昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

大奥 江戸城明け渡し

2017-12-29 10:37:06 | 日記
 勤めて大奥に関わりある者を摘記し、光景を裏面より写さんとす 。
 
 江戸城明渡しは実に王政の古に復れる外面の澪標なりけり。錦の旗の飜り颺りて、葵の幕吹き落つる朝風
なりけり。 

 慶應2年7月20日、将軍家茂大阪城で薨去す。
慶應2年12月5日一橋中納言その職を継がせられけり。慶應3年10月13日14代将軍慶喜政権奉還。
 翌年正月3日伏見の騒動ありしが、その報未だ確かならぬ中に同月12日の夜九ッ時頃、将軍蒸気船にて
品川へ御着ありしとの報に接しければ、大奥の驚き一方ならず。
 八ッ時と覚しき頃慶喜公羽織袴にて着し給い天璋院殿に御対面の儀願ひ出たれど、当夜はその事なくて過ぎ、
翌13日早朝対顔ありて伏見事件の事、朝敵の汚名を蒙りたる顛末等を詳に御物語あり、急ぎ朝敵の称を赦免
あらせらるる様院様より京都へ嘆願致されたしと頼み参らせ、又和宮様へも同様将軍より御願い申し置き給い、
即日上野大慈院へ隠遁して恭順あらせられ下々に至るまで心得違い無きよう達し給いけり。

 将軍慶喜公既に伏見より帰りて上方騒動の模様など御物語ありてより、幕府の動揺一方ならず。斯る上は
何時薩長の人数押し寄せ来らんも測られずとて防御の評議区々なりしが、御留守居加藤伯耆の守の発議によりて、
御城内表奥の別ちなく非常口ある所へは内外二重の扉があるが上に松の八寸角の格子戸を設け、大いなる輪鍵を
附して門の内より堅く鎖しむ。当時心あるものは竊かに笑ひて敵いよいよ城中に侵し来りなば、八寸角の格子戸
も何かせん。来るからには是れ破らでは退かじ。袖一重翳して燃え誇る火に当たらんとする覚束なき限りなれ。

 表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわい心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど
寄れば障れば語り合い、物の本にて読み覚えある者は昔ありしといえる平家の末路に、官女等が寄るべ渚の軍船
に乗り出でて太刀撃ち矢叫びの間に心も添わぬ体を永らひ、果ては遊君となりて果敢なき世を送りしことどもを
思ひ出でては涙を作り、置眉の隔たりさへ此日頃は二分三分狭めてけり。されば慶應4年の正月は御家例の御祝事
もなく、梅の色香も鳥の音も心此にあらざれば見えもせず聞こえもせず、只管に世の取沙汰に耳傾け面白からぬ
日を明し暮らした。

 閏4月8日、大総督より江戸城明け渡しの儀御沙汰あり、来る11日迄に天璋院殿、静寛院宮様、実成院殿とも
夫々御立退きあるやふ併せて御沙汰ありけり。その儀諸院へ上申しけるに天璋院殿は独り御聞入れなく容を改め申
されけるは、将軍家には当今御謹慎中にて未だ何分の御沙汰も無く水戸表へ御出立あらせられしは思召しありての
ことなるに、その御先途をも見届けず奉らず先づ早や空城を明け渡す所存なるにや、言甲斐なき者共なり。吾が身
不肖ながら此に在る上はいつかな明け渡し申すまじ、と仰せて泰然として更に動する御気色なかりしかば、閣老、
参政等は汗を手にして且つは慙ぢ且つは困じ果てたり。
 是時に当たり幕臣みなその身の前途を危みて心を公儀に寄する者少なく、適適之れあるも善後の策を講ずるもの
あらず、その座逃れの小計略に小頭脳を悩ますのみ。その余は平生偽忠義を裏む薄衣の裾、掻もあわさず此に顕は
して己か向き向き逃げ隠るるも多く、昨日まで登城して幕中に肩の風切りし小笠原図書、板倉周防さへ行方知れず
なりけるよ。牧野備前は本国長岡へ旅立ちしよと取沙汰しぬ。ましてその以下は火事場のごとく紊れて、その明け
渡しの事にたづさはりしは誰殿なりしか夫れさへ能くは解らざりし。
 当時の混乱、実にうたてきは一国の末路なりけり。