5月5日に和歌山市内で、講演会「 なかひらまい 小野田寛郎 名草戸畔を語る」がありました。
講演会で最も印象的であったのは「リアルで聞くことが出来た言葉」です。
会場は500名ほども入れる大きなホールがほぼ満席の状態で、残念ながら対談のなかひらさんと小野田さんまではるかに遠くの席となってしまいましたが、やはり直接話を聞くことが出来たということは大きかったように思います。
4月には、なかひらまいさん著作の『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』増補改訂版の発売があり、小野田さんの口伝も詳しく紹介されていましたので内容については既に知っていたのですが、まるで直に風景を見渡しながら絵を描くような、フレームというか視野の広がりを持つことができるようになったと思います。
名草戸畔(なぐさとべ)の伝説は紀三井寺周辺から、海南市あたりまでかなり広い地域にわたって伝承されていますが、
私も小さい頃には聞いたことがあるものの、ここまで名草戸畔という人物像をイメージすることはありませんでした。「なぐさとべ」が「名草戸畔」であり日本書紀に登場することを知ったのも、かなり後のことです。名草山のふもとあたりは私の住んでいる場所より、もっと名草戸畔の存在が身近であるのかもしれません。
小野田さんの言葉は、口伝であるが故に語る人自身が持つ名草戸畔のイメージと重なってしまうという可能性はあるものの、口伝であるからこそ本来伝えたい内容がそこに凝縮されており、それが名草戸畔そのものであるという印象でした。
時折言及する、「紀州のひとは、」というのは一見、県民性というような言葉で表現される単純なことに見えそうですが、その土地の人々の行動の仕方や慣習というのは本来、長い歴史の延長上にあって歴史の大きな流れに対応する経験値とでもいうものであるような気がします。そういったスキルを後の世代に残していく手段こそが「口伝」であるといえるのでしょう。
小野田さんの言葉には、そういったところで名草戸畔につながるものがあるのかもしれないという説得力があります。
また、宇賀部神社の背後にある山の頂上は中世、山城であったとの話があり、現在その場所は神聖な場所となっていて立ち入りしないそうですが、「頭」がここに祀られたことについてはやはり名草山がある名草中心地との位置関係から来るとの可能性も否定できないと思われます。
実は私は以前名草山のふもとで、「名草戸畔が戦に敗れたとき、ここを通っていった。」という伝承を聞いたことがあります。
名草戸畔が戦に敗れたか、実際にここを通ったか、ということが問題ではありません。
海上あるいは北方から侵入してくる軍勢に対し名草山近辺で戦った場合、退却するときは東へ逃れるということが非常に気になったのです。南へ逃れるのではなく、東へ、という点です。
これは名草を中心とした集団の、その東側(紀美野町方面)への版図というか懐の深さを意味していると考えることが可能です。
東は山間部ながらも貴志川沿岸の沖積平野が紀ノ川まで断続的に続きますので、現代的な感覚でも移動するなら東へというのは理解できます。
軍事的基盤を伝って組織的に移動するのは、単なる敗走ではありません。当時の戦に勝敗がつかなかったという伝承の根拠は、戦時中の事情などほかにもあるように思いますが、圧倒的な軍勢をもって攻撃したとしても、負かすことができない部分があったのかもしれません。
小野田さんの話にもありましたが、神武の軍勢が紀ノ川を遡ってヤマトに入ったわけではないことが地方勢力の根強い反抗などある程度はこのあたりの勢力関係を表しているものとして考えても良いような気がしますし、名草戸畔が戦で倒されたのかどうか、宇賀部神社に「頭」が祀られているとの伝承があることがかえってその後も名草で生き続けたという印象を与えます。
講演の2時間はあっという間に過ぎました。
また、改めて伝説の神社を廻ってみようかと思います。
和歌山の歴史関係の本を読んでみても、名草山周辺から伝説の神社近くまで確かに弥生時代の遺跡が広がるようです。
和歌山県北部の古代を明らかにするにはやはり「名草」が非常に重要なキーワードであるような気がします。

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