憲法九条やまとの会

今、日本国憲法九条改憲を止める
 ・・・平和を望み、維持したい・・・

憲法しゃべり場の記録その1

2009年10月30日 | 私たちのイベント情報

2007年06月07日

憲法しゃべり場の記録

-2006.4.22〝リレートーク,& 6.2〝しゃべり場〟から-

憲法九条やまとの会では、市民それぞれの九条にかける想いを大切にしたいと思っています。2006年4月22日の「今、ヤマトの地から九条を」発足集会でのリレートークや、6月3日「九条しゃべり場」では、様々なお話が聞けました。
貴重な体験談といろいろな意見を広く知っていただきたいので、ここにそのご発言の要旨を載せます。どうぞ、お読みになってください。

「今、ヤマトの地から九条を」発足集会でのリレートーク
2006.4.22 保健福祉センター
イさん 女性
日本の経験した戦争で人の命が奪われ、イラク戦争では多くの人が傷つけられ、私と似たような年齢のアメリカの青年が戦場に送られて身も心もぼろぼろになって帰ってきていること。私はこういったことを学んできて、戦争という暴力で解決できるものは何もないということが解ってきたのです。ですから、結論だけを叫ぶデモや抗議行動では、伝えられることに限界があると思います。結論を叫ぶのではなく、なぜそう思うのか、理由を伝えることが必要だし、そういった社会運動が必要とされていると思います。

ロさん 男性
科学技術関係の翻訳、著述を業としております。「学童疎開体験」という本を自費出版し、1998年に第一回「日本自費出版文化賞」の大賞を受賞しました。
私は昭和一桁生まれの世代です。戦争中は朝から晩まで毎日歌を聞かされていました。当時は他に娯楽が無かったと言えるでしょう。文部省唱歌、戦時少国民歌謡、国民歌謡、軍歌など多数ありました。今日は戦争中の雰囲気を伝えたいので、いくつかの元歌と替歌を紹介します。
元歌「太郎よ花子よ、良い子ども、丈夫で大きく強くなれ。お前が大きくなる頃は、日本も大きくなっている、子どもよ、大人を超えていけ」、替歌「太郎よ花子よ、不運の子、丈夫で大きく強くなれ。お前が大きくなる前に日本は小さくなっちゃった、子どもを大人は騙すなよ」です。
更に小さい頃の歌です。元歌「僕は軍人大好きだ、いまに大きくなったなら、勲章つけて剣下げて、お馬に乗ってハイドウドウ」、替歌「僕は軍人大嫌い、いまに小さくなったなら、おっかさんに抱かれて乳飲んで、一銭もらって飴買いに」
 当時の歌の中には校長が教え子に進んで死ぬことを教えた歌もあります。「勝ち抜く僕ら少国民、天皇陛下のおんために死ねと教えた父母の赤い血潮を受けついで、心に決死の白だすき、かけて勇んで突撃だ!」。この歌詞は京都のある国民学校(現在の小学校)の校長先生の作詞です。
また校長が国民学校(現在の小学校)の卒業式のはなむけの言葉として「征け、戦え」、その後に「死ね」と言いました。戦争中だから、「戦え」までは良いとしても、その後に「死ね」は酷すぎます。しかしそんな学校もあったのです。そんな特異な時代の教育と雰囲気を紹介しました。

ハさん 女性
 被爆体験をし、相模原原爆被災者会。
先日、国連で60年たって初めて原爆展と被爆者の証言をする機会があり、私も話してきました。私は、原爆のとき12歳、女学校1年生でした。1,2年生は殆ど全滅しました。この写真は谷口君16歳、郵便配達をしているときに被爆しました。背中が赤く焼け爛れています。当時、木の葉のように飛んでいったものがある、それは直前に話していた子どもさんでした。
戦争はなくさなければなりません、日本は戦争をしてはいけません。

ニさん 男性
 昭和35年から厚木基地爆音防止期成同盟をやってきました。この4月20日は、爆音がうるさかったですね、事務所で測定してくれた人がいました。この日の12時30分から50分の間、33機が飛びました。100デシベル以上が22回、95デシベル代が7回です。殺人的です。
基地は戦争の道具です。私たちは46年も前から、基地に苦しめられています。戦争は多数殺人かつ大量破壊の暴力です。平和は人間の生活基盤、人類の財産です。今こそ、憲法九条を大切にしなければならないと思います。本日は、民衆の決起で、改憲と戦争を阻止することができるかどうか、という集いです。
キューバ危機を当事者として経験した故ケネディ大統領はこう言いました。
「人類は戦争に終止符を打たなければならない。さもなくば、戦争が人類に終止符を打つだろう」と。
皆で、平和をしっかり抱きしめ、頑張りぬきたいと思います。

ホさん 女性 
 大学では開発経済を学ぶ。大学に入ってから3年でインドを5回訪れ、いろいろな人と出会う。現在、山谷の路上生活者自立支援のNPOで活動している。
昨年の11月頃から、「NO war YES」という企画を立て、学生仲間一人一人がそれぞれの地域、家族や友達など身近な人たちと戦争の話をする場をつくろう、個人として戦争をしたい、したくない関係なく「戦争」について話をしてみようということを呼びかけ、地道に活動している。
 集会に集まった方々へのメッセージとしては、参加することで安心するのではなく、自分自身が自分の言葉で思うことを人に話していくことをしていってほしい。以前、聞いた言葉で「憲法を活かす」という意味で「活憲」という言葉が、たくさんの人たちの中に根付いていくよう、一人一人が声を上げていくことが必要だと思う。

ヘさん 男性 
 経済学部大学生。「性」に関して真面目に語る場を開催。趣味は料理とお昼寝。
 僕は絶対戦争をしたくない、殺したくないし 殺されたくありません。九条を一所懸命勉強するまでは、日本はアメリカから酷い目にあったんだとしか思っていませんでした。
 中国や韓国で酷いことをしてきたことが、本当には分っていなかったんです。教科書にもほんの少ししか書いてないし。想像して欲しいのは、自分の大切な人が殴られて後に仲良くしようといわれても、簡単に許せるはずがないじゃないかということです。過去があって現在があるのだから、隠していくことはおかしい、と。
それからお願いしたいのは、「若い人は何を考えているのか分らない」とよく言われるけれど、大人の人が話してくれていないじゃないか、だから「話してはいけないんじゃないか」と思ってしまっているんだということです。だから、若い人に、自分の子どもや孫に、いろいろと話してやって欲しいと思います。

トさん 女性
私は、大学4年生です。有機農業や森林問題を中心に、体を動かしながら人と出会いながら環境問題を学んでいます。私も「NO war YES」の活動をしています。ここから見まわしてみて、私と同じ大学生ぐらいの人が見えないのが寂しいです。
 今、何か日本にとって都合の良いことだけを言っている人がいます。それから9条改憲にしても「あの人が改正に賛成だから賛成する」とか、逆があるかもしれないけれど、おかしいです。一人ひとりが、どうして九条改憲に反対なのかを十分に考え、人に伝えていくことが大切なんだろうと思っています。
 自分に関係がないと思っている人が多いですが、それでも自分と戦争について考える方法はあると思います。広く自分の子、孫にも伝えていくことが大切だと思います。お願いします。一緒にがんばっていきます。

チさん 男性
 1943年、15歳で予科練に志願、海軍飛行兵になる。1トン爆弾をつけた人間ロケット機に乗って体当たりする特攻隊員となり、訓練中に敗戦。大和市平和事業語り部。
今日は、私がどうして、またどんなきっかけがあって語り部をするようになったかを話します。弟の話です。僕は15歳で予科練に行きました。まだ弟は生まれていなかったから、戦争がつづいて僕が死んでいたら弟に会えなかったと思います。
弟は産院で、その日の朝生まれたのですが、母は会わせてもらえないでいました。父は、あの時代ですから夕方ようやく病院にいけました。その時のことです。父は、赤ん坊も見ないうちに医者に呼ばれました。そして「お宅のお子さんは御国の役に立たないから始末しましょう」と。中指と人差し指が両手とも癒着していたんです。鉄砲の引き金を引けないんです。
母が、朝産んだのにまだあわせてくれない、と父に訴えたところ、父は医者に言われたことをポロっと言ってしまった。母はすぐに医者の所に行って食ってかかり、さんざん暴れたそうです。兄は予科練にいっている、何とか生かして欲しいといったんです。それて弟は殺されずにすんだ。
私が伝えたいのは「お国のために」というのはどういうことか、と言うことです。今「国のために血を流せ」なんていう人がいますが、実態はこういうことです。
この話は、父の13回忌に、妹から陰に呼ばれて聞いた話です。妹は当時女学生になっていて、よく覚えているということでした。父母は、このことを戦後もまったく話してくれませんでした。とても辛かったのだと思います。僕は志願して予科練にいったけれど、弟は「お国のために」生まれたあとすぐ殺されるところだったのです。
それが、僕が語り部になったきっかけです。

リ 女性
 大和市在住12年、中学生の娘らがいる。
父は南方に行きました。母は東京大空襲で焼け出されました。でも両親が私にそんな事実を言ったのは40年もたってからでした。子どもは「嘘みたいだね」と言っていました。母は「本気にしてもらえないかもね」といっていました。戦争放棄、もう戦争はしないという時代に私に生まれました。
年老いた母は、イラクに自衛隊が派遣された時、私の子つまり孫が徴兵されるのではないか、と心配していました。それでこの会に入りました。

ヌ 女性 
牧師。「基地・自衛隊問題小委員会」委員など。
宗教が目指すことは本来、一人ひとりの心を大切にして、様々な違いを超えて、助け合うようにすることだと思います。今、尽くそうとしているのは、在日米軍の再編問題です。座間にアメリカ陸軍の司令部がきて、横須賀には原子力空母、沖縄では普天間基地が使い勝手が悪くなったのが本当の理由で代替基地ができます。
 つくづく感じるのは、戦争反対の志を示そうとする人に対して、すごい勢いで活動しにくくさせている、大変な時代だということです。例えば「共謀罪」が作られようとしています。犯罪の一部も用意もしていないのに、言葉があったとして捕まえるものです。いくらでもでっちあげをすることができます。治安維持法以上です。
先日、年をとった人に聞きました。治安維持法違反のときは、モガとかモボといっていた時代で、不安を感じた人は余りいなかったということです。今の時代に同じことが繰り返されてはいけません。今こそ、共謀罪も九条改憲も、声を上げて危険性を伝えていきたいと思います。

ル 男性
 今日は、会議がいろいろあって遅くなってしまいました。長く保守系といわれる会派で議員をしてきました。私は、今から60年前、昭和20年に川崎の国民学校(現在の小学校)を卒業したはずですが、卒業式がありませんでした。大空襲で校舎が焼けてしまったんです。
それから40年たって、そろそろ小学校の卒業証書がほしいなぁと思っていました。そしてようやく、40年目にその小学校で卒業証書を授与されました。そのときの感激は、今でも忘れません。昭和20年の3月、戦争がなければもらっていた筈の卒業証書でした。
憲法9条、大変なものです。戦争をしない、したらいけないと書いてある。戦争というのは人の命ばかりでなく、人の心まで傷つける。私は、今年73歳になりますが、 戦争は嫌です。戦後、日本がなんとか守ってきたことを、世界の人々に叫び、誇りとすべきです。「戦争」という言葉が死語になればいいなと、この地球上から無くなればいいなと思います。
どうかこの「今、ヤマトの地から九条を」の言葉どおり、戦争を止めるために協力していきましょう。


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