ジョブカフェちば スタッフブログ!

ブログについてのご意見・ご感想は、メールで jobcafe@ccjc-net.or.jp まで

12月14日(水)業界・職種理解セミナー:トークライブラリー【障害者支援の仕事】

2011年11月30日 | 新着イベント

今年最後の業界・職種理解セミナー「トークライブラリー」は、

人を支援する仕事の世界(障害者支援の仕事)

と題して、「社会福祉法人 まつど育成会」さんがいらっしゃいます!

施設入所の支援、生活介護、相談事業を行っている法人です。

採用担当者と先輩社員の熱いお話が聞けますよ!

http://www.ccjc-net.or.jp/~jobcafe/job/seminar/talk.html

 


豆タン、オススメのメッセージ スタートトゥデイ社長 前沢友作氏

2011年11月29日 | まめたん、オススメのメッセージ

皆さん、スタートトゥデイという会社をご存知でしょうか。

アパレルのインターネットショップZOZOTOWNを運営している会社と聞けば、あぁという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

会社としても、東証マザーズへの上場や売上高も急上昇しています。

前沢社長は、ただ数字にこだわっているわけではないと語ります。

 

「本当はお金のない世界にあこがれています。

 お金が存在しない世界を考えてみてくださいよ。

 自分のやったことに対する最大の報酬は人の笑顔だったり、人の幸せだったり、喜びだと考えます。

 今は、それがお金に換算されているだけです。

 本来、人が働く目的は人のため、世の中のため、みんなの役に立つためのはずです。

 自分のため、生活のため、お金を得るためではないです。

 そう思える人はすごく強い人でどこでも活躍できる人だと思っています」(日本経済新聞2011年10月11日より)

 

働く目的、働く喜びということを深く考えさせるメッセージですね。


豆タン、オススメの歴史散策 第16回「志賀直哉が魅せられた街 我孫子」

2011年11月26日 | ジョブカフェちば

我孫子は、手賀沼のほとりに開けた水戸街道の宿場町として栄えました。
また、成田山新勝寺参詣のための分岐でもある交通の要衝でした。

そんな我孫子は、眼下に手賀沼を見下ろす緑豊かな台地でもあり、大正時代、自然環境に魅せられ移り住む人々がいました。

講道館柔道を興した嘉納治五郎が別荘を構え、「民藝」の創始者 柳宗悦が住み、そして志賀直哉を誘い、さらに武者小路実篤が移り住むなど、白樺派文化人が集いました。

市内には、柳宗悦、柳兼子、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派文人たちの足跡をみることができる我孫子市白樺文学館があります。

緑豊かな自然の中で、文学に浸る、そんな贅沢な気分になれる町です。


12月7日(水)企業がやってくるDAY!【ボッシュパッケージングテクノロジー株式会社】

2011年11月25日 | 新着イベント

12月7日(水)ボッシュパッケージングテクノロジー株式会社が

ジョブカフェにやってきます。

募集職種は、機械組立工、品質検査、営業職、営業事務 です。

ご予約はジョブカフェちばまで!

http://www.ccjc-net.or.jp/~jobcafe/job/seminar/kigyo_come.html


【新卒応援キャンペーン】12月9日(金)就職GET-TOUR

2011年11月24日 | 新着イベント

【2012年新卒就職決めようキャンペーン】12月6日の就職GET-LIVEに

参加した企業10社のうち、2社を実際に訪問しよう!という企画。

就職GET-TOUR!! 

今回訪問するのは、

①ハリマ産業株式会社―ふすまや障子などの和室建具のメーカーです。関東屈指の工場と職人技は、平成17年に天皇陛下も行幸されるという折り紙つき!

②株式会社CLE総合研究所― 質の高い注文木造住宅を提供する会社です。真剣に良いものを作るという意思と、喜びと苦しみをともに分かち合う同僚がいます。

就職GET-LIVEと合わせてどうぞ!


【新卒応援キャンペーン】12月6日(火)就職GET-LIVE

2011年11月22日 | 新着イベント

2012年新規卒業予定者対象です。

10社の紹介の後、10社すべての企業と総当たりのトーク、その後

希望の企業とフリートークです。

参加企業の詳しい情報はこちら

新卒求人に応募する年内最後のチャンスです!

http://www.ccjc-net.or.jp/~jobcafe/job/seminar/getlive.html


【ジョブカフェちば出張版】12月2日(金)応募書類診断 in 野田

2011年11月21日 | 新着イベント

年末まで就職活動は気を抜かず!チャンスはたくさんあります。

12月2日、ジョブカフェちば出張版は応募書類診断 in 野田です。

応募書類を持参していただくと、おひとり20分で診断いたします。

ご都合の良い時間をご予約ください。

http://www.ccjc-net.or.jp/~jobcafe/job/seminar/syuccyou_checkers.html

 


豆タン、オススメの歴史散策 第15回「工業と軍の町 茂原」

2011年11月19日 | ジョブカフェちば

チーバくんの肩のあたりになるでしょうか、今日は千葉の真ん中、茂原についてです。

まずは茂原に人が住み始めたのは、旧石器時代(13,000年~18,000年前)のころとのことです。
市内各所から、ナイフ形石器、石の削りカス、縄文式土器の破片や土偶、縄文時代の人骨や丸木舟、弥生時代中期から後期の作と思われる土器、磨製の太形石釜、石包丁などが出土しているそうです。

また、市庁舎建設現場からはナガスクジラの化石や貝類が発見されたことから、1万年ほど前の平地部は、ほとんど海底であったと考えられるそうですが、やがて5,000~6,000年前の時代に、土砂のたい積と隆起の繰り返しで陸地化したようです。

低地部は「藻の原」だったことから、茂原という地名の由来になったそうです。


4世紀に大和朝廷が確立してからは、市内にも古墳が築かれるようになりました。中央政権の力がこのあたりにまで延びていたことを示しています。


中世になると、宝亀5年(774年)に上総介に任じられた藤原黒麻呂とその子孫によって開墾された牧野は、広大な荘園を形成するようになりました。
しかし、やがて武士階級が台頭すると没落、戦国時代に消滅しました。


戦国時代には、里見氏と北条氏が反目する中で、付近は長南武田氏、土気酒井氏、東金酒井氏と黒熊大膳(本納地域)が勢力争いをし、黒熊氏は酒井氏とともに里見氏に属し、一支城としての役割を担っていましたが、永禄7年(1564年)国府台合戦で里見方が北条氏に敗れたのを機に、酒井氏が北条側に寝返ったことから、結局、黒熊大膳は里見の援軍を迎えぬまま本納城は落ち、大膳も自害しました。

本納の蓮福寺の裏山は「本城山(ほんじょうやま)」と呼ばれ、九十九里平野を見渡せるここに黒熊大膳の居城があったとされています。


江戸幕府が開かれると、数多くの旗本の知行地として統治されることになり、今も受け継がれている「六斎市」は、このころ初代大久保治右衛門によって開かれたものとのことです。

江戸時代、この地方に関係した文化人では、赤穂浪士の処分問題にかかわった荻生徂徠が14歳から13年間、本納に住んでいました。
このころ茂原は湿地や沼が散在する原野でしたが、8代将軍吉宗が登場した享保年間から、千町野、大芝村、永吉、早野地区で新田開発が盛んに行われました。

明治4(1871)年、廃藩置県が行われ、房総地方は茂原の属する木更津県、新治県、印旛県となり、2年後、木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生しました。

明治政府は殖産興業、富国強兵を掲げ、地方での産業振興を進めました。茂原は古くから房総往還の道筋にあたり、定期市も開かれていたため、交通の要衝、商業の中心でもあり、大いに発展を遂げました。
特に交通の面では、当初2頭立ての乗合馬車が往復しましたが、やがて今の外房線となる房総鉄道株式会社、さらに南総鉄道株式会社が開業しました。


明治時代半ば、農業用水のための井戸から褐色の冷水が吹き上がったことから、天然ガス事業が始まり、以後の茂原の工業生産につながっていきます。その後、昭和10年(1935年)に大多喜天然ガス株式会社が茂原鉱業所を設けて都市ガスを供給、同時に理研真空工業株式会社が設立されました。昭和18年(1943年)に日立製作所に合併されたのがきっかけで、工業都市として発展する素地になりました。

戦時中は、東郷地区に航空隊基地が造られ、海軍飛行場(茂原飛行場)が建設されました。今でも地元には滑走路跡がまっすぐな道になっています。

戦後は、三井化学など大手化学メーカーの工場などがあり、天然ガス(ヨウ素)は千葉県全体のヨード生産量は世界全体の約4割を占めるなど千葉県の産業の大きな担い手となっています。


豆タン、オススメのメッセージ サッカー日本代表監督 ザッケーローニ氏

2011年11月18日 | ジョブカフェちば

2014年ブラジルワールドカップ出場をめざし、アジア3次予選が進みアウェーで転戦しているサッカー日本代表、その監督を務めるザッケーローニさんですが、来日以来、すっかり日本びいきで、東日本大震災のおりも、こんなときだからこそ、日本でできることをとイタリアにわずかな期間滞在しただけで戻ってきたそうです。

食べ物では、寿司が大好きで、アジア遠征では、入手できたのが米とわさびということで、わさびご飯を食べていたなんて逸話も。

インタビューや報道などでは温和な印象が強く、実際、選手との間に一線を引くよりは、近づくタイプとご自身もおっしゃっています。

 

そんなザッケローニ監督が心がけているのが、

「試合後、サポーターの元へ行くのは、ただの挨拶ではなく、

 皆さんに愛されているのを確認するためです。

 皆さんの応援はごほうびであり、

 もっと強くなろうとするための大きな刺激となります。

 皆さんに伝えたいのは、「ありがとう」の感謝の言葉です」

 

日本代表であっても、就活であっても、普段の生活であっても、愛されていること、応援してくれる人がいることというのは同様に大切なことなんですね。

豆タンも、周囲に愛されるように、また愛すようにしたいと思います。


豆タン、オススメの歴史散策 第14回「塩の道 行徳」

2011年11月12日 | ジョブカフェちば

皆さん、今日の豆タン、オススメの歴史散策は、「行徳」です。

江戸時代、幕府の天領となった行徳では、徳川家康から塩の増産を命じられ、また運搬のために新たな運河の掘削が進められました。
今でも、「塩浜」や「塩焼」など地名に名残が残っていますね。

運河は、江戸川と中川を結ぶ新川、中川と隅田川を結ぶ小名木川などが結ばれ、別名 行徳川と呼ばれる行徳と日本橋を結ぶ一大水路が完成。
運河の渡し船の独占権が本行徳村に与えられ、今も残る本行徳の常夜燈は当時の水上交通がいかに盛んだったかを彷彿とさせます。

近くの名跡にも、著名な歴史上の人物が関わった跡が残されています。

徳願寺は、信仰の厚かった徳川家康が徳川の徳の字を与えたという由緒のある寺で、徳川の「三つ葉葵」の紋処が付けられることが許されたとのことです。
徳願寺には、源頼朝の妻 政子が運慶に彫らせたとわれる本尊の阿弥陀如来像、宮本武蔵の落款がある書や武蔵が描いた、どこから見ても自分の方を見ているように感じる「八方ねらみの達磨」の絵が保存されています。

当時、宮本武蔵は、法典ヶ原(船橋市)で開墾を始めたが、ある日賊が徳願寺あたりに押し寄せてきたときに、武蔵が駆けつけてそれを撃退。村人たちの感謝のお祭りが催された日、武蔵は徳願寺のお上人に木造の観音像をわたし、旅立ってしまったとの逸話が残っています。

毎年11月16日には、お十夜の日に一般公開もされ、毎年楽しみにしている方も多いです。境内にも宮本武蔵の供養塔などが残っています。

また近所の法善寺は、宗玄和尚の開基と言われ、宗玄和尚が西国から製塩法を伝えたといわれています。
芭蕉の句「うたがうな潮の華も浦の春」が石碑として残っています。

行徳の地が古から江戸と盛んな交流があったなごりを感じさせてくれます。