昭和の時代

アナログの時代がなつかしい

 バターライス

2016-08-06 16:54:06 | 日記
 YOU TUBEで”深夜食堂”というドラマを見た。TBS系列で放送されたドラマで案外見て
いないのは私だけかも知れないのだが。
高名な料理評論家がバターライスが一番好きだ、という内容である。

私の年代は戦後の食糧の無い時代を過ごした。
当時美味い、不味いより空腹を満たす、腹一杯食べられる事が贅沢であった。
 その後食糧事情は良くなって来たが、昭和30年代の半ばでも寮の食事は空腹を満たす程度の
粗末なものであった。お金のある内は外で食べ、無くなると寮の食事で我慢する。
 そんな時先輩から聞いたのがバターライスである。
”熱い御飯にバターを乗せて、カツオ節をすこし掛ける。醤油を少々垂らして食べる。これが美味い”
寮を出て、給料を貰うようになると食糧事情も少しづつ良くなった。
卵かけご飯は何度も食べたが、バターライスは思いつかなった。

 今回ドラマを見て、若い頃の食糧事情を懐かしく思い出した。この年齢になると特別食べたいというものもない。
今夜あたりバターライスにでも初挑戦したい気分だか、こう暑くてはビールに枝豆で、あとはお茶漬けでいいやと
と思ってしまう。


 








原爆忌

2016-08-06 06:06:10 | 日記
 今日は原爆忌である。
当時4歳で、在所は山口県の小さな村で、火を噴いた爆撃機から落下傘が下りる光景は今も鮮やかに
覚えているが原爆の事は知らなかった。
 身内に被爆者はいないが近所で、髪の毛が抜けて亡くなった方がおられると聞いたは事がある。
私と原爆の縁はその程度であった。

 現在、広島市内まで車で40分程の場所に住んでいる。
身内を原爆で亡くされた家も何軒かある様だし、身内を探しに又後片付けの応援で入市被爆された方
も何名か存命であるが、皆さん当時の事を多くは語られない。

 私の裏の家に今年97歳になるおばあさんが一人で住んでおられた。今は特養に入っている。
この方は原爆に遭い主人を亡くされ、山陽線の線路を徒歩で逃げ帰って来られた様である。
 話好きの人であったが、原爆の話題になるとおばあさんはそっと席を外されたそうである。
線路伝いに帰られた事も傍の人から聞いた話である。

 8時15分に黙祷の合図のサイレンがなる。その前にテレビの音も抑えて黙祷に備えるのがこの
20数年の習慣だが、裏の家からは仏壇の鉦の音と読経が聞こえていた。その日は女房もなるべく
訪ねないようにしていた。
 裏の家も無人の空き家となり、今、百日紅が満開に咲き誇っている。

 8月6日、今日も暑そうである。
前の畑でブルーベリーを摘みに来た賑やかな声が聞こえる。聞き慣れた持ち主の声が一番大きい。
黙祷の合図のサイレンを待っているが大きな声は止むことはない。
 サイレンが鳴る、一分間黙祷、サイレンが止む、黙祷終わり。
前の畑の賑やかな声は更に高くなっていた。













30年前の夏は!

2016-08-05 06:24:40 | 日記
 若い頃、年寄りの”昔はぁ~”を良く聞かされたものである。
大体が小言(叱言)で、逆らいもせず話の終わるまで耐えたものである。
 私も、”昔はぁ~”の年齢になってしまった。言うまいと心掛けているのではあるが時に
娘に嫌な顔をされる事がある。
 同年輩の者と飲んでは”昔はぁ~”を吐き出しているつもりだが未だ飲み足らぬらしい。

 今年の暑さはどう言えば良いのだろう。年々暑くなっているのか、年齢のせいで暑く感じ
るのか両者だと思うが身の置きどころがない。

 私の所は、瀬戸内に向かって大きく開いた谷間の標高250mの位置にある。ここに移り
住んで30年を過ぎた。
 当時夕方車で登って来ると窓からの風が急に涼しくなるのを感じたものである。下とは
2℃ばかり低かったように思う。
 湯上りの汗も外に出ると直ぐに引いたし、寝る時も夏布団では窓を開けて寝ることは出来
なかった。 日中でも田圃を渡る風は涼しくて、日陰にさえおれば暑さを気にせず過ごせた。
 当時は未だ扇風機の時代であったが、その扇風機も使うのは一夏に10回もあったろうか。

 それが今年の暑さはどうだ。”言うまいと 思えど、、、、、、、、”。だが
”昔はぁ~、(これほど暑くはなかったよ-)!”一言いたい。

 軒先の風鈴が、チリンチリンでは無くて熱風にあおられてジリジリジリとせわしなく音を
たてている。この音も耳触りだ!気に要らぬ。










神楽衣装

2016-08-04 16:16:48 | 日記
 先日、暇なら神楽衣装の虫干しを手伝え、との事で出かけました。
神社に隣接して間口3間程の神楽殿があり、裏側が演者の控室と衣装倉庫になっている。
衣装は一枚ずつ頑丈な木製の衣装箱に収められ、10段ばかり積み上げてあります。
これでも
”うちの神楽団は貧乏だから道具(衣装)が少ない!”との事。

 広島県は神楽の盛んな所である。昔はどんな小さな村にも神楽団があり、若者は皆入団し
村毎に得意な演目があり、技を競い合ったと言うのである。
 今でも県北では神楽が盛んで、常設の神楽館が新設され人を集めている。中学校高校にも
神楽部があり、神楽甲子園なるものが行われているようである。
 以前、子供神楽を見た事がある。舞の演目は子供らしいものであったが小学生程の女の子が
篠笛を見事に笛き分けていたのに感心した覚えがある。

 我が町の神楽団はというと、
”団長は譲ったが私が最年長で76歳、一番若いのが66歳、総員7名。太鼓と鉦と笛で3人、
舞えるのが残り4人これじゃどうにもならん。若い者を誘うが見向きもしない!。秋祭りの奉納
神楽も衣装を着てお茶を濁す程度よ!”
 一枚の衣装箱に、金糸、銀糸を盛り上げたずっしりと重い衣装が入っていた。
”今作れば、2,3百万円はするだろう、この衣装を着て舞える人も居なくなった”
”これらの衣装も道具も皆町民の寄付で作った物だろう、粗末には出来ない。朽ち果てるまで
毎年風を通す事になるのだろうが、さあその役を誰が継いでくれるのだろう!”

 気の滅入るお手伝いでした。今年の秋祭りの奉納神楽が心配です。


















盆灯篭

2016-08-03 06:15:33 | 日記
 私の地方では盆のお墓詣りに灯篭を持って行く風習があります。
丸竹の先端をチューリップの様に6面に開いて色紙を張った灯篭です。金、銀、赤、紫
黄色、を各面毎に変えてあり、中には白色だけのもあります。

 お盆の墓参りは大変です。通常のお参り道具の他に、親戚のお墓も含めてお参りする墓の
数だけ灯篭を持って行く事になります。親戚の多い御家ですと10本以上も必要で家族全員
で手分けして、山上のお墓まで持って行くことになります。
白の灯篭はその年新盆を迎えたお墓へ供えます。

 この風習は広島県西部の門徒(浄土真宗)だけのようで、山陽道を下ってくると糸崎
三原辺りからお墓が色で賑やかになります。県境の小瀬川を渡ると山口県に入りますが
川一つ越えただけで静かなお墓に一変します。

 昨日スーパーに寄って見ましたが、店頭に大量の灯篭が準備されていました。
今年は800円、我が家は近所のお店で買います。