goo blog サービス終了のお知らせ 

「股関節重心」と「お灸セルフケア」でコリ・痛みの無い身体に

コリと痛みの無い身体へと自身の身体を変えていくプロセスの記録とお灸セルフケアについて

陽明門の逆さ柱の理由に関わって思うこと〜完璧を目指すべきで無い理由〜

2016-12-13 20:48:44 | 日記
日光東照宮陽明門の逆さ柱の理由、「物事は完璧を目指してはいけない。」の弁証法的な、また鍼灸・手技療法的な捉え返し。

日光東照宮陽明門の逆さ柱の件は、有名な話であるから改めて説く必要も無いのであるが、端的には、完成されたものは崩壊、衰退していくしか無いのであるから、あえて不完全な部分を作ることで逆に永遠の存在としようとした。ということらしい。

これは、弁証法的にいえば、事物は必ず弁証法性を持って生成発展成熟衰退消滅していくものであるから、東洋医学的にいえば、生長化収蔵の過程性を持つものであるから、成熟・完成したものは、後は衰退・消滅の過程を辿るしかない、ということであると思う。これは、日光東照宮陽明門の逆さ柱の理由そのものであると……。

では、鍼灸・手技療法で考えると如何なることになるのかが肝心の問題である。例えば、ということで昨日のmさんへの施術で考えて見る。

昨日のmさんへの施術で「やり過ぎ、解し過ぎは良くない。」と思い止まったのは「物事は完璧を目指してはいけない。」ということの一つのありかたと言えなくも無いが、自身の認識を振り返ると、「解し過ぎると、翌日に疲労感が強く出たり、場合によっては返って痛みが出たりするから……」という経験によるものでしかないので、そのことを如何に高く見ても経験則のレベルでしかないので、これはこれで間違いでは無いと思うのであるが、「物事は完璧を目指してはいけない。」という対象の弁証法的な見方からすると随分と論理のレベルは低い、と思える。

では、「物事は完璧を目指してはいけない。」という弁証法的な見方からmさんへの施術を考えて見ると如何なることになるのか?

例えば、mさんの肩凝り、肩凝りを完璧に解そうと施術をしていくと、その根本的な原因として、腰や手の張りやコリという問題が浮上して来る。それらの根本的な原因をそのままにして、肩凝りを完璧に解そうとして見ても、結局は、「解し過ぎると、翌日に疲労感が強く出たり、場合によっては返って痛みが出たりするから……」となってしまって行くだけで……。

ここは考えて行くと、この記事を書き始めた時に思いもしなかった構造がある、と思える。端的には、患者mさんの身体の回復過程は弁証法性そのものであるから、その弁証法性を持つ回復過程に関わって行くのに、形而上学的な完璧を目指す施術では………。

この問題はここまでとして、改めて説きたい。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。