「5 スローモーション的動きでの修錬で培われるものとは」では、武技の修錬をスローモーション的動きで行うことの意義、過程的構造が説かれ(解かれ)る。ここにしっかりと学べるか否かが、技による施術となるか技らしき形の単なる人間技、力まかせでの施術となるか、を決めて来てしまうのではと思う。
スローモーション的動きでの施術。これまで数年に亘って行って来た、が、その意義初めて分かった。と思う。
手技療法、手技療術の施術も武道、武術の闘いと同じくに、人間技では無く技によるものでなければならない。との思いがあったので、人間力、人間技になるべく頼らないで、とイメージして修業して来た。
その一つが、スローモーション的動きによる施術であるが、これは武道、武術の達人の闘い、技がスローモーション的動きによって為されることがある。ということや高野佐三郎が道場の床に豆を撒いてスピード、勢いに頼らないでの闘いの修錬を行った。また日常的な例でいえば、包丁で切るときにスピード力まかせでは無く包丁の切れ味で切る、本当に切れる包丁はそういう切り方が可能である、ということをイメージしてのものであった。
そしてそのスローモーション的動きでの施術は、自身にとってそれなりの成果があった=体力に頼らないでの手技の施術が可能となりつつある。と思っていたのだが、「5 スローモーション的動きでの修錬で培われるものとは」で説いていただいていることに学ぶと、自身の実践は、スローモーション的動きの修錬本来の意義をしっかりと踏まえられていない。自身の実践には随分と不足したものがある、と思えた。
『武道空手學 概論』に学ぶことで、武道、武術文化の高みを目指しての、そこに僅かでも近づいて行ける様な、手技の修業、実践を行っていきたい、と思う。
スローモーション的動きでの施術。これまで数年に亘って行って来た、が、その意義初めて分かった。と思う。
手技療法、手技療術の施術も武道、武術の闘いと同じくに、人間技では無く技によるものでなければならない。との思いがあったので、人間力、人間技になるべく頼らないで、とイメージして修業して来た。
その一つが、スローモーション的動きによる施術であるが、これは武道、武術の達人の闘い、技がスローモーション的動きによって為されることがある。ということや高野佐三郎が道場の床に豆を撒いてスピード、勢いに頼らないでの闘いの修錬を行った。また日常的な例でいえば、包丁で切るときにスピード力まかせでは無く包丁の切れ味で切る、本当に切れる包丁はそういう切り方が可能である、ということをイメージしてのものであった。
そしてそのスローモーション的動きでの施術は、自身にとってそれなりの成果があった=体力に頼らないでの手技の施術が可能となりつつある。と思っていたのだが、「5 スローモーション的動きでの修錬で培われるものとは」で説いていただいていることに学ぶと、自身の実践は、スローモーション的動きの修錬本来の意義をしっかりと踏まえられていない。自身の実践には随分と不足したものがある、と思えた。
『武道空手學 概論』に学ぶことで、武道、武術文化の高みを目指しての、そこに僅かでも近づいて行ける様な、手技の修業、実践を行っていきたい、と思う。