鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

人類の認識の発展から視る東洋医学とは何か〜対象を考える二つの筋道〜

2020-03-09 12:42:00 | 鍼灸理論・東洋医学
 東洋医学の論理のレベルから東洋医術の問題を考える。

 『全集第三巻』で、東洋医学の中身(論理のレベル)を説いていただいてる。

  「この医学(......東洋医学)は、まず身体に表れている面から病気を見てとります(身体の内部、つまり実際の筋肉や骨や、特に内臓の実体には分けいらないのが、いわゆる東洋医学の成立過程です)。確かにそれでも病気はある程度は治せるようになりますが、病気とは何かの過程性を生活中心に見るだけに、内部の状態をまともに知ることはどうにもできないのです。だから東洋医学では、薬も対症療法の薬はなかなかに処方できず、身体の根本から治す薬に必ず重点をおくことになります。」

 説いていただいていることを東洋医術で考えてみると、例えば手技療法術の施術では風邪(やその他の病)を、身体の中で何が起こっているのかはさておき身体に表れているコリやハリあるいは姿勢や動きの歪み等から風邪(=病)をみてとり、そのことが身体の内部で起こっていることの原因であるのか結果であるのかもさておき、それらの歪みを整えていくことで病を治す、というか治っていくことを願う、ということになる。

 東洋医学の場合は、対象の現象の構造に分けいっていくのではなく現象レベルでの深まりを持つことになる。あるいは現象レベルでの構造に分けいっていくというべきか。

 こうのべると、もしかしたら東洋医学でも五蔵や経絡といった形での対象の構造への分けいりが成されている、との反論があるかもしれないが、五蔵や経絡等はあくまでも、身体に表われている面から、身体の内部はこうなのではなかろうか?と想像し、こうに違いないと観念論的に考えた(決めつけた?)ものであり実際に解剖によって内部が確認されたものではない。古代中国という時代にあってはそれは望むべくもなかった。(観念論の成立過程)

 対して、そこを西洋医学として究明していくと、神経や筋肉、骨、内臓とのつながりとして解剖して、身体に表われている歪の内部はどうなっているのかを見ていくことになる。

 しかしながら東洋医術においては西洋医学的に身体の内部の構造に分けいっていくということがそれほどに意味がない。なぜなら東洋医術の技というものは鍼や灸であり素手での指圧や整体であるから対象の究明が現象論から構造論へと、身体に表われているものから内部へと深まっていったとしても、その深まりに見合った内部への働きかけができ難いという面があるからである。

 現在、東洋医学の世界では東洋医学というものを考えるに、東洋医学として昔から伝わっている知識や技を「効果があるのか?ないのか?」という事実レベルから考えて効果があるからにはそれは正しいに違いないと強弁するか「経絡は線路で経穴は駅」という喩え話をしてそれだけで何か対象の構造を説いている、対象の構造に分けいっていると錯覚してしまっている、としか思えない。

 確かに昔々から伝わってきていることを、事実レベルでその成否を試してみることも必要には違いないけれども、それだけでは不十分であり、もっといえば、そのことで問題を解いたつもりになってしまっているから東洋医学の諸々の問題には少しも答が出ないのだ、と思われる。

 ではどうすればよいのか!?端的には一般論から考えるということが、より具体的には人類の精神の歴史性から、東洋医学の論理のレベルから考えて、伝わっていることは何なのか?を思惟していくことである、と思う。



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