今、アメリカのボストン、という地名を聞くと松坂大輔やレッドソックスを連想する人の方が多数派となるだろうか?
ある一定の世代の人たちにとっては、マラソンや陸上競技に並々ならぬ思い入れを持つ人でなくとも、ボストンと言えばマラソンを連想するはずである。
余談だが、その昔、東芝からボストンという商標名のステレオが'70年代の初めに発売されていた。CMには、ビートルズの「レット・イット・ビー」のシーンが使用されていたし、その後は昨年亡くなった加藤和彦と当時の奥さんのミカ(後にサディスティック・ミカ・バンドのボーカルになる人)が出演していた。
ボストン・マラソン。毎年、アメリカの祝日である4月の第3月曜日(“愛国者の日”)に開催される。今年で第114回を数える文字通りの世界最古のマラソン大会である。
第1回が開催されたのは1897年。前年アテネで開催された第一回近代オリンピックを視察したボストン陸上競技協会(B.A.A)の会長が、最終種目であるマラソン競走における地元ギリシャのスピルドン・ルイスの勝利とそれに熱狂するギリシャ国民の姿に大きな感銘を受け、
「このような大会を是非、我が国でも。」
との想いから、アメリカ合衆国独立戦争発祥の地であるボストンにてマラソン大会を開催したのがその起源である。
以後、3つの世紀をまたいで大会は続けられ、中止したのは第一次世界大戦の最中であった1918年のみである。
第一回大会は(僕の所有する資料によると)24.5マイル(約39.4km)のコースで15人のランナーが参加して開催された、となっている。その後、1925年(1927年という説もあり)に、42.195kmに変更されたが、後にこのコースは短かったと判明している。
この大会が広く日本人に知られるようになったのは1951年、敗戦から6年後に初めて参加した日本選手団の1人で当時19歳の大学生だった田中茂樹が優勝しことがきっかけである。広島県出身というところから現地のマスコミに「アトム(原爆)ボーイ」というニックネームをつけられ、スタート前から話題を集めていたが、本番のレースではその「アトムボーイ」が誰よりも先にゴール地点に戻ってきたのだったから誰もが皆、驚いたのである。敗戦国日本にとってこの勝利は、湯川秀樹のノーベル賞や競泳における古橋広之進の世界新記録と並んで、日本人に希望と誇りを取り戻させる快挙だったのだ。なお、田中は広島県でも山間部の出身だったため、直接原爆の被害は受けてはいないが、その日は市内から大やけどを負って避難してきた被爆者たちの看病も経験し、レース前には原爆の被害についての聞き取り調査も受けたという。
昭和一桁生まれの僕の母親にとってはこの年よりも2年後の山田敬蔵の優勝の方が印象深いという。満州からの引揚者だった鉱山労働者、山田の優勝記録2時間18分51秒は、後に距離不足が判明するまでは世界最高記録であったし、彼をモデルにした「心臓破りの丘」という映画も製作された。主演はペギー葉山の夫となる当時の二枚目スター、根上淳。僕にとっては、「帰ってきたウルトラマン」の地球防衛軍MATの伊吹隊長役が忘れられない人だ。これによって、「心臓破りの丘」の名称とともにボストン・マラソンの名前は大きく広まった。
しかしながら、“Heartbreak”というのは本来は「悲嘆、断腸の想い」という意味であるのだが。
3年後にも山口出身の浜村秀雄の優勝以後は、日本人の優勝が途絶えたが、'60年代の半ばには再びこの地に「ニッポン旋風」が吹き荒れる。東京五輪の翌年の'65年以降、日本陸連は若手の強化を目的として、別府マラソンの優勝者と上位入賞者をボストンに派遣するようになったのだ。'65年には東京五輪の代表有力候補だった重松森雄が優勝し、翌年は東京五輪以後、一時は競技から離れていた君原健二が復活優勝を果たした。この2年は日本人ランナーが表彰台を独占してみせた。そして'69年にはメキシコ五輪の代表に漏れて、真の意味で“Heartbreak”していた広島県の高校教師、采谷義秋が大会記録で優勝したのだった。
僕の世代にとって、ボストンのヒーローと言えば、日本人で唯1人、ボストンで2回優勝している瀬古利彦だろう。'80年のモスクワ五輪をボイコットした日本の「幻の代表」だった瀬古はその年の福岡でモスクワの金メダリスト、ワルデマール・チェルピンスキーに後塵を浴びせ、翌年のボストンで地元のヒーロー、ビル・ロジャースを破って優勝した。この模様は当時、ゴールデンタイムで中継された。瀬古が当時、「真の世界最強のマラソン・ランナー」であることを証明したレースだった。その瀬古が'87年に2度目の優勝をして以来、日本人ランナーはボストンの優勝から遠ざかっている。
'80年代以降は日本のトップランナーは青梅や勝田などの市民マラソンからの派遣が主で、日本陸連からの派遣は毎年は行なわれなくなった。しかし、'92年の山本佳子の日本最高タイ記録での2位や谷口浩美に浅利純子、実井謙二郎に土佐礼子ら五輪代表ランナーたちの入賞、そして'96年の第100回記念大会での藤村信子の3位入賞など時折、日本人ランナーたちは健在ぶりを示している。
今年も北京五輪マラソン代表の中村友梨香が出場し、五輪後初のマラソンということで注目されたが、7位に終わった。五輪後、トラックで世界選手権に入賞とスピードに磨きをかけてきた彼女だっただけに残念だった。
一般の市民ランナーが海外のマラソンに出場することが困難だった'70年代に初めてマラソンのツアーが企画されたのも、ボストンだったという。田中や山田といった偉大な先達の快挙があったからこそ、ボストン・マラソンの名前は広く知られ、世界選手権が始まるまでは
「五輪の次に価値のあるマラソン」
と思われていた。
実際、五輪の優勝者はボストンには勝てないというジンクスが存在した。アベベ・ビキラも、フランク・ショーターも、黄永祚も、ボストンでは優勝出来なかった。長い歴史の中でボストンで優勝している五輪金メダリストは男子ではジェリンド・ボルディン、女子ではジョアン・べノイトにロザ・モタにファトゥマ・ロバだけである。高橋尚子に全盛期に1度ボストンを走ってもらいたかったと思う。
逆のジンクスも存在する。ボストンの優勝者は五輪で金メダルが取れない。君原健二、李鳳柱、キャサリン・ヌデレバ。いずれもボストンに優勝経験のある五輪銀メダリストである
さて、ここまでの話はほんのイントロダクションである。
月刊「ランナーズ」誌において、昨年から「マラソンの系譜」という連載が始まっている。筆者はこれまでにも同誌で秀逸なマラソン記事を残している武田薫。「マラソン・ニッポン」の歴史に残るランナーたちを訪ね、それまで語られなかった裏話を語るという企画もの記事である。山田、重松、君原もこれまでに登場し、最新号には田中のボストン優勝にまつわる物語が語られている。
それを読んで、はっとした。今まで気づかなかった疑問、いやそれまで疑問とさえ感じなかった疑問に対する答えが書かれていたからだ。
なぜ、あの時、敗戦からわずか6年という時期に、日本のマラソン関係者たちはボストンを目指したのか?
(つづく)
※文中敬称略
ある一定の世代の人たちにとっては、マラソンや陸上競技に並々ならぬ思い入れを持つ人でなくとも、ボストンと言えばマラソンを連想するはずである。
余談だが、その昔、東芝からボストンという商標名のステレオが'70年代の初めに発売されていた。CMには、ビートルズの「レット・イット・ビー」のシーンが使用されていたし、その後は昨年亡くなった加藤和彦と当時の奥さんのミカ(後にサディスティック・ミカ・バンドのボーカルになる人)が出演していた。
ボストン・マラソン。毎年、アメリカの祝日である4月の第3月曜日(“愛国者の日”)に開催される。今年で第114回を数える文字通りの世界最古のマラソン大会である。
第1回が開催されたのは1897年。前年アテネで開催された第一回近代オリンピックを視察したボストン陸上競技協会(B.A.A)の会長が、最終種目であるマラソン競走における地元ギリシャのスピルドン・ルイスの勝利とそれに熱狂するギリシャ国民の姿に大きな感銘を受け、
「このような大会を是非、我が国でも。」
との想いから、アメリカ合衆国独立戦争発祥の地であるボストンにてマラソン大会を開催したのがその起源である。
以後、3つの世紀をまたいで大会は続けられ、中止したのは第一次世界大戦の最中であった1918年のみである。
第一回大会は(僕の所有する資料によると)24.5マイル(約39.4km)のコースで15人のランナーが参加して開催された、となっている。その後、1925年(1927年という説もあり)に、42.195kmに変更されたが、後にこのコースは短かったと判明している。
この大会が広く日本人に知られるようになったのは1951年、敗戦から6年後に初めて参加した日本選手団の1人で当時19歳の大学生だった田中茂樹が優勝しことがきっかけである。広島県出身というところから現地のマスコミに「アトム(原爆)ボーイ」というニックネームをつけられ、スタート前から話題を集めていたが、本番のレースではその「アトムボーイ」が誰よりも先にゴール地点に戻ってきたのだったから誰もが皆、驚いたのである。敗戦国日本にとってこの勝利は、湯川秀樹のノーベル賞や競泳における古橋広之進の世界新記録と並んで、日本人に希望と誇りを取り戻させる快挙だったのだ。なお、田中は広島県でも山間部の出身だったため、直接原爆の被害は受けてはいないが、その日は市内から大やけどを負って避難してきた被爆者たちの看病も経験し、レース前には原爆の被害についての聞き取り調査も受けたという。
昭和一桁生まれの僕の母親にとってはこの年よりも2年後の山田敬蔵の優勝の方が印象深いという。満州からの引揚者だった鉱山労働者、山田の優勝記録2時間18分51秒は、後に距離不足が判明するまでは世界最高記録であったし、彼をモデルにした「心臓破りの丘」という映画も製作された。主演はペギー葉山の夫となる当時の二枚目スター、根上淳。僕にとっては、「帰ってきたウルトラマン」の地球防衛軍MATの伊吹隊長役が忘れられない人だ。これによって、「心臓破りの丘」の名称とともにボストン・マラソンの名前は大きく広まった。
しかしながら、“Heartbreak”というのは本来は「悲嘆、断腸の想い」という意味であるのだが。
3年後にも山口出身の浜村秀雄の優勝以後は、日本人の優勝が途絶えたが、'60年代の半ばには再びこの地に「ニッポン旋風」が吹き荒れる。東京五輪の翌年の'65年以降、日本陸連は若手の強化を目的として、別府マラソンの優勝者と上位入賞者をボストンに派遣するようになったのだ。'65年には東京五輪の代表有力候補だった重松森雄が優勝し、翌年は東京五輪以後、一時は競技から離れていた君原健二が復活優勝を果たした。この2年は日本人ランナーが表彰台を独占してみせた。そして'69年にはメキシコ五輪の代表に漏れて、真の意味で“Heartbreak”していた広島県の高校教師、采谷義秋が大会記録で優勝したのだった。
僕の世代にとって、ボストンのヒーローと言えば、日本人で唯1人、ボストンで2回優勝している瀬古利彦だろう。'80年のモスクワ五輪をボイコットした日本の「幻の代表」だった瀬古はその年の福岡でモスクワの金メダリスト、ワルデマール・チェルピンスキーに後塵を浴びせ、翌年のボストンで地元のヒーロー、ビル・ロジャースを破って優勝した。この模様は当時、ゴールデンタイムで中継された。瀬古が当時、「真の世界最強のマラソン・ランナー」であることを証明したレースだった。その瀬古が'87年に2度目の優勝をして以来、日本人ランナーはボストンの優勝から遠ざかっている。
'80年代以降は日本のトップランナーは青梅や勝田などの市民マラソンからの派遣が主で、日本陸連からの派遣は毎年は行なわれなくなった。しかし、'92年の山本佳子の日本最高タイ記録での2位や谷口浩美に浅利純子、実井謙二郎に土佐礼子ら五輪代表ランナーたちの入賞、そして'96年の第100回記念大会での藤村信子の3位入賞など時折、日本人ランナーたちは健在ぶりを示している。
今年も北京五輪マラソン代表の中村友梨香が出場し、五輪後初のマラソンということで注目されたが、7位に終わった。五輪後、トラックで世界選手権に入賞とスピードに磨きをかけてきた彼女だっただけに残念だった。
一般の市民ランナーが海外のマラソンに出場することが困難だった'70年代に初めてマラソンのツアーが企画されたのも、ボストンだったという。田中や山田といった偉大な先達の快挙があったからこそ、ボストン・マラソンの名前は広く知られ、世界選手権が始まるまでは
「五輪の次に価値のあるマラソン」
と思われていた。
実際、五輪の優勝者はボストンには勝てないというジンクスが存在した。アベベ・ビキラも、フランク・ショーターも、黄永祚も、ボストンでは優勝出来なかった。長い歴史の中でボストンで優勝している五輪金メダリストは男子ではジェリンド・ボルディン、女子ではジョアン・べノイトにロザ・モタにファトゥマ・ロバだけである。高橋尚子に全盛期に1度ボストンを走ってもらいたかったと思う。
逆のジンクスも存在する。ボストンの優勝者は五輪で金メダルが取れない。君原健二、李鳳柱、キャサリン・ヌデレバ。いずれもボストンに優勝経験のある五輪銀メダリストである
さて、ここまでの話はほんのイントロダクションである。
月刊「ランナーズ」誌において、昨年から「マラソンの系譜」という連載が始まっている。筆者はこれまでにも同誌で秀逸なマラソン記事を残している武田薫。「マラソン・ニッポン」の歴史に残るランナーたちを訪ね、それまで語られなかった裏話を語るという企画もの記事である。山田、重松、君原もこれまでに登場し、最新号には田中のボストン優勝にまつわる物語が語られている。
それを読んで、はっとした。今まで気づかなかった疑問、いやそれまで疑問とさえ感じなかった疑問に対する答えが書かれていたからだ。
なぜ、あの時、敗戦からわずか6年という時期に、日本のマラソン関係者たちはボストンを目指したのか?
(つづく)
※文中敬称略
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