『名人たちの経絡治療座談会』(医道の日本社)を読み進めている。現代鍼灸の世界に比しての、その学びの広さ深さ、論理性に感心させられるとともに、何故に科学的鍼灸論としてそれが結実しなかったのか、と残念に思える。しかしながら、それもまた時代性ゆえ......と。
『名人たちの経絡治療座談会』を読むと、鍼灸、東洋医学に関わる諸々の重要問題を、文献に当たり、そのことに関わる鍼灸の実践をしっかりと持ち、東洋医学的にだけでは無しに西洋医学的にも検討して、なおかつ唯物論的弁証法の適用によって究極して行こうとしている。にも関わらず現代においては、鍼灸術として経絡治療を受け継ごうとする人々はあっても、理論的にという人々は存在しないが如くである。
それは何故なのだろうか?何が不足しているのだろうか?と不思議の思いがしないではない。詳細には改めての予定であるが、それは端的には、認識論と弁証法の実力不足である。と思える。
そこをアバウトには、認識論的には、「古典に還れ!」と言いながら、古代中国という時代、社会に誕生させられた、例えば『素問・霊枢』を、現代の自分達のレベルで見るのみで、決して残された言葉の背後の像に迫っていくというプロセスが無い。
また、弁証法にしても、知識的に鍼灸・東洋医学にそれを当てはめようとするばかりで、弁証法の適用の二重性すら無く、まるで「プロクルステスの寝台」の故事そのものである、と思える。
詳細は近いうちに、と思う。