『哲学・論理学原論』には「正誤表」がある。
「第1版1刷」をほとんど違和感なく読んだだけに、「重大な校正ミス」というものが気になって、現代社さんにお願いして「正誤表」送っていただいた。
「正誤表」に従って「第1版1刷」を訂正しつつ再度、『哲学・論理学原論』を読み返した。
『哲学・論理学原論』、自身の実力からはまだ早いとの思いでいたのだが、二度三度と読むと説いていただいていることが、なんとなくではあるがイメージされ、こんな理解で果たしていいのか!?との恐さはあるものの、自身の南郷先生の著作の理解の浅さ不十分さが痛感され、くり返し読むことで何としても分かりたい、分からねばならない、との思いへとなっていっている。
例えば、学的な学びの出立時に必須のものと以前より説いていただいている「唯物論」について、これまでの「唯物論」は素朴な唯物論であって「本物の唯物論」はそんなものではない、とも説いていただいていて、自身でも「素朴な唯物論ではダメ!」と思っていた、「と思っていた」ということの中身は不十分というか何も無いということに、『哲学・論理学原論』の「第二編 哲学・論理学・弁証学・認識学を論じる」「第三章 論理学とは何か」「第二節 概念化できるようになるための頭脳力の養成過程を説く」の「(1)学問を志すにはまず唯物論が分からなければならない」以降で説かれる「本物の唯物論」を読むと気づかされる、「本物の唯物論」とはこんな凄い実力を要するものであったのか!?と説いていただいていることに心底驚かされるとともに、自身の不十分さ学びの浅さを骨身にしみて感じさせられ、である。そのことで、南郷先生の他の著作もまた、『哲学・論理学原論』がその本質論としてあるのだと思え......。
こんなに凄い『哲学・論理学原論』を再度、再々度、読む機会を与えてくれた「重大な校正ミス」のあったことに、現代社編集部の皆さんに心からの感謝の気持ちでいっぱいになった。
これは、決して皮肉では無く、それがなければ絶対と言っていいほど、『哲学・論理学原論』を後数年は読み返すことが無かったであろうから......。
通常は、校正ミスは「正誤表」の添付で終わり、であると思っていたのだが、現代社さんの真摯な姿勢に......。
「第1版1刷」をほとんど違和感なく読んだだけに、「重大な校正ミス」というものが気になって、現代社さんにお願いして「正誤表」送っていただいた。
「正誤表」に従って「第1版1刷」を訂正しつつ再度、『哲学・論理学原論』を読み返した。
『哲学・論理学原論』、自身の実力からはまだ早いとの思いでいたのだが、二度三度と読むと説いていただいていることが、なんとなくではあるがイメージされ、こんな理解で果たしていいのか!?との恐さはあるものの、自身の南郷先生の著作の理解の浅さ不十分さが痛感され、くり返し読むことで何としても分かりたい、分からねばならない、との思いへとなっていっている。
例えば、学的な学びの出立時に必須のものと以前より説いていただいている「唯物論」について、これまでの「唯物論」は素朴な唯物論であって「本物の唯物論」はそんなものではない、とも説いていただいていて、自身でも「素朴な唯物論ではダメ!」と思っていた、「と思っていた」ということの中身は不十分というか何も無いということに、『哲学・論理学原論』の「第二編 哲学・論理学・弁証学・認識学を論じる」「第三章 論理学とは何か」「第二節 概念化できるようになるための頭脳力の養成過程を説く」の「(1)学問を志すにはまず唯物論が分からなければならない」以降で説かれる「本物の唯物論」を読むと気づかされる、「本物の唯物論」とはこんな凄い実力を要するものであったのか!?と説いていただいていることに心底驚かされるとともに、自身の不十分さ学びの浅さを骨身にしみて感じさせられ、である。そのことで、南郷先生の他の著作もまた、『哲学・論理学原論』がその本質論としてあるのだと思え......。
こんなに凄い『哲学・論理学原論』を再度、再々度、読む機会を与えてくれた「重大な校正ミス」のあったことに、現代社編集部の皆さんに心からの感謝の気持ちでいっぱいになった。
これは、決して皮肉では無く、それがなければ絶対と言っていいほど、『哲学・論理学原論』を後数年は読み返すことが無かったであろうから......。
通常は、校正ミスは「正誤表」の添付で終わり、であると思っていたのだが、現代社さんの真摯な姿勢に......。