333ノテッペンカラトビウツレ

 奇跡は 誰にでも 一度おきる だが おきたことには 誰も気がつかない

徹夜っ子の優越感

2008-04-08 01:30:43 | SP(Standard Program)
●その昔、まだ世界に今ほど多様なメディアがなかった頃「なぁ、昨日の“ひょうきん族”見た?」という会話が成立しました。大勢の人が同じテレビ番組を観ていて、次の日はその話題で盛り上がることが出来る。しかし、今は世の中のメディアや好みが多様化してしまったため、左様なことは起こらなくなってしまいました。

●・・・というような論旨の文章をこれまでに幾度となく見てきました。この意見に異論はありません。その通りだと思います。しかし、では何故、以下のような文章が出てこないのでしょうか?

●その昔、まだ世界に今ほど多様なメディアがなかった頃「なぁ、ドラクエどこまで進んだ?」という会話が成立しました。大勢の人が同じTVゲームを遊んでいて、次の日はその話題で盛り上がることが出来る。しかし、今は世の中のメディアや好みが多様化してしまったため、左様なことは起こらなくなってしまいました。

●上記のふたつの文章は同じことを言っているだけなのですが、何故か「かつて多くの人が同じ番組に熱狂した」という記憶だけが引き継がれ、「同じゲームで熱狂した」という記憶はそれほど引き継がれていません。「俺、昨日、ナジミの塔に行ったよ」「ええ!まだ、そこなの?」という会話は一時期、子供たちの間で頻繁に繰り返され、そこにまつわる噂は子供たちを過剰な熱狂にさらしました。いとうせいこう氏の小説『ノーライフキング』はTVゲームが子供たちにとって圧倒的な巨大メディアだった時代を感じさせてくれる名著ですが、現在ではそのような状況はあまりないようです。

●別に筆者はゲーム好きでも何でもないので、ここでゲームの詳しい話をする気もなく、また急にコメント欄でゲーム談義をされても困るのですが、「大勢の人が同じものを観ていた」という事実だけが残り「大勢の人が同じものに挑み、各人で進捗に差があった」という事実が消えるのが少しさみしいのですよ。あの当時はクラスの中に徹夜をしてゲームに挑む者がいて、多くのクラスメイトが2時間分しか進んでいないところを、そいつだけが8時間分ぐらい進んでいたりするわけです。また、どこかしらで謎が仕掛けられていたりすると、ある者は謎を解き、ある者は同じ場所を回遊していたりするケースも発生しました。しかし、彼らはみな同じ道を進んでいる渦中にあったわけです。

●大勢が同じ番組を観た記憶の消滅は、同じゲームを遊びながらレベルや進捗に差があったという記憶の消滅でもあります。もしかしたら子供に大人気の本『ハリー・ポッター』の新刊発売時には似たような現象が発生しているかもしれません。物事が多様化し、各人の好みが細分化することで、子供たちの中の“TVゲームのメディア・パワー”はどのように変化しているのか・・・・・・朝、通勤電車の中で一心不乱にゲームをしている大人を見ながらそんなことを考えました。また、明日。

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