父が高校へ進学しようとした、矢先
預金の全てを預けていた銀行が倒産し
父は働くべく、商業高校に入学した
そこの伝統は、
新入生歓迎の上級生からの、平手打ちだった
父は二年生になると(その伝統を止めよう)
と発言した
すると二・三年生、全てから 次々
決闘を申し込まれ 現地に赴き、戦っていると
どこから聞きつけるのか、友人の柔道の強い
井出さんが駆けつけ、二人と多勢は戦い
毎回二人が勝ち、泥だらけの顔で笑いあった
そして、それから、平手打ちの伝統は終わった
井出さんは、二十代半ばで
柔道で日本一になった途端、父親が急逝し
柔道の道を諦め、実家に戻った
同時期 三井物産を辞し戦争を終えた父も故郷に戻った
彼はよく、私の実家へ訪れた
私は茶の間から退き、隣の部屋で、父と歓談する
彼の背中を見ていた
母は(あの人は、体は大きいのに
蚊の鳴くような女のような声で可笑しい)
と笑った
小学生の私は、彼の背中が、怖かった
しずかな気迫で ひろく きびしく、
彼の声など耳に入らぬほど、怖かった
友ちゃんは、柔道で日本一になったんだよ
というのは、後から聞いた
それから時が経ち、
子供を連れ帰省すると、父は子供達を
彼の畑に連れて行った
彼は、警察で柔道を教えながら、畑仕事をした
更に時が経ち、
彼は玄関先で 野菜を届けると返って行った
彼の背中から、厳しさが消えた
又更に時が経ち、
彼は癌に冒され 父を呼んだ
手をあわせ
今までありがとう、先に逝って待っているからなあ
この次のモルヒネで話せなくなる、
友ちゃんは そう言った
彼が亡くなった後、ある方から聞いた
井出さんのお母さんは、義理のお母さんだったの
それなのに、実のお母さんのように尽くして
お義母さんは、我儘な人で
それならここから出ていくと、何時も言っていたの
孫が(じゃあ、出て行ったら)と言ったら
それから言わなくなったの
そこで、私は 知ったのだ
あの、背中の 厳しさは
大きな 優しさだったと、
友ちゃん、父は逝く時
誰かに逢えたように 微笑っていた
友ちゃん、
父は、あなたに、逢えたんじゃないでしょうか
R3.5.18
付記
この写真は、父が送ってくれたもので
私は、父の遺影とこの写真を組ませ
額に入れたので、残っていたのです。
井出さん逝去の年、父は
(畏友が亡くなりましたので)と
年賀欠礼をしました。