1996年以後、僕は名古屋国際女子マラソンを生で見ていない。その前年、愛媛マラソンを初完走したのがきっかけで、当時通っていたスポーツジムで知り合った年長のランナーから、彼が所属しているクラブチームに勧誘されたのだ。そのチームの大きな年間行事の一つが、毎年、名古屋と同じ3月の第二日曜日に開催される駅伝大会だった。
県内の市町村が持ち回りで開催し、新聞社も主催に関わっているので、毎年大会数日前には出場全チームのメンバーが新聞に掲載されるし、翌日のスポーツ面には一面のほとんどを使って結果が報道される。そういう大会に出られることが嬉しかった。
(話は横道にずれるが、数年前にある県の高校総体の試合結果に自分の息子の名前が掲載されたことを「個人情報の漏洩」として、新聞社に抗議した親がいたのだという。さらに、その親を、学校スポーツや企業スポーツを「前世紀の遺物」と切り捨てている某スポーツライター氏が支持するような事を書いているのを見て、呆れ果てたものだった。自分の名前が新聞に掲載される事の楽しみが理解できない人間でもスポーツライターが務まるのか。)
1996年に初めて出たその大会では最長区間の10kmを走り、当時の10kmの自己ベストタイムを更新した。自分の実力を120%振り絞り出させる、「襷の魔力」を実感した。
名古屋のレースは毎年、駅伝から帰宅した後のビデオ観戦がお楽しみとなった。この年の名古屋は、愛媛出身の真木和が初マラソン初優勝でアトランタ五輪の代表入りを決めたレースとして、愛媛のマラソンファンには忘れ難いレースとなった。
4年後の2000年。レースを終えてチームメイトたちと車で帰る途中、国道沿いのラーメン屋に立ち寄った。
「そう言えば、今、名古屋国際女子マラソンやっとんやないか。」
「そやそや、まだやりよらい。」
店のテレビはジャイアンツのオープン戦を映していたが、チャンネルを変えた。
ちょうど、高橋尚子がゴールするシーンだった。
「高橋がトップじゃ。」
「やっぱりのう。」
「タイムはどんくらいや。」
優勝タイムは2時間22分19秒。2年前に同じコースで自らがマークした当時の日本最高記録を3分29秒も更新するコース・レコードで、その年のバンコクのアジア大会でマークした、アンビリーバブルな日本新記録にもあと32秒に迫る好記録だった。そして、シドニー五輪の選考としては、1月の大阪国際女子マラソンで2位となった弘山晴美の記録も37秒上回った。
「これで決まったのう。」
「やっぱり高橋じゃのう。」
「バンコクで21分出すんじゃけんモノが違わい。」
しかし、その直後、2位で入って来たナンバー120のランナーの顔を見て驚いた。
「三井海上の土佐礼子?」
「おい、松商の土佐やが。」
「一昨年の愛媛マラソンで優勝した子やろ?」
「ワシも途中まではあの子についとったんやけどなあ。」
「逸郎の娘じゃろが(現在、チームの監督をしている人は、土佐の父親と高校時代にチームメイトだったそうである。)。」
「学生の時よりも細なったのう。」
2位でゴールした土佐礼子。実業団入りして初のマラソンだった。実は大阪にエントリーしていたのだが、名古屋にスライド出場していた。
ゴールタイムを聞いて皆、騒然となった。
「2時間24分36秒!?」
「すごっ!」
「愛媛のタイムを30分も更新しとるぞ。」
「これじゃあ、もう愛媛マラソンには来んやろのう。」
「高橋出てなかったら、優勝しとるぞ。」
「大したもんじゃ。」
地元出身のランナーの誰も予想しなかった快挙にひとしきり盛り上がったが、それに水を差したのが、近くの席にいたパンチパーマにサングラスの客だった。帰り際に、我々の席に来て、
「あんたら、スポーツマンみたいやけど、他人の迷惑いうもんを考えんのか。あんたらだけのテレビやないんで。」
と言って店を出て行った。僕らがチャンネルを変えた時、嫌な顔をしたのが目に入ったのでどうやらオープン戦を見ていたようである。
男が立ち去った後、少し気まずい空気に包まれた。確かに、店のテレビであり、僕たちが店を貸し切っていたわけではないのだから、
「チャンネル変えてもいいか。」
と一言お断りすべきところだったろう。しかし、その時は皆、
「オープン戦なんて、練習試合やろが。こっちは五輪の代表決める真剣勝負やど。」
「そやそや、ましてや愛媛の子が優勝争いしよったんやけんのう。」
と、公共のマナー違反の指摘など何処吹く風とばかりに、立ち去ったパンチパーマ男に不満たらたら語っていた。
多くのマラソン・ファンに「土佐礼子」の名前を印象付けた記念すべきレースには、少し苦い思い出が残っている。
帰宅して、ビデオを見てみると、土佐はスタートから先頭グループに位置取っていた。そんな彼女を当時大南姉妹の指導者だった竹内伸也監督は、
「アテネ五輪のマラソン代表有力候補」
と高評価を与えていた。やはり、4月に三井海上に入社して半年後の、前年の世界ハーフマラソン選手権での6位入賞という結果のおかげだろう。
実は11月の国際千葉駅伝の日本代表女子チームも走っていたのだが、マラソン・ファン向けの掲示板にてその話題を持ち出したところ、意外と記憶していないというレスがいくつかあった。実際、区間賞はケニアチームのエスタ・ワンジロにさらわれ、彼女のハイペースに食らいついて失速するような展開だった。もともと彼女、駅伝の実績で実業団入りしたランナーではないので、やむを得ないかもしれない。
高橋尚子が、シドニー五輪代表を決めた陰で、土佐はひっそりと「日本代表」への道を歩き始めていた。
あれから、もう10年も経つのか。その後の10年のことは改めて書くまでもないだろう。この時の土佐の走りが無ければ、僕はこのサイトを作っていないと思う。僕がインターネットの世界に足を踏み入れたのは、このレースから3ヶ月後のこと。マラソン・ファンが集う掲示板にて、
「僕は土佐礼子の故郷の北条市に住んでいて、彼女は僕の大学の後輩です。」
と自己紹介するところから始まったのだ。
高橋はシドニーで金メダルを獲得して、「国民的ヒロイン」となり、現在もキャスターとして活躍している。僕は帰宅時間が遅いので、彼女が出演しているニュース番組は1度も見たことがないが。
土佐は結婚した後も走り続け、出産のために競技生活に「一区切り」をした。桜が満開となる頃には、母親となっているかもしれない。そして、その先は・・・。
もう一度、マラソンのスタートラインに立つ日も来るだろうか。きっと来ると思う。彼女にとって、学生時代からの練習コースだった国道196号線や、彼女の五輪出場の記念碑が建てられた文化の森公園の近くが愛媛マラソンの新コースになったのだから。(愛媛マラソンの中継アナは「レイコ・ロード」と名づけた。)夫の村井コーチら母校出身のランナーたちとチームを作り、地元の駅伝にも出てくれたらいいなとも思っている。
春はもうすぐ、そこまで来ている。
付記:このレースでトップした高橋が、役員から大会スポンサーのスポーツドリンクを受け取った際、監督室でテレビを見ていた大塚製薬陸上部の河野匡監督が、
「危ない!飲むな!」
と叫んだのだと、スポーツライターの武田薫氏が後に明らかにしていた。こうような時に、どこの誰か分からぬ者から手渡されたものを口にしてはいけないという。理由はもちろん、「ドーピング」に関わるからだ。
県内の市町村が持ち回りで開催し、新聞社も主催に関わっているので、毎年大会数日前には出場全チームのメンバーが新聞に掲載されるし、翌日のスポーツ面には一面のほとんどを使って結果が報道される。そういう大会に出られることが嬉しかった。
(話は横道にずれるが、数年前にある県の高校総体の試合結果に自分の息子の名前が掲載されたことを「個人情報の漏洩」として、新聞社に抗議した親がいたのだという。さらに、その親を、学校スポーツや企業スポーツを「前世紀の遺物」と切り捨てている某スポーツライター氏が支持するような事を書いているのを見て、呆れ果てたものだった。自分の名前が新聞に掲載される事の楽しみが理解できない人間でもスポーツライターが務まるのか。)
1996年に初めて出たその大会では最長区間の10kmを走り、当時の10kmの自己ベストタイムを更新した。自分の実力を120%振り絞り出させる、「襷の魔力」を実感した。
名古屋のレースは毎年、駅伝から帰宅した後のビデオ観戦がお楽しみとなった。この年の名古屋は、愛媛出身の真木和が初マラソン初優勝でアトランタ五輪の代表入りを決めたレースとして、愛媛のマラソンファンには忘れ難いレースとなった。
4年後の2000年。レースを終えてチームメイトたちと車で帰る途中、国道沿いのラーメン屋に立ち寄った。
「そう言えば、今、名古屋国際女子マラソンやっとんやないか。」
「そやそや、まだやりよらい。」
店のテレビはジャイアンツのオープン戦を映していたが、チャンネルを変えた。
ちょうど、高橋尚子がゴールするシーンだった。
「高橋がトップじゃ。」
「やっぱりのう。」
「タイムはどんくらいや。」
優勝タイムは2時間22分19秒。2年前に同じコースで自らがマークした当時の日本最高記録を3分29秒も更新するコース・レコードで、その年のバンコクのアジア大会でマークした、アンビリーバブルな日本新記録にもあと32秒に迫る好記録だった。そして、シドニー五輪の選考としては、1月の大阪国際女子マラソンで2位となった弘山晴美の記録も37秒上回った。
「これで決まったのう。」
「やっぱり高橋じゃのう。」
「バンコクで21分出すんじゃけんモノが違わい。」
しかし、その直後、2位で入って来たナンバー120のランナーの顔を見て驚いた。
「三井海上の土佐礼子?」
「おい、松商の土佐やが。」
「一昨年の愛媛マラソンで優勝した子やろ?」
「ワシも途中まではあの子についとったんやけどなあ。」
「逸郎の娘じゃろが(現在、チームの監督をしている人は、土佐の父親と高校時代にチームメイトだったそうである。)。」
「学生の時よりも細なったのう。」
2位でゴールした土佐礼子。実業団入りして初のマラソンだった。実は大阪にエントリーしていたのだが、名古屋にスライド出場していた。
ゴールタイムを聞いて皆、騒然となった。
「2時間24分36秒!?」
「すごっ!」
「愛媛のタイムを30分も更新しとるぞ。」
「これじゃあ、もう愛媛マラソンには来んやろのう。」
「高橋出てなかったら、優勝しとるぞ。」
「大したもんじゃ。」
地元出身のランナーの誰も予想しなかった快挙にひとしきり盛り上がったが、それに水を差したのが、近くの席にいたパンチパーマにサングラスの客だった。帰り際に、我々の席に来て、
「あんたら、スポーツマンみたいやけど、他人の迷惑いうもんを考えんのか。あんたらだけのテレビやないんで。」
と言って店を出て行った。僕らがチャンネルを変えた時、嫌な顔をしたのが目に入ったのでどうやらオープン戦を見ていたようである。
男が立ち去った後、少し気まずい空気に包まれた。確かに、店のテレビであり、僕たちが店を貸し切っていたわけではないのだから、
「チャンネル変えてもいいか。」
と一言お断りすべきところだったろう。しかし、その時は皆、
「オープン戦なんて、練習試合やろが。こっちは五輪の代表決める真剣勝負やど。」
「そやそや、ましてや愛媛の子が優勝争いしよったんやけんのう。」
と、公共のマナー違反の指摘など何処吹く風とばかりに、立ち去ったパンチパーマ男に不満たらたら語っていた。
多くのマラソン・ファンに「土佐礼子」の名前を印象付けた記念すべきレースには、少し苦い思い出が残っている。
帰宅して、ビデオを見てみると、土佐はスタートから先頭グループに位置取っていた。そんな彼女を当時大南姉妹の指導者だった竹内伸也監督は、
「アテネ五輪のマラソン代表有力候補」
と高評価を与えていた。やはり、4月に三井海上に入社して半年後の、前年の世界ハーフマラソン選手権での6位入賞という結果のおかげだろう。
実は11月の国際千葉駅伝の日本代表女子チームも走っていたのだが、マラソン・ファン向けの掲示板にてその話題を持ち出したところ、意外と記憶していないというレスがいくつかあった。実際、区間賞はケニアチームのエスタ・ワンジロにさらわれ、彼女のハイペースに食らいついて失速するような展開だった。もともと彼女、駅伝の実績で実業団入りしたランナーではないので、やむを得ないかもしれない。
高橋尚子が、シドニー五輪代表を決めた陰で、土佐はひっそりと「日本代表」への道を歩き始めていた。
あれから、もう10年も経つのか。その後の10年のことは改めて書くまでもないだろう。この時の土佐の走りが無ければ、僕はこのサイトを作っていないと思う。僕がインターネットの世界に足を踏み入れたのは、このレースから3ヶ月後のこと。マラソン・ファンが集う掲示板にて、
「僕は土佐礼子の故郷の北条市に住んでいて、彼女は僕の大学の後輩です。」
と自己紹介するところから始まったのだ。
高橋はシドニーで金メダルを獲得して、「国民的ヒロイン」となり、現在もキャスターとして活躍している。僕は帰宅時間が遅いので、彼女が出演しているニュース番組は1度も見たことがないが。
土佐は結婚した後も走り続け、出産のために競技生活に「一区切り」をした。桜が満開となる頃には、母親となっているかもしれない。そして、その先は・・・。
もう一度、マラソンのスタートラインに立つ日も来るだろうか。きっと来ると思う。彼女にとって、学生時代からの練習コースだった国道196号線や、彼女の五輪出場の記念碑が建てられた文化の森公園の近くが愛媛マラソンの新コースになったのだから。(愛媛マラソンの中継アナは「レイコ・ロード」と名づけた。)夫の村井コーチら母校出身のランナーたちとチームを作り、地元の駅伝にも出てくれたらいいなとも思っている。
春はもうすぐ、そこまで来ている。
付記:このレースでトップした高橋が、役員から大会スポンサーのスポーツドリンクを受け取った際、監督室でテレビを見ていた大塚製薬陸上部の河野匡監督が、
「危ない!飲むな!」
と叫んだのだと、スポーツライターの武田薫氏が後に明らかにしていた。こうような時に、どこの誰か分からぬ者から手渡されたものを口にしてはいけないという。理由はもちろん、「ドーピング」に関わるからだ。
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