333ノテッペンカラトビウツレ

 奇跡は 誰にでも 一度おきる だが おきたことには 誰も気がつかない

ふたりのアドルフに告ぐ

2008-06-30 01:32:11 | SP(Standard Program)
●雨だというのに、日曜だと言うのに仕事に借り出され、何かしらんままに休日が過ぎ、観ようと思っていた映画は観れず、腹いせに輸入DVD屋で『ブレードランナー 5枚組みブルーレイセット』を買ったはいいが、ブルーレイの機械はなく、懸案のデジカメを買うか迷っていたら店員に「閉店時間です」と言われ・・・みなさん、素敵な休日をお過ごしでしたか?

●人間の善意は必ずしも善き結果を導くとは限りません。その逆もまた然り。善意が寄せ集められた結果、巨大な悪意が誕生することだってあります。

●1944年の年末。敗戦の色が濃厚なドイツでナチスの幹部たちは頭を抱えていた。首都ベルリンは度重なる空襲で瓦礫の山同然で、認めたくはないが勝利の文字は遠くに消えつつある。そこで、幹部たちは来るべき元日に総統のパレードと演説を民衆の前で行い、戦意高揚をはかるという計画を思いつく。しかし、肝心の総統の体調は最悪で、ご機嫌はもっと最悪だ。そこで、ユダヤ人収容所からひとりの男が移送された。彼の名はアドルフ。総統と同じ名を持つこの男は、彼らの言う「ユダヤ人問題の根本解決」が実施されるまでは有名な舞台俳優だった。彼は総統を指導する。力強く、民衆を鼓舞し、自分たちの国がこれからも勝利に向かって邁進していくと信じさせるために。しかし、それは彼の同胞たちの“死”も意味する。ふたりきりの部屋で向かい合うふたりのアドルフ。そこで芽生え始めたのは“友情”か、それとも・・・

●夏の終わりに公開になる映画『わが教え子、ヒトラー』は、「かつてヒトラーに演説を指導した人物がいた」という史実を基にイメージを膨らませて製作された作品です。主人公のアドルフは、ヒトラーへの演説指導を通じて、“愛に飢えたひとりの男”としてのヒトラーと、“自身の同胞を虐殺した悪魔”としてのヒトラーの間で引き裂かれます。彼が善意を見せてヒトラーを指導すれば仲間が死に、彼が悪意を見せようとすると哀しいひとりの男が目の前に立ち塞がります。

●映画は全編に渡って、善意と悪意が互いに思わぬ結果を生み続けていくため、予想しているとは思いますが、コメディとして描かれます。妙な状況や展開の連続でゲラゲラと笑っていると、その間に事態はより深刻な状況へと進んでいくわけです。指導者を演じたウルリッヒ・ミューエは昨年公開された傑作『善き人のためのソナタ』に主演した俳優ですが、あの作品も「悪意が転じて人間を救う」という物語でした。

●映画のラストに壮大な“悪意”が描かれます。それがどんな内容かは劇場で確認していただきたいのですが、同時に画面を眺めながら「これは善意ではないのか?」という考えが頭をよぎります。非道な独裁者の裏の顔を知ってしまった男にとって、彼の本性を暴くことは「悪意」のように見えて「彼の心の叫びを代弁するという善意」ではないのかと、映画を観ると考えさせられるからです。善意も悪意も、システムを通過した瞬間に別のものに変わることがある。これは特定の独裁者について描かれた映画ではなく、普遍的なテーマをもった作品だと思います。というわけで、大人の観客の方は是非、劇場で御覧ください。

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