鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「本と標」(1)〜その意義〜

2020-05-29 21:52:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
 『黄帝内経』で説かれる「本と標」について、自身は、余りに低く見過ぎていた。別言すれば、古代中国という時代・社会ということを無視しての捉え方であった、と思える。

 「本と標」について、鍼灸の教科書等では、「本治法と標治法」の様に非常にレベルの高いものとして説かれる。例えば、「証と症(つまり本と標)は、原因と結果ではなしに本質と現象である。」(竹山晋一郎)と説かれる。

 これについては、古代中国という人類として幼い時代の、認識の直接性である言語表現を、現代の大人になってしまっている人類のレベルから、見てしまっている誤謬であると自身では捉えていた。

 本質(と現象)という様な抽象的な認識が古代中国という時代の人類に可能であった筈がない。

 別言すれば、古代中国という物質的なもの等が幼い時代に、認識だけが現代と同じレベルであった、高度に発展していたというアンバランス、「カラダは子供、アタマは大人」という状態は、空想的には可能であっても、現実には有り得ない、と自身では捉えていた。

 それはそれで正しい、と思えるが、逆に、古代中国という時代にあって、それまでは、一重のものとしか見ることの叶わなかった病を、「本と標」との二重性で捉えられるようになっていったということの凄さを、より詳細には、誰もが一重のものとして見ていた、見るしかなかった病というものを、「本と標」との二重性で見てとって、それまでの病を一重性で見ての治療では治せなかったものを、病には病単独である病だけは無しに、本の病があっての、その結果としての標の病である場合があるから、その場合はまず本の病を治すべし、としての治療を行えた。

 それ以前に、無限といっていいほどの治療の積み重ねの結果として、それまでは誰もが一重のものとしてしか捉えられなかった、病を「本と標」の二重性として捉えることが可能となっていった、ということの凄さを分かっていなかった、のだと思える。


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