍の駆逐艦に衝突され船体は真っ二つに、乗組員は海に投げ出された。ジョンは仲間と泳いで無人島にたどり着き九死に一生を得る。父は海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手を回し、「ニューヨーカー紙」に掲載、さらに「リーダーズ・ダイイジェスト」にも掲載したのでジョンの名は全米に知られた。
J・F・ケネディとジャックリーンの結婚式
1944年8月、父の期待を背負った海軍パイロットだった兄ジョセフは戦死する。父の野望はジョンに移り政界入りを目指し1946年下院議員選挙に打って出る。母方祖父の前ボストン市長フィッツランドの協力、家族ぐるみの支援により29歳の若さで下院議員になった。6年間の下院議員時代は多くの外国を訪問し見分を広める。インドのネルー首相からは「東西対立の中で西側諸国の無策が発展途上国を共産化させる。」と指摘を受ける。
1952年、マサチューセッツ州から上院議員選挙に出馬、父からの潤沢な選挙資金もあり当選、上院議員となった。ジョンは1953年9月、フランス系アメリカ人の名門ブーヴィエ家の娘24歳のジャックリーンと結婚した。ジャックリーンは裕福な家庭に育ちワシントン大学を卒業、新聞記者になっていた。その美貌は政治家の妻に相応しいと父ジョセフも賛成する。結婚式にはローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられ、披露宴には1300人が出席する超豪華版だった。
幸福に見えた結婚生活だったが、ジョンは結婚直後から2年間にわたり何度も脊椎の手術を受けることになり、上院本会議も長期欠席を余儀なくされた。アジソン病と診断され副腎の機能不全、不治の病と考えられたが、コーチゾン剤の開発で議員生活が可能になった。しかし剤の副作用は「陶酔状態に似た著しい気分の高揚、、精力、集中力、筋力の増進」とされ、過剰なまでの自信、日焼けしたような肌色、際限のない性的衝動も現れるとされる。
ジョンは手術から回復するまでの間、歴史に残る勇気ある行動をとった上院議員たち8名の伝記と自分の政治信念を書くことを思い立った。それがピューリツァー賞を受賞した「勇気ある人々」でありベストセラーとなった。ジャックリーンにとって忍耐の日々は続いた。最初の子は流産、次の子は死産だった。しかし健康を回復するとジョンの女癖は続き、死産の知らせを聞いても家に戻りもしなかった。離婚を考えたジャックリーンは義妹(ロバートの妻)エセルに打ち明ける。それを聞いた父ジョセフは「もし子供が出来たら一人100万ドルの信託財産をやる。」と言って翻意させたという。
資金パーティーでのF・シナトラとエレノア・ルーズベルト
ジョンの名が全米に知られるようになったのは1956年の民主党全国大会においてだった。アイゼンハワー大統領との2期目選挙を争う民主党候補アドレー・スティーブンソンの指名推薦演説が見事で選挙には負けたが民主党員にジョンの名が広まった。1960年の民主党予備選挙に立候補する。元大統領トルーマンからはジョンの若さが指摘されたが、ジョンは「14年間の政治経歴が経験不足というなら、歴代の大統領の大部分は経験不足である。43歳が責任ある地位に就けないのなら建国の父たちは存在しなかった。」と反論した。
民主党大統領候補に指名されたジョンは「ニューフロンティア精神」を掲げて共和党のニクソンと雌雄を決することになる。選挙の裏表を熟知した父ジョセフの作戦、親族ぐるみの応援、俳優ピーター・ローフォード(妹パトリシアの夫)の助言を受けたテレビ討論、公民権運動で逮捕されたキング牧師への気遣い、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィスJrなど芸能人たちの協力も功を奏した。下馬評は副大統領だったニクソンが有利だったが、選挙終盤にはどちらとも言えない大接戦になる。
サム・ジアンカーナ
父ジョセフは禁酒法時代にマフィア組織と関係を持っており、マフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を買収するなど大規模な選挙不正が行われた。ジョンも愛人関係だった女優ジュディス・キャンベルを経由してマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナに選挙協力を要請した。選挙終盤、ニクソン陣営はその情報を告発しようとしたが、アイゼンハワーから「告発すれば泥仕合となり、国家の名誉を汚すことになる。」と説得されたという。
1960年11月8日、史上例を見ない激戦の結果、ジョン3,422万6,731票に対しニクソン3,410万8,157票で、その差11万8,574票であった。全米に12万の投票所があるが、1つの投票所で1票の差でしかなかったことになる。選挙で選ばれた史上最も若いJ・F・ケネディ大統領が誕生した。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は沢
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*** *** 下卦は地
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「沢地萃」の卦。萃(すい)は集まる、集めるである。人や物が集まること。砂漠の上にオアシスがある象である。君主のもとに家臣や国民が集まってくる。君主は霊廟を拝し感謝を捧げ、盛大な祭礼を行う。敬虔な態度を堅く守れば国力は盛んになるだろう。しかし人が集まれば不慮の変事もある。君主は軍備を整え、思いがけない変事に警戒しなければならない。
ケネディ大統領誕生の裏には合法非合法、あらゆる手段が行使されたことが想像できる。それ程アメリカ合衆国の大統領の座を射止めることは困難を極めることなのだろう。オバマ大統領もトランプ大統領もこうした試練を乗り越えて大統領になったのだろう。それにしてもアメリカ社会を動かす闇の世界が存在することも無視できない。むしろ表の世界よりも権力があるのではないだろうか。
ジャックリーンはわずか31歳でファーストレディーになっている。そのファッションは世界の女性の憧れの的になった。しかしホワイトハウスの生活はわずか2年10ヶ月だった。その5年後にギリシャの大富豪オナシスと再婚し世界を驚かせた。J・F・ケネディにも引けを取らないジャックリーンの強烈な人生。強大な国アメリカが育てたいかにもアメリカ人らしい一組の男女である。
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