宇美の近くにある善一田古墳公園が平成31年4月27日にオープンした。その頃から計画を立ててはいたのだが、熊本県北古墳探訪が先行したため計画倒れになっていた。そろそろ行こうかと思ったところにコロナ渦である。未だに行くことが出来ないでいる。ずっと家に閉じこもっているという状況である。まあ我輩だけではあるまいがな梅雨に入る前か、その間隙を縫ってか・・・うーむ。
小倉散歩(令和二年五月)
1587年毛利勝信が入城するが、関ヶ原で西軍にくみして戦場に赴いているすきを狙って黒田如水に攻略されてしまう。その後黒田は福岡へ転封され、代わりに細川忠興が入城し小倉城を完成させる。寛永9年(1632)には細川氏が肥後へ転封され、代わりに譜代の小笠原忠真が豊前15万石を領して城主となる。以後、小笠原氏が代々が継いで幕末にいたるが、慶応2年(1866)の第二次征長の際に幕府側として最後まで戦うのだが、孤立してしまいついには城に火を放って豊津に退去した。小倉城は焼け落ち、繁栄を見せた城下町も荒廃してしまった。現在は石垣や堀だけが城跡として残ったものの現在見ることの出来る城が小倉のシンボルとして再建された。
当該ブログの記事は5月31日から6月9日までである。
これが石室の入り口である。装飾古墳であるから中に入ることは出来ない。下に降りて見ようか。
こんな格好だ。賢明なる読者諸氏ならば既にご存じの様に肥後の古墳と言えば装飾古墳が多い。それは幾何学文様の多さであろう。
ドクダミの群生だ。
こうしてみると綺麗だろ。ドクダミ茶を聞いたことがあるだろうがそのために栽培している訳ではないからな。
花が終わったら切り取って乾燥させてみようかな。ちょっとはお茶が飲めるかもしれんぞ。
装飾古墳が保存されるために辿り着いた姿かもしれないな。熊本地震で石室が崩壊したのかもしれないが。
雨漏りによる損傷を避けるためにとられた最低限の手当てであろう。如何ともし難いな。熊本市内の釜尾古墳が崩壊してブルーシートがかけられていたからな。
この絵図では北が下になっている。こんな地図の書き方なんかな・・
それにしても・・人の姿、車があまりにもまばらだな。我輩は免許証の延期の為に小倉北警察署に手続きに行ったんだ。
が、しかーし、日曜日は受け付けていませんと無下に断られてしまった。若い警察官にそんな常識も知らんのかと言ったような目で見られたぞ。どうも官憲となると虎の威を借りる狐の様に明治時代の官憲の態度を今も見せているかのように思えてならんが・・次の日に・・雨が降っているのにもかかわらず(親譲りだし、母親自慢の雨男だからな)警察署に出かけたら・・なんとも受付の女性は優しく、扱ってくれた警官も丁寧だったからな。これが本当だろうに。
「何処行くの」と聞くから妻に言ったんだ。「自首しに行く」ってね。「あほか」わははのは。
橋の袂や川沿いには柳が似合う。だろ。
最近はこの片喰にはまってしまっている。赤片喰の方が花が大きく形状も少し異なる。しかし、綺麗だろ。好きなんだなこれが。もう何度言ったことか。
庭のほんの片隅で綺麗な姿を見せてくれる・・・感謝の何ものでもないな。
六世紀後半に築造されたとする円墳である。周溝を持った20m程の規模を持っていた。
写真と実測図を御覧になってお判りの様に・・石室(持ち送りが見て取れる)が凄いだろ。奥壁、右側壁、左側壁の腰石に装飾が施されており、同心円、楯、靱等が描かれている。