昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

着飾っても末は仏ぞ白衣装

2016-03-23 08:03:12 | 日記
  お女郎さんと呼ばれた女(ひと)の句です。

 遊郭、お女郎、落語やお芝居の世界の言葉になりました。
私が高校生の時公娼制度は廃止になりました、昭和も半ばの頃です。

 「昭和女郎考」竹内智恵子

 東北の昔女郎さんの聞き書きを纏めた本です。
貧しさゆえに、家の為、親の為、士族の誇りも捨て、苦界で頑張った女(ひと)
の悲しい話です。
 
 頑張って、親に田畑を買い、倉も建て、弟も学士となった。
だが、両親の葬式にも呼んで貰えなかった。

弟は弁護士になって成功しているようですが、養子に行って名前を
変えました。

 年季が明けて故郷に帰って見たが、冷たい目で見られ身の置きどころもない。
娑婆の風はなんと冷たい事か、ひと月も耐えられなくて廓に戻った。

 着飾って、上げ膳据え膳、台の物を頂いていますが、子供の頃8人の家族が
薄いお粥を奪い合う様にして食べた、あのお粥が一番美味しかったですよ。

 末の弟は私が家を出て生まれた子で顔も見たことがありません。

 
 
















   線香と蝋燭

2016-03-21 09:09:04 | 日記
  お彼岸です。
 我が家には仏壇が無く、線香と蝋燭を見るのはお彼岸で墓参セットを開く時です。

 線香は仏事以外にも、遊びの時間に使われて来ました。
花街での遊びの時間を、線香1本の燃え尽きる時間(2時間)として、1本と呼んだ
様です。今でも芸者さんの花代は線香代と呼ばれ、1本2本と勘定すると聞いた事が
あります。

 蝋燭は主に遊郭で使われていたようです。
客が上がると部屋の前に、ガラスの風防に入った蝋燭が吊り下げられる。
この蝋燭が燃え尽きるまでが遊びの時間だったようです。
 3cm近くまで燃え尽きると、そろそろお客を追い出しに掛かる。が、慣れた客に
なると蝋が溶けて灯心がジリジリ鳴っても頑張るのもいたそうです。
 相手をしたくないお客に出会うと、お女郎さん自ら蝋燭を短く切る事もあったとか。

 昨日読んだ本からです。

 墓参が終わると、線香は香炉に埋めて、蝋燭は灯りを消して(切りはしません)帰り
ます。防火の為です。








枯れ木に水を遣りましょう

2016-03-16 09:57:29 | 日記
 1月程前から、ふくらはぎに腫れを感じるようになった。
数日前、ふくらはぎがパンパンに晴れて、歩行困難なほど痛む様になった。
病院での血液検査では、血がドロドロになっている。エコー検査の結果血栓
が出来ているという。

 思い当たる事がある。
老人同志の会話で、頻尿で夜何回も起きると良く聞く。私は未だ小用で夜起きる
事は無いが、その話の影響で多少水分を控える様になっているのかも知れない。
久しく、朝の放尿の快感を味わっていない様に思う。

 薬を飲み始めて数日経つが、多少ふくらはぎが柔らかくなった様な気がする。
枯れた老体に余分な栄養は必要ないと思うが、水分は充分摂りましょう。
痛みに比べたら、頻尿で夜起きるぐらいは何でも無い事です。

 水飲み健康法というのもあるらしいですよ。



スーパーカブとハーレー

2016-03-03 15:03:47 | 日記
 2年程も前も事である。
畑で野菜の世話をしていると大音量の音楽を流す大型バイクが傍に止まった。
乗用車程のタイヤを付けた黒のハーレーで黒人が乗っている。
水中メガネの様な保護メガネを付けたヘルメットを脱いで、近所の団地の場所を
聞いて来た。しっかりした日本語である。
 その場所は古い団地で、今では町名で呼ばれ団地名で呼ぶ人はいない。
それにしても大男である、190cm、150kgはありそうである。
教えると、ありがとう、と礼を言い、ヘルメットを被る間も野菜を指して、食べ
たら美味しいでしょう、という身振りをする。  
車に跨り、片手を上げてドドドという排気音で去って行った。車と一体と言うか、
乗りこなしていると言うか、何とも恰好良いのである。

 言葉を交わしたのはその時だけであるが、その後2,3回家の傍を通る事があった。
例の排気音と大音量の音楽で彼とすぐ解る。
家の近くまで来ると音楽は止める。私を認めると手を上げる、私がそれに応じると更
に頭を下げて通るのである。

 半年も過ぎた頃、近くの県道で彼を良く見かけるようになった。大音量の音楽は
相変わらずであった。朝8時頃出かけて夕方6時頃に帰って来る、そんな事が1週間
位続くと、パッタリ音楽が聞こえなくなる。しばらくすると又例の排気音と音楽が聞
こえ始める。その辺りの事情は全く解らない。

 それにしても、座り慣れたソファーにゆったり座り、バイクのドドドという心地
よいリズムに身を任せ音楽を楽しむ、車は意のままに走る。そんな感じで走る姿は何
とも恰好良いのである。
 ピカピカに磨き上げて、レイバンのサングラスに革のジャンパーで頑張っているが、
車だけが目立つ、そんな感の何処かのハーレー乗りとは一味違う。

 昨日、夕方の散歩の帰り横断歩道で立っていると、大男の乗るスーパーカブが近づ
いて来た。私を認めたものか手を上げた。例の彼である。バイクがなんとも小さく
可哀そうに見える、カブってこんなに小さかったか!。

 目の前を通り過ぎる時、子供が悪戯を見られた様にテレ笑いをして頭を下げて通り
過ぎた。今日は何時もの着古したジャンパーではなく、スーツにネクタイであった。

 走り去る後姿に、歌いながら体でリズムを取っている様が見える、今日の音楽は自前
だな、と見て取れた。