昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

大奥 姑嫁

2017-12-30 13:40:10 | 日記
 天璋院(篤姫)、静寛院(皇女和宮)、昭徳院(将軍家茂)

 天璋院殿は平素規律正しく、物事規矩に外れまたは超えたるをいたく気に触られければ、
御附の人々の心置き大方ならざりしとなり。御気質己に斯のごとくなれば、深くその頃の
政に心を注ぎ、殊に昭徳院殿二度目の御上洛あらせらるる時は心痛に堪えずして、時の
御老中小笠原図書殿と久世大和殿とを大奥に召して御政治向きに就きてかにかくと御語
あらせられけり、扨て図書殿は御前を退り御広座敷に下りて後、只管院の御気質を称え
へしとなん。蓋し御老中の大奥へ出仕すること是より其の例ありしとも覚えず、是れにても
院の心遣ひの程を知るに足るべし。院甚だ酒を嗜みて御寝前には必ず御杯を呼ばせられ、
飲む毎には必ずその余瀝をお附の女中に賜りしといふ。是れ余事ながらも亦院の規律ありし
一端として見るべきか。

 和宮様は之に反して規律には拘はらせられず、物事磊落に遊ばされければ、御姑嫁の
御間柄兎角に称はざることのみ多かりしといふ。或いは伝ふ、和宮様は内親王たるの故を
以て故意にとはあらざれども御挙止の何となく貴く、御威光天璋院殿に優れりしなりと、
させる意味もありにしや。
 されども昭徳院と和宮様との御中合いはこよなく睦ましかりしとなり。世上には彼れ是れ
との噂ありて、大奥にてさへ口善悪なき女中共は種々に取沙汰して、御婚礼の当夜には鏡と
見せてその実、懐剣を懐にせられしなどあられもなき噂しけり。そのかみ京都の方をば1躰に
好く思はざりし折とて、斯かることまで申せしは恐れ多き事どもにて、実に御夫婦の御伉儷(仲)
の目出度かりしは、世の風評と似つかふべくもあらざりしなり。
 昭徳院殿の御上洛遊ばさるるや、和宮様の御心配は殊に浅からず、御出発の日三日計り前
院の大奥へ御成りありし節は、いつになく御寛ぎ遊ばして京都の名所などかにかくと御物語り
ありて、扨て御帰らせの砌、西陣織を御土産に賜りたし抔御願ひ申し上げしに、院には快く
諾ひ給ひてけり。後にて思ひ合すれば、此の御語へこそ御一生のお別れなりしなれ。

 思へばいぢらしく涙の種なりとその頃宮仕へせし老女は語りぬ。     
 























大奥 江戸城明け渡し

2017-12-29 10:37:06 | 日記
 勤めて大奥に関わりある者を摘記し、光景を裏面より写さんとす 。
 
 江戸城明渡しは実に王政の古に復れる外面の澪標なりけり。錦の旗の飜り颺りて、葵の幕吹き落つる朝風
なりけり。 

 慶應2年7月20日、将軍家茂大阪城で薨去す。
慶應2年12月5日一橋中納言その職を継がせられけり。慶應3年10月13日14代将軍慶喜政権奉還。
 翌年正月3日伏見の騒動ありしが、その報未だ確かならぬ中に同月12日の夜九ッ時頃、将軍蒸気船にて
品川へ御着ありしとの報に接しければ、大奥の驚き一方ならず。
 八ッ時と覚しき頃慶喜公羽織袴にて着し給い天璋院殿に御対面の儀願ひ出たれど、当夜はその事なくて過ぎ、
翌13日早朝対顔ありて伏見事件の事、朝敵の汚名を蒙りたる顛末等を詳に御物語あり、急ぎ朝敵の称を赦免
あらせらるる様院様より京都へ嘆願致されたしと頼み参らせ、又和宮様へも同様将軍より御願い申し置き給い、
即日上野大慈院へ隠遁して恭順あらせられ下々に至るまで心得違い無きよう達し給いけり。

 将軍慶喜公既に伏見より帰りて上方騒動の模様など御物語ありてより、幕府の動揺一方ならず。斯る上は
何時薩長の人数押し寄せ来らんも測られずとて防御の評議区々なりしが、御留守居加藤伯耆の守の発議によりて、
御城内表奥の別ちなく非常口ある所へは内外二重の扉があるが上に松の八寸角の格子戸を設け、大いなる輪鍵を
附して門の内より堅く鎖しむ。当時心あるものは竊かに笑ひて敵いよいよ城中に侵し来りなば、八寸角の格子戸
も何かせん。来るからには是れ破らでは退かじ。袖一重翳して燃え誇る火に当たらんとする覚束なき限りなれ。

 表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわい心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど
寄れば障れば語り合い、物の本にて読み覚えある者は昔ありしといえる平家の末路に、官女等が寄るべ渚の軍船
に乗り出でて太刀撃ち矢叫びの間に心も添わぬ体を永らひ、果ては遊君となりて果敢なき世を送りしことどもを
思ひ出でては涙を作り、置眉の隔たりさへ此日頃は二分三分狭めてけり。されば慶應4年の正月は御家例の御祝事
もなく、梅の色香も鳥の音も心此にあらざれば見えもせず聞こえもせず、只管に世の取沙汰に耳傾け面白からぬ
日を明し暮らした。

 閏4月8日、大総督より江戸城明け渡しの儀御沙汰あり、来る11日迄に天璋院殿、静寛院宮様、実成院殿とも
夫々御立退きあるやふ併せて御沙汰ありけり。その儀諸院へ上申しけるに天璋院殿は独り御聞入れなく容を改め申
されけるは、将軍家には当今御謹慎中にて未だ何分の御沙汰も無く水戸表へ御出立あらせられしは思召しありての
ことなるに、その御先途をも見届けず奉らず先づ早や空城を明け渡す所存なるにや、言甲斐なき者共なり。吾が身
不肖ながら此に在る上はいつかな明け渡し申すまじ、と仰せて泰然として更に動する御気色なかりしかば、閣老、
参政等は汗を手にして且つは慙ぢ且つは困じ果てたり。
 是時に当たり幕臣みなその身の前途を危みて心を公儀に寄する者少なく、適適之れあるも善後の策を講ずるもの
あらず、その座逃れの小計略に小頭脳を悩ますのみ。その余は平生偽忠義を裏む薄衣の裾、掻もあわさず此に顕は
して己か向き向き逃げ隠るるも多く、昨日まで登城して幕中に肩の風切りし小笠原図書、板倉周防さへ行方知れず
なりけるよ。牧野備前は本国長岡へ旅立ちしよと取沙汰しぬ。ましてその以下は火事場のごとく紊れて、その明け
渡しの事にたづさはりしは誰殿なりしか夫れさへ能くは解らざりし。
 当時の混乱、実にうたてきは一国の末路なりけり。




















大奥の正月行事、鏡開き

2017-12-28 09:56:02 | 日記
 11日には鏡開きが行われる。

 御鏡開きのお祝ひあり、表にて具足開きの式あるに同じ二度目の御飯の前におゆるこ
(おしるこ)を上つる。
器物は黒塗金蒔絵にて、鶴亀又は松竹梅の模様あり三椀例なれども概して一椀の他は召さず、
 八ッ時頃お側にて女中におゆるこを下さる。将軍付きの女中へは直きに下されず、餡に
餅を添え重箱に詰めこれを部屋部屋に贈るなり。

 大奥へは、御三家御三卿の他御家門の方々及び諸家へお住いの姫君からおすわり(鏡餅)
が献上される。紅餅を中に三段重ね、大きさ3尺四方、厚さ4寸程、白木の台にて下の両側に
白木の担ぎ棒がついている。
 ” 御賄所の下男斧にて打ち割りこれを女中の部屋部屋へ配る。”
 諸家より献じ越せしなれば餅の質、色、形等一様ならざることいふ迄もあらず、そが中に
田安、清水両家より贈るものはいつも質悪しく厚さの何となく薄く見ゆるとて、果ては累々たる
餅切れの中に木目荒く粘り気のなきを見れば、それこそ田安、清水よりの餅なるべけれと打ち笑う
が女﨟中の慣わしとなりしぞと。浮世を懸け離れて事もなく暮らす女官等には、塵計かりの事も目に
懸かりて笑いの種となる事あり、是れ等もその類にやと思われて可笑し。

 








大奥の正月3が日

2017-12-27 16:08:37 | 日記
 大奥の正月行事が載っている本を手に入れましたので一部紹介します。
天璋院の事を母上と呼んでいる事から和宮の時代、幕末の大奥の様子らしい。

 御台所は正月3が日は5回衣装替えを行う(普段は3回)
5回各々に色、材質、枚数等の約束事があるとの事である。

 正月一日
初回の正月用の装束が整うと、次を唱えてお清め式を行う。
 君が代は千代に八千代にさざれ石の
   いはほとなりて苔のむすまで
これが終わると大奥から表に出られて将軍と新年の挨拶を交わす。
 将軍は御台所へ”新年愛でたふ御座る幾久しく”
 御台所は将軍へ”新年の御祝儀めでとう申し上げます相変わりませず”と
若君姫君等御親族の年頭御祝儀が終わると御一緒に先祖の仏壇を拝す
縁起物の食べ物を並べ宴会は作法通り進み、屠蘇三献、白散三献、雑煮三献で
終わり、直ちに本膳を召して式が終わる。将軍は退席。
 御台所も装束を召替える。
食事は3が日3回共赤飯である。
3日間、夜は諸方よりの御年始文を読み上げる、和宮様の時は一日2百通
以上もあったらしい。

 正月二日
2日目は上記の儀式に加えて書初めをなさる。色紙又は短冊へ古い歌集から
選んだ歌を書くのが習慣である。
夜に入りて将軍の入御あり、御寝を共にす、姫始めという。

 正月三日
1,2日と同じ行事が繰り返される。

 3が日で一番大変な事が5回の衣装替えで、食事の時間や御台所主催の行事の
予定が大幅に狂った様である。