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乳がんになってスピリチュアリズムに出会うVol.2

スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています

過ちを犯すとバチが当たるか

2017-08-05 20:15:00 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
罰にもいろんな種類がある。

のけ者にされるのも罰である。

みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受けとめるであろう。

みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。

良心の呵責によって罰を受けることもある。

何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。

それはすでに説いた因果律の一つのパータンである。

たった一回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。

何もかも狂ってしまう。

悩みの絶えることがなく、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。

晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。

生涯を振り返って、何のために生きて来たのかわからないということになる。

これも又、罰である。

反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。

その気分が周りの人にも好感を与え、何をやってもうまく行くようになる。

晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。

善い行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。

精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。

人間は誰しも過ちを犯す。

が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。

たとえば生体解剖と、毎年英国だけで五百万回も行われている動物実験(うち八十パーセントは麻薬なしで)は誰が何と言おうと悪である。

「その実験のおかげで英国人の健康が増進される」などという弁解は私には通じない。

私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。

英国は今や病人の国である。

真に健康な人が実に少ない。

大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。

どう弁解しても正当化する答えにはならない。

人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使いわけるのも悪である。

そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。

商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は一つでなければならない。

人道的に不正なものが商道徳上で正しいはずがないのである。

私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。

第一、すべてに適用できる定まった掟というものは有り得ないはずだ。

所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。

人喰い人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰い人種にとっては悪とは言えないかもしれない。

それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手のもつ力と徳を自分のものにできると信じているのである。

それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。

が、あなたがそんなことをしたら、それは悪である。

なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。

同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人はいくら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間が動物を保護する立場にあること、人間の得手勝手で無理やり飼育し、し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならば、あなたにとって肉食は悪であることになる。

このように、万人に共通した善行とか悪行と言うものはない。

では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は〝あなたの動機に照らして判断せよ〟と言いたい。

そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。

動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。

もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。

その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。

たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へと導く。

因果律が自動的に罰をもたらすのである。

そこであなたは尋ねるかもしれない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。

最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。

そんなことは絶対にない。

が次のようなことは必ず体験させられる。

まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに、あなたの送った地上生活を振り返る。

正しかったことも間違っていたことも、細大もらさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。

ここでこんなことをしたからああなった。

といった調子で背後霊から説明をうける。

それが終ると、背後霊と相談の上で、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息をとり精神統一をしながら調整する。

やがて霊的な準備が整う。

指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。

それまでに何世紀も経っていることもある。

いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入っていく。

宇宙学校の第二学期が始まったのである。



コメント (10)

自分の運命を築く

2017-08-03 20:35:41 | シルバーバーチの霊訓
いかなる人間にも必ず試練と困難 すなわち人生の悩みが訪れます。

いつも日向ばかりを歩いて陰を知らないという人は一人もいません。

その人生の難問がどの程度まで あなたに影響を及ぼすかは あなたの霊的進化の程度にかかっています。

ある人には何でもないことのように思えることが あなたには大変なことである場合があります。

反対に ある人には大変な問題に思えることが あなたには 些細なことに思えることもあります。

各自が自分なりの、運命を築いていくのです



コメント

いつも希望を抱く . 2

2017-08-01 17:00:32 | 私は霊力の証を見た M・H・テスター著
されど若し希望と恐怖が、
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。

ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。

この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。

すなわち希望である。

希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪責感と死後への恐怖を取り除き、憤満と挫折感を和らげてくれる。

無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。

私は患者からいろいろと教えられる。

心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。

患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる―少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。

その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。

病気そのものが少しでも良くなることを期待する。

つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。

これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。

一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。

なぜその程度のことしか期待しないだろうか。

なぜ逞(たくま)しい健康を要求しないのだろうか。

健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。

そうでない状態はみな不自然なのである。

そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。

宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。

その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。

だから病気も苦悩も神が授けるのではない。

人間の誤った生き方の産物なのである。

ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当たり前で正常なことのように錯覚している。

赤ん坊を見るがよい。

健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を十分に具えて生まれてくる。

それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。

サリドマイド児がそのもっとも恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。

が、その他にも、あまり問題にされていない恐ろしい不自然な行為が横行している。

母乳で育てることを拒否する母親の出現がその一つである。

体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。

理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。

が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。

すると赤ん坊は本来は子牛が飲むべきミルクで育てられることになる。

その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。

もしかしたら放射性物質によって汚染されているかもしれない。

あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。

人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。

赤ん坊だけではない。

その後の離乳期から大人になるまでの食世活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。

肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、化学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。

その肉のもとになる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。

薬と化学的添加物によって不健康に肥(ふと)らされているに相違ない。

そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。

小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。

天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。(最近では無精白粉も多く使用されている―訳者)

食料品は着色料、香料、その他の化学的添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。

二十世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食料よりも、車にいれる燃料の品質向上のほうに一生けんめいである。

頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。

それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。

さらに常に身体を清潔に保つ必要がある。

が、もう一つ大切なことは、なるべく健康のことを考えないことである。

あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。

あまり健康状態を口にしないほうがよい。

少々の不調や不快は気にせず、そのうちよくなると思うことである。

類は類を生む。

健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。

不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。

悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。

その子の名前は悲劇であったり、不機嫌であったり病気であったり悲観主義であったり失敗であったり落胆であったりする。

からだの健康は心の健康と同じく生きる姿一つで変化する。

医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。

身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。

健全なる精神―常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なるからだを作る。

本当の医者は教師でなければならない。

健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。

病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。

今や知識は十分にある。

無数の人生の指導書があり医学的知識がある。

不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。

それをまず私はまず子供の世代に要求したい。

子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。

憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。

じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ〝不調和〟と言うものに拒否反応を示す人間に育てよう。

また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。

そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻みこむように心がけよう。

「神の如く汝もまた幸いなり」


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