昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

大奥 女中の正月、他

2018-01-20 09:51:40 | 日記
 正月15日前は種々の式ありて勤めに暇なかれど、その後は御慶にとて互いに往来する
が例なれば、正月中孰れも屠蘇の用意あり。年玉物は品こそ替れ多くは湯島四丁目丸家製
の若菜籠或いは煙管、煙草入れ、袂落とし、蜜柑等の類にて菓子類は少なし。御慶の口上
終われば何方にても屠蘇を饗し巳に退け過ぎなれば夫より酒宴を催ほし、酒酣(たけなわ)
になるに及びては初めの慇懃に引き替へ随分高笑ひに四筳を驚かすもあるべく、添番など
その前を通り行くとき、内ぞゆかしく思ふめり。
 長廊下は別けて春めく鞠つき、遣り羽子、此処庭ならば雪解に衣服汚かす憂いもなく、
東風に羽子を吹きまどわす妨げもなし。そが中に部屋の世話子等はお犬子供を相手に日当
りよき縁先きに集ひて、はづみよき鞠にかよわき手の運びせわしく唄の後るるを笑ひ、袂
より金柑飜(こぼす)して拾はれじと争い、鞠を庭先きの雪解に塗れさすを知らず。或は
鞠つきに気を乗らして蜜柑などソト袂より奪はれて騒ぎ立つも罪なくて興ぞ多かる。斯く
て春の晨(あした)の遊び事に親睦の媒を作るも床し。

 (中略)

 いとはしたなくばからしきは猫児の贈り取りなり。御年寄、中年寄等の部屋にては必ず
猫を飼うが例にて、その猫妊娠すれば出産前より予約して貰い受くる者多く、貰い受けざ
るは無礼げに思ひて好まぬながらも予約する向もあり。扨てそのいよいよ乳を離れたるを
待ちて贈る時は、鰹節、飯器、チャンチャン二三枚、鮮魚一籠及び局、タモン等へ銘仙縞
一反を添ふ。贈られたる方にては頓て誕生日ともなれば赤の飯を炊ぎ料理を添えて女中を
招く。招かれし方にては手遊ものを取揃へ土産に持参するも事事し。それのみならずその
猫牝なれば三月に雛祭り、雄なれば五月節句に人形を買ひ入れ、派手にその日を祝ふなど
馬鹿らしき限りといふべきなり。








ガラケ-

2018-01-14 08:53:21 | 日記
 今年からガラケ-がスマホになりました。

 私が携帯電話を持ち始めて7,8年にしかなりません。
定年後の年寄りに必要とも思わなかったし、何より在職中緊急連絡用と会社から
強制的に持たされたのが嫌だった事が理由の一つです。

 最初に女房が娘達から持つ様に勧められました、半ば強制です。
お店に相談に行くと、御主人も一緒だとお得ですよ、と店も勧めます。
抵抗しましたが結局娘に押し切られてしまいました。娘達にすれば年老いた
親の迷子札であったのでしょう。

 今年の正月、娘達が来て女房にスマホを持つように勧めました。
これからはスマホが無いと生活出来なくなる、今から扱える様に慣れておけ、
だった様です。
 私は今の携帯電話でも持て余しています。使っても月に5,6回、殆どは電池
切れで急な役には立ちません。固定電話で連絡には何ら支障はありません。
 お店に行くと、御主人も一緒だとお得ですよ、以前にも聞いた言葉です。
今回は、お得ですよ、の一言で女房にスマホに替えさせられました。

 お店の女性が契約内容やら使用方法を早口で説明してくれます。その中に
ガラケ-と言う言葉が何回も出てきます。古い電話、駄目な電話、役立たずの電話
と聞こえてしまい、何か嫌な感じです。ガラケ-とは蔑称だと思っている所為
でしょうか。
 貴方のお店は、そんな駄目な品物を私に売ったんですか!と言いたくなる。

 スマホに替わって10日程ですが、初日に女房と対面で通話テスト、娘から購入
確認のメール以外私のスマホの着信音はディ-ラ-からのメールだけです。
















山口県のガ-ドレ-ルは黄色

2018-01-13 10:14:54 | 日記
 近隣の県の人から山口県の道路は立派だと良く聞いたものである。
高速道や2号線では余り差を感じないが、郡部に入ると納得する。黄色いガ-ドレ-ル
の立派な道路が隅々まで整備されている。
 総理大臣を輩出した県だけに、これも”忖度”の賜物であろう。

 ガ-ドレ-ルの黄色は萩の名産夏ミカンの色である、と聞いた事がある。
長州藩当時藩都は萩であった。碌を減らされた藩士は屋敷内に内職用として夏ミカンを
植えた。庭は耕しチシャを植えた、チシャ揉みがあれば客を接待出来た様である。
夏ミカンとチシャで260年間貧乏に堪えたのであろう。

 今では夏ミカンは砂糖漬けになり、萩の名物として売られている。長州の名残。













明治150年

2018-01-09 22:09:55 | 日記
 最近この言葉を良く目にします。戊辰戦争から150年でもあります。

 会津に和解を求める活動を続けている萩の医師の話が先日の読売新聞に出ていた。
何年も前に萩市の商工会議所が同様な事を呼びかけたが拒否されたと聞いた事がある、
未だ会津の長洲への怒りは150年経っても解けてなかったようです。驚きました。
 鶴ヶ城を攻めた官軍側の主戦部隊は土佐藩と薩摩藩と聞いているが、両藩への恨みは無く
長洲だけ未だに恨まれているとは、長洲が余程酷い事をしたのでしょうかね。
 俳優の西田敏行さんは”長洲は許せない”が”薩摩は好きだ”と言っているとか、事実西郷隆盛
の役を見た事があるし、今年の大河ドラマ”西郷どん”の語りもしていましたね。

 戦争だから多少酷い事をしたかも知れないが、長洲側にもそれなりの理由があった。
毛利藩は関ケ原で敗れ中国地方の大名から30万石に減封され長洲に押し込められた。
以来260年間徳川を恨み続けた。藩主への年始の挨拶が”殿、本年は如何致しましょう”
”未だ早かろう!”。徳川を討ちましょうかと言う意味である。この挨拶を260年続けたと
いう話も残っているくらいである。
 幕末の京では会津藩、新選組は長洲の敵でした。維新が成ると徳川は大政奉還をし徳川幕府
を潰してしまった、長洲には260年来の敵がいなくなった。処が戊辰戦争では徳川譜代の
会津藩が戦った。会津藩が徳川になってしまったのである。長年の恨みが会津に向かって爆発
したに違いない。

 維新150年ともいう。会津に和解して欲しいと願うが、白虎隊のお墓に線香の煙の絶
へない内は無理な様な気もする。





















大奥、城明け渡し(BS放送)

2018-01-02 10:02:50 | 日記
 天璋院は城に入る薩州に幕府の威光を見せつける為に絢爛たる調度品を残した。
 で放送は終わっているが、本には以下の様に書かれている。

 4月8日、大総督より11日迄に(3日後)江戸城明け渡しの儀御沙汰あり。閣老、参政等が天璋院を
説得するも頑として受け付けぬ。
 ”将軍家には当今御謹慎中にて未だ何分の御沙汰も無く。。。。。その先途をも見届け奉らず早や空城を
明け渡す所存なるにや、。。。。。吾身不肖ながら此に在る上はいつかな明け渡し申すまじ。。。。”

 困り果てた閣老達ちは、3日迄の立ち退きを、3日間の立ち退きと騙し承諾させた。
”初め閣老等は総督宮に向ふ3日を期して立退くことを約し奉りしが院に説くに及びて3日迄にというべきを
3日間なりと騙し拵たるなりけり、いかに時にとりての方便とはいへ君を欺き奉るの他に方便無かりしにや ”

”斯くて天璋院殿は唯だ3日が間の立ち退きなれば手回りの器具のみで事足れり、不自由は3日の間なりと仰
せられて御頓着なき様なるに、御附のものも着換の衣類、化粧道具等を用意し一橋邸へ移られた。
静寛院様も流石名残を惜み給いて天璋院殿よりは遥かに遅れて11日の午時頃田安邸へ御立退きあらせられけり。”

”諸院御立退きありし後は御用人指揮して火の元に注意し、扨て御休息、御座の間、御化粧の間、御対面所等へは
壁に雪舟探幽の筆三幅対の軸を懸け、床に金銀製の鶴亀、或いは金銀製の万年青へ珊瑚八分玉の実十三個を結ばせ
たる、或いは七賢人を彫刻して金の象眼打ちたる銀瓶へ金赤銅の葉、珊瑚の実を結べし南天を挿みたるを置き、
違棚へは梨子地の硯箱、香道具一式、古今千載集その外蒔絵の碁盤等を据え装飾に美麗を尽くした。”
 
天璋院の意思と言うより、天璋院を騙した閣老たちのせめての償いにと飾り尽くしたものと見える。