昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

74年後のサンタさん

2017-12-26 08:55:41 | 日記
 クリスマスも終わりました。

 クリスマスらしい記事を一つ。イングランドの話です。

 家の解体業者が煙突から74年前の手紙を見つけました。
古新聞、マッチ箱、タバコの箱等は良くあるが手紙は珍しい事らしい。
 子供がサンタさんにプレゼントのお願いを書いたものでした。
解体業者はその子に手紙の品をプレゼントしました。

 74年前の子供が欲しかった物とは何だったんでしょうね。 
 

















2017-12-20 09:04:25 | 日記
 カミさんの友達で横浜から山梨に移住した人がいる。
静かな田舎で老後を過ごしたい、若い頃からの願望であったらしい。
寒い所で、この時期一晩中薪スト-ブを焚いているとの事、薪の炎を見ていると
心が落ち着き、夜中のスト-ブのお守りも苦にならないらしい。

 私の近所の田圃で枯草の野焼きが始まっている。
周りの枯草を刈り取ったり、山から枯れ葉を集めたりで、毎日の様に何処かの
田圃で白い煙が上がっている。来年の稲作の準備である。毎年この時期の風景で、
例え大きな炎が燃え上がってもこれには誰も関心を示さない。
が、焚火 となると少し事情が変わってくる。

 廃材、残材、庭木の整枝屑等が多量に貯まり、近所の田圃を借りて燃やす事にした。
炎は高く舞い上がり、勢いが強く近づく事も事も出来ない、体は火照るが足は冷たい。
奮闘していると近所の老人が
”何事が始まるの?”と寄ってくる。
”寒いときは火が一番の御馳走!”と、手伝ってくれる。
更に、散歩途中の老人2人が加わる。
”子供の頃は良く焚火をしていたもんだ!”
”芋を焼いてくれたり、イカを焼いてくれたりしたりして!”
火に向いたり、後ろを向いたりで顔が赤くなるまで体を炙る。
"これで冷酒でもあるとス-っと入って旨いんだが!”
私も気持ちが解らぬでもないが昼間から酒は勘弁願いたい。

”炎”には暖を取るだけではなく、無口な老人をおしゃべりにする
不思議な力がありそうだ。










 








年賀状

2017-12-15 22:16:51 | 日記
 12月半ばになると年賀状の事が気になり始める。
が、結局暮れのバタバタと忙しくなった頃に書き始め28日頃に投函となる。
例年の事である。

 この数年パソコンのお世話になっているが、宛名だけは自筆で頑張っている。
毛筆から筆ぺんになりボールペンとなり、悪筆に益々磨きがかかって来ている。
そろそろ宛名書きもパソコンにお願いする事になりそうである。

 在職中は枚数も多い事から印刷で2,3言葉を添える手抜きをしていた。
退職後は時間をかけて毛筆で頑張って来たが、どうにも根気が続かなくなり
裏面だけはパソコンの力を借りるようになった。

 今年は7通の喪中ハガキが届いた。
内の1通は同級生の奥様からである。近い人の喪中ハガキを前にすると
宛名書きだけの年賀状だがなかなか手が付かなくなる。
 何時私の喪中ハガキを送る様になるのだろうか、そんな事を考えて
しまう。

 




ブラタモリ ”彦根編”

2017-12-10 09:48:27 | 日記
 先週の土曜日NHK ”ブラタモリ” は 彦根城を取り上げていた。
彦根城は徳川家康の築城で、鈴鹿山系と琵琶湖に囲まれた防御に有利な場所にあり、
城も目隠しされた数十の銃眼で万全を期し、色鮮やかな赤備の彦根藩士が守っていた。
 城下は整然と区画され、琵琶湖の水運で繁栄し、足軽でも戸建に住まわせていた。
彦根藩は御所の警備を託された恪の高い藩だけに足軽でも厚遇されたようである。
 等々


 その日、久し振りに山口県の知り合いを訪ね渋滞を避けて偶々この石碑の前を通った。
広島県と山口県の県境は川幅100m程の小瀬川で、山口県側を少し上流に上るとこの碑がある。
第二次長州征討、芸州口の戦場の碑で、ここで川を挟んで芸州側から彦根藩が攻め、長州側は
岩国藩と奇兵隊が応戦した。

  "ブラタモリ”で彦根城下の繁栄振りを見ながら、芸州口戦場の彦根藩を想った。
 第二次長州征討には反対する藩が多かったが、彦根藩は勇躍参加し小瀬川の芸州側に赤備えの
兵士を布陣した。対岸の長州側には武将の影も見えない、竹藪の中を隠れるように動く兵士が散見
出来るだけである。
 馬上の武将は従卒の差し出す漆塗りの弁当箱を開きながら、こんな姿も見せぬ無礼な藩は
簡単に討伐出来、早々に彦根に帰れると思ったに違いない。
 火器で射かけるが射程80m程度の彦根の火縄銃では対岸まで届かない。
一方長州側は射程500mの最新式の銃で姿も見せず竹藪から撃ってくる。
上流の小高い丘に登ると幕府側の陣地が一望出来ここからも鉄砲玉飛んでくる。
 幕府側は数を頼んで何回も仕掛けるが死傷者が増えるだけで渡河もかなわず
結局敗走する事になった。百姓町民の奇兵隊に敗けた事がどれほど悔しかった事か。
 四境戦争で決着がつかなかったのは芸州口だけと言われている。
 
 長州藩はは貧乏な藩であったが最新式の銃を手に入れることで四境戦争に勝った。
御近所で最新兵器の発射実験を繰り返しているお国がある、貧乏なお国と聞いている。
 我が国の兵器が火縄銃にならなければよいが。









忘れられた言葉 ”いで(農業用堰堤)”

2017-12-08 09:26:02 | 日記
 近所の老人(私と同年代だが)から
”いで(井手)に枯草が詰まって見苦しい、取り除きたいから手伝ってくれ”
と言って来た。
私は農家でもなく、いで(井手)には関係ないのだが、人手が足らぬらしい。
”今の若い奴は、いで(井手)と言っても解らんのだから!”
と、帰って行った。
 私も”いで(井手)”という言葉を何十年振りかで聞いた。

 いで(井手)とは農業用水の堰堤の事である。
今は頑丈なコンクリ-ト製の恒久構造で、仕切り板一枚で取水出来るようになっている。
 昔は字のごとく、”手で囲う程度に水を堰きとめる”で、石を並べただけの簡単なもので、
都度整備を必要とした。
 この整備作業を、”いで(井手)をつく(堰く)”と言った。
川の上流から下流までいたるところで、村中総出で、井手作りが行われていたものである。
 整備が終わると井手に神社から授けた御幣と花が供えられた。 

 井手をつく(堰く)日は子供にも楽しみな日であった。
川を堰いて水量が減ると魚が手掴み出来る、冷えるのも忘れ親に諭されるまで遊んだものである。

 いで(井手)が農業用堰堤に整備された頃から国の減反政策により耕作面積が減って来た。
農家の老齢化により耕作放棄地も年々増えており、一番大事な用水の取水口の管理もままならぬ
ようになって来た。

 いで(井手)の名前が忘れ去られるのは仕方ない、が、水田まで忘れ去られては困るのだが。