北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

●うつと人口の関連:「うつ」が多いといわれる現代をどう生きるか-歴史から学ぶ-

2016年12月10日 | ●全般

今回は、木彫とはあまり関連がなく、寺社彫刻をつくった庶民の意識(下地)についてです。

知人から、なんで寺社彫刻に興味を持ったのかとよく質問されて困ってしまうのですが・・・

漢方医学への興味→原料の生薬への興味→山にいって植物を観察・採取→蝶のプロ、里山のプロと知り合いになる→山のふもとの御堂の彫物(獅子の木鼻)に目を奪われる→並行して江戸時代の庶民の行動様式に興味→諏訪立川流への興味→地元 北信濃の宮彫への興味  になってきた流れです。

江戸時代の庶民が地元の寺社の装飾にどうしてお金をかけたのか。施政者目線ではなく庶民視点の歴史の解釈が必要と痛感しています。

以前ちょっとした雑誌に投稿した原稿の一部を改変してアップさせて頂きます。長いので興味がある方だけ読んでいただけたらと思います。人口が減るということは、GDP、営業利益も下がります。今の営業最前線の若者に前年比プラスのノルマを課すことは酷と思います。

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はじめに

 日々の中で抗うつ剤を服用されている方の多いことに驚く。自殺者数はここ10年3万人強と横ばいとのことであるが、年間15万人ほどの変死者(原因不明)がいてこの中には自殺者数に本来カウントすべきものが含まれる可能性がある。また、20-30歳代の若者の死因のトップが自殺である点も注目すべきであろう。抗うつ剤使用量は増加傾向であるが、治療法に対しては専門ではないので議論は控えるが、うつが増える社会的な要因を我々はどう変えていくべきなのか過去の歴史から考えたい。

 1.きっかけ-なぜ過去に注目するようになったか-

 奈良の薬師寺東塔は天平時代の建立とされ、1200年以上前に高い建築技術が存在したことを示すものである。現在よく使用される葛根湯、麻黄湯、小青竜湯、麦門冬湯は紀元前に中国で開発されたものである。その事実に会すると古代から我々人間の頭脳、思考回路はそれほど変わっていないのではないかと思われる。アメリカの遺伝学者は人間の知能は2000~6000年前がピークで、その後低下しているとする報告もある。『歴史は繰り返す』という言葉は、裏を返せば人間は進化しておらず同じ行動パターンをとることを示しているのかもしれない。しかし、過去の過ちを繰り返さないように、先人は古文書等で未来の人間へ警告を残してくれており、我々はその資料からメッセージをつかまないといけない。それを痛感させられたことは、東日本大震災の津波であろう。貞観11(西暦869)年に陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域とされる巨大地震によって起った津波を記した古文書を重要視していれば福島第一原発の事故は防げた可能性がある。歴史を勉強することは、単なる暗記ではなく過去の人間に降りかかった災難とそれに対する解決法の記録から、現代に生きる我々にふりかかる災難の予防・解決法を探ることが大事である。学生時代に試験対策で行うことは「過去問」であろう。過去数年間の出題傾向を探り効率よく勉強しようとする。先人の残した記録(過去問)を役立てるべきである。

 私は、漢方に興味をもっており、以前に千葉の秋葉哲生先生の講演会『日本漢方の系譜』を拝聴し、江戸時代の後藤艮山(1659-1733)という漢方医が『乱世は肝胆の気うつすると云うことなし。治世には皆肝胆の気うつす。』と述べていることを知った。これは後藤艮山の口述を弟子が『師説筆記』に記録したものであるが、おそらく艮山の人生の後半である1700-1733の間に弟子が師の談話を記載されたと推定される。その意は乱世(戦国時代)には気がうっ滞することはないが、安定した世の中(治世)になってから気のうっ滞する人間が出てきているといった内容である。うつは現代病と思っていたが、江戸時代にもうつの患者がいて医師が問題視していることに驚きを隠せなかった。その講演会直後は、戦争状況がなくなって穏やかな時代になったためにうつが増えたと素直に受けとった。その後も自分なりに考えてみたところ、現代のうつ患者の増加は、第二次世界大戦(乱世)後の高度成長期(治世)では問題にされず、平成のバブル崩壊頃から問題になってきており、乱世・治世では説明がつかない事に気づいた。少なくとも1700年頃に医師であった艮山が戦国の乱世よりも100年後の時の方がうつが増えていることを述べているとことは事実である。うつが注目されている平成の今と、艮山の1700年前後の両時期に社会的な共通点があるのか私なりに検討した。その結果、人口変動の停滞が浮かびあがった。

 

2.日本の人口変化

図) 日本の人口変化 (西暦1300~、縦軸単位 万人)

 

 

 

 グラフは、1300年以降の日本の人口統計等各種統計資料から私が作成した日本の人口推移を示したものである。人口の推移を増加カーブのベクトル傾向から時期A-Fの6つにわけた。グラフ曲線の1700年、2000年以降に人口増加の停滞が認められ(時期C,F)、うつが注目された時期に重なる。まず、時期AからFの庶民の生活がどのようなものであったかを述べたい。

1)時期A  【~西暦1550】        人口水平期 

 この時期は人口が1000万人前後の横ばいで推移している。現在のような家族形態ではなく、大家族(名)が基本であり1家族27人程度であった。農業単位の集団で主従関係は厳しく、一般庶民は家抱(名子)と呼ばれた。この時代の庶民の墓が無いことは、墓を作れる状況ではなく名子は1個人の扱いではなかったことに由来する。

 

2)時期B  【西暦1550年~1600後半】   人口増加期

 戦国時代から江戸時代前期にあたる。各地の大名が自国の力を増すために米の生産の増強に力を入れ、河川の改修、用水路の造設、新田開発を行った。さらに豊臣秀吉による太閤検地により土地を耕すものが所有することになり(名子独立)、時期Aまでの大家族が解体され(名の解体)、開拓した人間に土地の収益が与えられることから新天地を求めて人間の移動が起こった(新田開発)。新田は、広い荒れ地を村の百姓全員で共同開発し完成した後に各自の持ち分を定めた。耕地面積は、室町時代の3倍になったとされる。我々が想像する田園風景は弥生時代のものではなく、この時期の開発によって生まれたものが多い。以前の住居は山麓・山間地・台地であったものが河川改修により洪水被害の減った大河川の中・下流域の平地に変わったこともこの時期である。百姓の他国移動は大名にとっては自国発展の妨げになるため引き止め政策に尽力することになり、一方的に百姓に対し権力を振りかざすようなことはしていない。このような、背景の中で庶民(百姓)の頭数は必然的に必要であり、沢山子供をもうけようとする。その結果、人口が増えた。

 

3)時期C 【西暦1600年後半から1700年前半】 人口停滞期

 積極的な新田開発をする結果、山の落ち葉等の肥料も必要になり山林の開発も進んだ。その結果、肥料不足による田畑の荒廃、山林の保水低下による洪水が発生するようになる。陽明学者の熊沢蕃山は著書『大学惑門』で新田開発を批判しており、この時期に環境保全の考えを持った人間がいたことに改めて現代人と知能は変わらないと痛感させられた。熊沢蕃山はこの先見性の考えにより弾圧され晩年は不遇であった。その後、幕府は天領に対し諸国山川掟(1666年)を出して焼畑の禁止し、以降原則として天領で新田開発が行われなくなり、諸大名も追随するようになる。戦国時代から続いた開発至上政策の転換となった時期である。

 

4)時期D 【西暦1700年から1850年】  人口水平期

 江戸時代中期から後期にあたる。1700年は元禄13年にあたり元禄文化のピークになる。このような華やかな時代であるが、医師である後藤昆山はうつが増えていると述べている。1700年以降150年の間、人口はほぼ横ばいで推移していく。

この時期は、「量から質への転換」の政策がとられた。まず、単位面積あたりの米の収量をアップさせるための品種改良、魚肥等の利用。各地域の気候、土壌に合う特産品の栽培、薬草種の海外から輸入と国内栽培(小石川薬草園の開設)が挙げられる。主に四木三草(茶・桑・漆・楮、麻、紅花、藍)の栽培が挙げられる。武士であった宮崎安貞が帰農して農業を研究し体系的な農書『農業全書』(1697年)にを世に出したことも時代のニーズに答えたものであろう。『百姓』という言葉は否定的に捉えがちであるが、『百の姓(顔)を持つ』というコメ作りだけではなく他の作物栽培、鍛冶、運送、酒造など色々なものへチャレンジし、子への教育に積極投資も行ったのが本当の姿である。

 庶民の税は四公六民(税率40%)、五公五民(税率50%)等言われているが、米収量の増加、他の作物栽培を行い実質18%程度(川中島の資料)であったと言われる。地方には貨幣経済は浸透しており比較的余裕のある生活をしていたとされる資料が見られる。時代劇で描かれた武士にいじめられる農民像ではない。地域の神社も最初は小さな祠程度であったが、徐々に本殿・拝殿を併設するもの、さらには彫刻などの装飾をつけたものが増えてきたことも地方の財力が上がったためである。

 江戸時代の農民は子沢山のイメージがあるが、それはこの前の時期Cのことであり、時期Dになると1家族に子供は2-3人であり、晩婚化も進み男性は27-30歳、女性は20-26歳で所帯を持つのが一般的で非常に現代に似ている。子への教育にもお金をかけるようになり寺子屋も盛んに作られている。食事もヒエ、粟を食べていたというイメージがあるが、ヒエ、粟の生産量はごくわずかで主に米を食べていたことがわかっている。ただし、家族内で人数調整をしていたと思われ、避妊手段のない当時は間引がかなりされていたと推定される。

 

 

5)時期E  【西暦1850~1990年】   人口増加期

 1868年が明治元年である。明治に入る少し前から人口は増加する、人口の増加が早かったのは明治維新の先導役であった長州、薩摩藩であったことも興味深い。政治が江戸の幕府・藩中心から明治政府の中央集権的な政治になり、庶民も藩から国を意識する時代になる。この時期は、明治政府の方針で江戸時代の文化を否定し西洋の産業を取り入れ、かなり強権的な政策を取っている。実際に明治時代には江戸時代を回想する言動は規制されたようで、幕末生まれの人間の多くが亡くなった大正期になって、江戸時代に関する言論もある程度規制がゆるくなり大正デモクラシーが起こった。

時期Eには日清戦争、日露戦争、第2次世界大戦があったが人口は増加傾向のまま推移している。昭和30年頃からいわゆる「高度成長期」となり、産業も第2次産業が重要視され、都市部への人口の集中傾向が高まった。これ以降は多くの方の知るところである。

 

6)時期F  【西暦1900年以降】   人口停滞期

 いわゆるバブル経済がはじけて、出生率も2以下で人口減少のステージに入ったことになる。特に産業の生産拠点が海外に移行したことが大きく、地方の振興策が後手になったため、高齢化、休耕地の増加、農業の後継者不足もあり根幹である第1・2次産業の衰退が著しい状況である。

 

3.うつが増えている現代をどう乗り切るべきか

 時期Eの人口増加期において日本は何度か戦争を経験しているが、人口の推移のベクトルが下向きに変わっていない。つまり大極的にみて戦争自体が人口増減には影響しない。結局人口の増減に直接関与するものは「一般庶民が自身の生活の中で子供を沢山必要とするか必要としないか」という判断の総意である。

 施政者が行う政策は庶民の心理に働いて間接的に大衆心理に影響する。現在、国・地方自治体は人口減少抑制政策(子育て支援策等々)として色々手を打っているが、人口減少の食い止めにはなっていない。結局、庶民の『子供を沢山生みたい』という意識に働きかけたものではないからである。国は、人口が減るのは良くないと広報しているが、人口を増やすこと(または人口数の維持)が現在の至上命題であろうか。国際化の中で、日本の工業生産の拠点が発展途上国に移行しているが、人口に関与するのは第1・2次産業であるが、第1次産業では現在の日本では農業対策は軽視されており、2次産業は海外生産に移行し空洞化が起こっている。これは人口減少政策といっても過言ではない。

 人口が増加から停滞・減少に転じた時には、人間に今までの右肩上がりの将来への期待感がなくなり先が見えない不安感が増すようになると思われる。人によっては夢を持てずにうつ反応を来すのであろう。うつが多くなるこの人口の転換期にはやむを得ないと思われるが、ここで傷を広げないように施政者の政策転換が必要である。今の人口停滞期をどう生きていくか。そのお手本になるのではないかと思われるのが1700年前後からの江戸時代である。当時の幕府は開発政策をやめて量から質を重視した方向転換を行っている。実は、時期Cの発展政策をやめた後の江戸時代には文化が熟成し庶民は幸せであった。江戸には3大改革であって幕府・旗本を中心とした財政再建が行われたが、実は庶民にとっては減税が進み庶民に富が残り地方にお祭りが盛んに行われている。つまり武士は質素・倹約生活で自身を律し結果的に庶民から無尽蔵に富を巻き上げるようなことはしなかった。一方で中世のヨーロッパでは完全に支配体制が確立し、庶民から富の完全なる搾取が行われた。これは、日本の時期Aの名主・名子制度と同じであり、日本の方が欧米よりも遥かに民主化が進んでいたと考える。明治政府の行ったことは、江戸時代の否定であり、「江戸時代は良かった」という言論を封じることもあった。我々はその流れで百姓は生活が厳しかったという誤った認識を持っているが、江戸時代の人間は生き生きと人間性のある生活をしていたと考える。また、明治以降の日本の大躍進は江戸時代に培われた庶民の能力が大きい。我々は、江戸時代に生きた先人に対しもっと誇りを持つべきであり、かつそれぞれの地域で培われてきた文化を尊重すべきである。

 「日本の総人口が初の減少」との新聞の記事があったが、現在の政府は「一億総活躍政策」として成長戦略に固執している印象である。時期Eで12000万人に増えた日本の人口は、グラフの過去からの推移をみると明らかに異常なものであり、適正な人口に落ち着くまでは減少傾向になるはずである。政府が無理な介入(人口増加政策)をするべきではないと思う。人口の減少は必然と考え、将来人口がどのくらいで落ち着くかしっかりとシミュレーションをし、人口減少による弊害を最小限に軟着陸させることが政府の使命ではないかと思う。

 地域の振興策であるが、江戸時代には中山間地に人が多く住んでいた。これは経済的にその地域で生活が出来たからである。中山間地での農業、地場産業で生活が成り立つような農産物等の価格設定・補助(後ろ向きではない)が必要である。いわゆる「農業だけで暮らせる」ことが重要である。また、この中山間地は、我々の貴重な水源であり、河川の保水にも重要な役割を果たしている。上流の中山間地の荒廃は下流(都会)にすむ人間にとって実は他人事では済まされない。水源の保持のためには、そこに人間が暮らして結果的に環境の管理・維持する必要がある

 現在は多国籍企業(multinational corporation(MNC))の時代である、国の政策がMNCの意向にかなり影響されている、TPPはその最たるものである。経済成長に我々の人生の目標を置くのは危険であり、むしろ現在あるものをいかに良くするか質を高めるかということに力を割くべきである。日本は資源がないとマスコミで喧伝されているが、日本は何もしなくても雑草が生えてくる素因(雨量、日照)があり実は資源は豊富である。

 今後も時期C以降の古文書等を検討し、庶民の意識がどうであったか調べていきたい。その際に古文書の文面をそのまま受け取ることは危険である。農民が武士に提出した文書には、わざと生活が苦しいと訴えて減税を引き出した建前があるため、実際の生活レベルが違うことがあり慎重に検討する必要がある。

 

参考文献

後藤昆山:師説筆記

熊沢蕃山:大学惑問

渡辺尚志:百姓たちの江戸時代、ちくまプリマー新書

古川愛哲:江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた、講談社新書

田中圭一:百姓の江戸時代、ちくま新書

宮崎克則:逃げる百姓、追う大名、中公新書

佐藤常雄、大石慎三郎:貧農史観を見直す、講談社現代新書


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