よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

南九州唯一の山城 ~松尾城(栗野城)跡

2007年12月09日 | 遺跡・遺構
栗野町市街地の北側にある、松尾城跡に寄ってみました。
栗野城、とも呼ばれ現在は城山公園として整備されています。
現在グラウンドとなっている部分にも元は曲輪がいくつかあったようで、更にここから東のほうに多くの曲輪(くるわ)が連なった大きな城であったようです。

案内板には、「南九州唯一の山城跡」と書かれています。
この松尾城の本丸には石垣を積んだ枡形虎口がありますが、「南九州唯一の山城跡」というのはこの虎口の存在が理由のようです。この虎口は「枡形虎口」と呼ばれるもので、虎口と言うのは城郭の曲輪への入り口を指しますが、その入り口のところで通路を途中で曲がり角をつくるなど工夫して直進できないような構造にして、防御性を高めたものが「枡形虎口」と言われるものです。また、その通路は土塁や石垣で囲まれた構造になっているものがほとんどのようです。
南九州では、こういった石垣を高く積んだ枡形虎口は他に見られません。


本丸から虎口を見たところ


鹿児島、宮崎にある中世城郭の多くは、「南九州型」と呼ばれる構造をしており、安土城や大阪城など織田信長や豊臣秀吉が築いた城の構造とは違っています。
大阪城などに行けば、現在の大手口から天守閣までは三の丸、二の丸を通ってかなりの距離を歩くことになります。
全国的に多くの城郭の構造が、曲輪を順番に攻め落として最後に本丸にたどり着くようになっているのに対し、「南九州型」ではそれぞれの曲輪が空堀を隔てて独立した形で林立しています。
「南九州型」の城の典型的な例としては知覧城が有名です。
通路となる堀の底を歩きながら、曲輪を見上げると、まるで狭い通りの両側にビルが建っているのと似ている感じがします。もちろん、現在空堀となっている部分には崩落してきた土の堆積があり、当時もっと深かったものと思われます。最近の発掘調査で、知覧城の空堀は現在よりも7mほども深かった部分の有ったことが明らかになったとの発表がありました。

私は南九州の城郭を全て歩いて回ったわけではありませんが、いくつかを歩いているうちに、城郭の構造には当時の戦術が関わっているような気がしてきました。山間部の多い南九州ではいざ合戦となった時に、大軍と大軍が平面的にぶつかりあう戦いだけではなく、狭い山道に敵勢を誘導して有利な位置から攻撃し消耗を図るような、地形を利用した攻撃も多かったのかもしれません。


本丸の上り口より、虎口を見えます。


落ち葉に埋もれて、当時の建物の礎石が残っているのを見つけました。


もとは真幸院の領主北原氏が砦としたところだそうですが、天正18年(1590)6月から、文禄4年(1595)10月までは島津義弘がここを居城とし、曲輪や枡形虎口もその頃築かれたものと考えられています。文禄の役には島津義弘がここから出陣したそうです。(現地案内板より)


引用・参考
『城郭の縄張り構造と大名権力』木島孝之 著
『蒲生町史』第1巻 蒲生町史編纂委員会
『城館調査ハンドブック』新人物往来社




「にほんブログ村」歴史ブログランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログへ






Photo